中編「僕はただ『綺麗』と言っただけだった」
それから兄上は僕の部屋に訪ねて来なくなった。
そしてさらに一年が経過し、兄上が十歳、僕が七歳の春。
僕と兄の仲を決定的に切り裂く、ある事件が起こる。
その日は兄上の十歳の誕生日で、お城の庭に貴族の令嬢や令息が招かれ、盛大なパーティが開かれていた。
「アンジェロはパーティに参加してはだめよ。
パーティには多くの人が集まるわ。
誰がどんな病原菌を持っているかわかりませんからね。
部屋で大人しくしているのよ」
「はい、母上」
そう返事はしたけど賑やかな音楽や人々の笑い声や、お肉が焼ける匂いなどが離宮にいる僕の元にも届いて、とてもじっとしてはいられなかった。
今日は兄上に関して重大な発表があるようで、両親もパーティに出席していた。
僕の部屋にいるのはメイドが一人だけ。
そのメイドのことを「パーティで人手が足りないの。手伝って」と別のメイドが呼びに来た。
最初僕の世話をしていたメイドは「アