幽霊の日常
ぴぴぴっぴゅーぴゅるーぴゅーぴゅぴゅるぴゅ。
ぴぴぴっぴゅーぴゅるーぴゅーぴゅぴゅぴゅぴゅーぴゅー。
間の抜けた口笛の音につられ、私は気づけば民家の風呂場に立っていた。
目の前ではふくよかな体つきの母親が五歳の娘の体に泡を塗りたくっている。
「ママ笛みたいな音でるのすごいー。ユユにはできないよ」
「まあこれは難しいからねぇ。もっと大きくなったらできるかもねえ」
母親は得意げに笑いながらそう言った。自分の口笛が幽霊を自宅に招いてしまったとは気づいていないようだ。
夜の風呂場で口笛を吹くなんて馬鹿な女だ。そんなことをすれば「自分はここにいますよ」と幽霊に教え、呼び込んでいるようなものだというのに。
髪の毛の泡を流し終えたユユという名前の女の子は、そのままザブンと湯船につかる。
「ママぁ、ギガボーって言うのはねぇ、ユユが考えた世界一背の高い虫でねえ……」
そこまで話してふと顔を上げ、ユユはこちらを見る。
ここは照明がついていて明るいから、私の姿がこの子に見えることはないはずだ。
でもユユは私の気配を感じている様子だった。
「ん? どうかした?」
母にたずねられ、ユユは答える。
「んー、なんでもない」
夜になり、ユユが寝付くと母親はリビングへやってきた。
リビングはカウンター越しにキッチンともつながっており、なんとなく水回りの近辺に居心地の良さを感じる私はキッチンの流しの近くに立っていた。流しにはまだ洗っていない汚れた食器類が水につけられた状態で放置されている。きっと母親は明日になってから食洗器にかけるつもりなのだろう。水回りの汚れは幽霊を定住させやすい。
私はボーっと母親を見つめ続ける。母親は「ふぇ~い、ようやく寝たかい」などと独り言をつぶやきながら伸びをし、そのままストレッチを始めた。リビングの隣にユユが寝ている部屋があるから、母親はリビングの照明を薄暗いままにしている。おかげで幽霊の私もまぶしい思いをせずに済む。
しかし硬い……。母親は驚くほどに体が硬かった。前屈を始めたのだが、なんと九十度にさえも体が曲がらない様子だ。続いて体をねじるようなポーズをそれぞれ四十秒ずつやり、その後急に立ち上がると片足を曲げてフラミンゴのように立ち、両手を合わせて頭上に高く伸ばした。
ああ、ヨガね。少し前から流行っているやつ……。
だが少し前といっても、一体何年前からだろう、ヨガが流行り出したのは。
十年ひと昔、なんていうけれど、幽霊の私にとっては二・三十年の年月さえもほんのひと昔前のことのようにも感じられる。
私はもはや、自分が生前どんな人間だったのかさえも覚えていない。
姿が鏡に映らないから、自分の顔も忘れた。不思議とどんな時代に生きていたのかさえも思い出せない。この世にどんな未練があったのか、平凡な人間だったのか、それとも人々から特別に愛されていたのか、逆に忌み嫌われるような人間だったのか、それさえもわからない。
目の前でヨガのポーズを頑張っていた母親は、十秒もたたないうちにグラグラ揺れ始め、曲げていた片足をすぐに地面につけた。
「全然だめだ」
母親は笑いながら冷蔵庫に向かう。途中私のすぐそばをスーッと通り過ぎたが、全く私には気づいていない様子だ。
そして母親は冷蔵庫からよく冷えたレモンサワーの缶チューハイを取り出し、棚をガサガサ漁って小袋入りの小魚アーモンドを見つけると「なんだこんなものしかないのか」という顔をしながらも、その小袋を一つ手に取り、またリビングへと戻っていった。
私はじっと、母親の様子を眺め続ける。なにせ他にやることがない。
だが不思議と退屈だと感じることもない。半分眠たいような心地が死後ずーっと続いている。多分私が成仏できていないことには何かしらの理由があるのだろうが、その理由ももう忘れてしまった。とにかく自分の存在がなくなるその日まで、こうして現実の世界を傍観していることしか、私にはできないのだ。
母親はパソコンを立ち上げると動画サイトを開き、バラエティ番組を見始めた。番組では怪談破壊チャレンジという企画をやっている。怪談師が披露する怪談にお笑い芸人がツッコミを入れ、怖さと笑いのどちらが勝つかという対決らしい。
「ククク、うける」
小魚アーモンドをつまみながらレモンサワーを飲み、母親は一人笑う。
夜は更けていき、時計の針は深夜二時を回ろうとしていた。
この人まだ寝ないのか? と思い始めたその時、リビングに隣接した寝室のドアが開き、中から寝ぼけたユユが飛び出してきた。まだ夜中なのに目が覚めてしまったのだろう。
そして私の姿に気づき、悲鳴をあげた。
「ひゃああああ! ママ! ママ! おばけ! おばけ!」
「はあ?」
母親はユユの指さす方……つまり私の方を見て眉をひそめる。
「なにも、いないけど?」
「いる! 黒いのがいる……人の形してる……目がオレンジ色で黒いモヤモヤが体からいっぱい出てる!」
「ええ……?」
母親は霊感がまるでないのか、いくら目を凝らしても私が見えないみたいだ。
やがて母親は、それは娘の脳が引き起こした誤作動のようなものであるとの認識を固め、娘の手を握って言った。
「たぶんおばけ、いないんじゃないかな? ママには見えないよ」
「でも……」
不満そうに言うユユを、母親はなだめる。
「ママと一緒にお布団に戻ろうね。ユユが寝るまで一緒に隣で寝ててあげるから」
すると別室で仕事をしていた父親が部屋からすがたを現した。
「どうかしたの?」
「ユユが、おばけがいるって言うんだけど」
「どっち?」
「あそこ。流しのところ!」
そう言ってユユは私を指さす。
父親は神妙な面持ちで私のほうにやってきた。
そして私の隣に立つ。すると父親の腕にみるみる鳥肌がたっていった。
「本当だ、ここになにかいるね……」
「でしょう?」
ユユはそう言ったが、母親は苦笑いした。
「またそんなこと言って……。とにかくもう一度寝なくちゃ。ユユ、ちゃんと寝ないと明日幼稚園に行けなくなっちゃうよ」
「でも……」
「ママ明日、除霊について検索して、おばけを追い払っておくよ」
「ほんと?」
「うん」
ママの言葉を信用したユユはホッとした顔になり、ママの手をひっぱって寝室へと戻っていった。
私の横で鳥肌をたてていた父親は、そのまま廊下を行ったり来たりする。
「うん、やっぱりここだ。ここだけ霊気を感じる……」
私の隣に立ち、そう言ってうなずいている。
そりゃそうだろう。幽霊がここにいるんだから。
「悪い霊じゃないといいけどな」
そう言って父親は仕事部屋に戻っていった。
自分が悪い霊なのかそうでもないのか、それは私にもわからなかった。
翌日、母親はユユを幼稚園に送ると、その後本当に除霊について調べ始めた。
「んー、とりあえず部屋の空気を入れ替えてお掃除して、塩を盛ればいいのね!」
母親は汚れた食器類を食洗器にぶち込み、家の窓を開け放ち、小皿にザーッと塩を流し入れ、それをキッチンカウンターに置いた。
「これでいいでしょ!」
確かに母親のやったことで、私の居心地の良さは半減した。
だが塩の盛り方は適当だし、部屋の空気の入れ替えも外が暑いせいか十数分程度で終わり、流しには時間と共にまた新たな使用済みの食器が積み重ねられていった。
結果的に私がその場を離れるより前に、その場は私にとって居心地のよい場所に戻り、私がその家を離れることはなかった。
別の場所に移動するのだって労力なのだ。もっと劇的に居心地が悪くならないかぎりは無理……。面倒くさくて動けない。
そしてまた夜になり、母親はリビングでストレッチとヨガを始めた。
それをまたボーっと見つめる。私がここにいることなんて、母親は全く気にしていない様子だ。子供もその父親もこの部屋には霊がいると言っていたのに、少しは怖くならないのだろうか。
そこに父親がやってきた。
「やっぱり俺もなにかいるのを感じるからさ、神社にお祓いでもお願いしてみたほうがいいかな?」
「ええ? でも家まで来てお祓いしてもらうなんて、結構お金がかかるんじゃない?」
「うーん、まあこのサイトには五千円から一万円とかって書いてあるけどね。霊能力者に頼むともっとかかるみたいだけど……」
母親は渋い顔をしながらストレッチを続けている。明らかに、そんなことにお金をかけたくない、といった様子だ。幽霊が見えない彼女にとっては無駄金でしかないのだろう。
「あのねぇ、幽霊について調べた時にどこかのサイトで見たんだけど、超常現象を体験したと思い込む人には右脳派が多いんだって。右脳は顔認識や創造的思考を司っているから、見えたものを幽霊に誤変換しやすいらしいの」
「へえ……」
「あなたもユユも、絵を描くのが好きだしどちらかと言えば右脳派でしょう? ユユはおばけの目がオレンジ色だ、とか言っていたけど、きっとキッチンの冷蔵庫か炊飯器のランプが光っていたのをおばけの顔だと錯覚しちゃったんじゃない?」
「うーん」
父親はあまり納得できていない様子だったが、少し考えてから言った。
「まあでも、もうしばらく様子を見るか」
その答えに母親はほっとしたようにうなずいた。
「そうしようよ。そういえば前に友達の子供がユユくらいの年頃の時、部屋におばけがいるとか騒いでいた時期があったのよ。このくらいの年頃だとそういう幻覚が見えやすいとか、きっとあるんでしょ」
母親がそう結論付けたため、父親はとりあえずお祓いをすることは見送ることにしたようだった。
夜になり、今日もまた母親はユユとお風呂に入る。
「ねえママ、ぴゅーぴゅるるーやって。面白いから」
「ああ、いいわよ」
ユユを泡だらけにしながら、また母親は風呂場で口笛を鳴らした。
そんなことをして、また別の幽霊を呼び込まないといいけれど……。
気が付くといつのまにか、私に隣には男性の幽霊が立っていた。
「あ……」
ほら言わんこっちゃない。幽霊がまた増えてしまったじゃないか。
元々武士だったのだろうか。ちょんまげ頭だし、着物を着ている。
ずっと無言で隣り合っているのも気まずい。やはり挨拶くらいしておくべきだろう。
「こ、こんにちは……」
勇気を出してそう声をかけたが、武士はこちらに振り向くこともなく、腕組みをしてユユたちを睨みつけながら言った。
「風呂場で口笛を鳴らすなぞ、不用心にもほどがある」
「で、ですよね……」
私はそう答えたが、それで武士との会話は終わってしまった。
お、怒っているのかな?
幽霊になってまでそんなこと気にしなくても、という感じかもしれないが、幽霊だからってなにも気にせず自由気ままに存在していられるわけでもない。
ああ、ここのところ一人でボーっとしていられて気楽で良かったのに。これからはこの武士と二人で気まずい時間を過ごさなくちゃならないのか。
一気に気が重くなった。
夜になり、いつも通り母親がストレッチとヨガを始める。
今日はその様子を、武士と二人でボーっと見つめる。
そして母親はパソコンを立ち上げ、またバラエティ番組を見始めた。前に見ていた怪談破壊チャレンジの続きを見るようだ。
≪その時、ガチャリと玄関ドアが開いて隙間から手が……≫
≪いやいや、ドアに鍵かけてへんかったんかーい!≫
すると隣で一緒に番組を眺めていた武士が笑い出した。
「フハハハハ! 怪談にそのツッコミはなかろう! フハハハハハ!」
私はびっくりして武士を見つめた。母親は霊感がないので武士の笑い声も聞こえていない様子だ。
「そんな、笑います?」
武士にたずねると、武士は涙目になりながら言った。
「逆におぬし、なぜこれを見て笑わずにいられる?」
「いや、だって私、幽霊ですし……」
生きている人間の生活を、ただ見ていることしかできない幽霊の生活。
その生活が長引く中で、私は気づけば笑うことを忘れていた。
すべての感情が薄まって、ただ半分眠ったようにぼーっとたたずむだけの存在になっていた。
こんな風に人を傍観しているだけの私がどうしてここに存在しているのか、自分でもよくわからなかった。
「幽霊が楽しんでいたってよかろう」
武士にそう言われ、なんだか気持ちが明るくなってきた。
「確かに、そうですね」
それからというもの、私は日々を楽しむようになっていった。
武士と立ち話しながらその家の人々の様子を眺め、一緒に生活を楽しんだ。
これから母親は夕ご飯になにを作るのか、予想して当てっこしたり、母親の見るネットニュースをのぞき見して近頃の人間たちは、と社会問題について語り合ったりした。家族が出かけると、かってにテレビを見たりアレクサに音楽を流させたりもした。
「母親が口笛で吹いていた曲、これだったんですね」
「ああ、最近の流行歌のようだな」
いつの間にか日が暮れて、部屋の中は薄暗くなっていた。
「まだ帰ってこないんですかね、この家の人たち」
「今日は日曜日だ。きっと遠くに遊びに出かけて、外で夕飯を済ませてくるんだろう」
「あの……そしたら私、ちょっと踊っていてもいいですか?」
「踊る?」
「はい」
私はそう言うなり、アレクサの流す音楽に合わせて舞を踊り始めた。
おそらく私は生前、舞を生業にしていたのだと思う。
考えなくても体が勝手に音楽に合わせてしなやかに動き出す。
こんなに楽しいのは久しぶりだ……。
私はリビングに転がるおもちゃを蹴飛ばし、ダイニングテーブルの上に置きっぱなしになっていたお菓子やコップも弾き飛ばして、夢中で踊り続けた。幽霊だから息切れもせず、いつまでも舞っていることができる。
「フハハ、これはお見事」
武士が手を叩いて喜んでくれている。
と、その時、玄関ドアがガチャリと開いた。
そして狂ったように舞っている私を見てユユが悲鳴をあげ、大声で泣き出した。
翌日、父親は神社の神主さんを家に連れてきた。
このところユユは幽霊におびえてずっと寝不足で、一人では怖くてトイレにも行けなくなってしまっていた。
目の下にクマをつくり、おうちにはいたくないと泣いて訴えるユユを見て、父親はお金をかけてでも除霊すべきだと感じたようだった。
「あはは、これで私たちも解散ですかね」
なんだかちょっと、名残惜しい。
ユユにはかわいそうだったが、この家で過ごす時間はちょっと楽しかったから。
「武士さんと、もう少しこうやってふざけて過ごしていたかったですけど」
すると武士は言った。
「別に解散する必要はなかろう。ここにはじきに居られなくなるだろうが、別の場所に一緒に向かえばいいだけのこと」
「え、いいんですか?」
「いいも悪いもなにも。我々には時間がありあまっている。いつか飽きる時がくるまでおぬしと世間話をして過ごすのも悪くはない」
「そうですか……。そうですよね」
「ただ気がかりなのは、またあの母親が風呂場で口笛を吹くのではないかということだ。あのようなことをすれば、再び幽霊が集まり始めるぞ。それが我々のようにほぼ害のない幽霊だとは限らない。悪霊が集まれば大変なことになる」
「確かに……」
私は部屋を見渡し、ユユがいつも使っているクレヨンをみつけた。その中から赤いのを一つ取り出し、ダイニングテーブルの上に走り書きする。
「フロバデ クチブエ フクナ」
これでもう、この家に幽霊が集まることもないだろう。
テーブルに書かれたメッセージを見た母親が悲鳴をあげるのを聞きながら、私は武士と家を出た。
「これから、どこに行きましょうかね」
たずねると、武士が答える。
「なあに、考えなくとも体が自然と吸い寄せられる場所に向かうだけだ。……だがなるべくアレクサなるものが音楽をかけてくれる場所が良い。この間の舞の続きが見たいからな」
「そうですか」
私たちはあてどなく夜道を進んでいく。
幽霊も悪くない。ふとそう思う。
存在しているのかしていないのかもはっきりしない私の体を夜風がふきぬけていく。それが今宵は、やけに心地よく感じられるのだった。
お読みいただきありがとうございました。
お楽しみいただけるものになっていたなら幸いです。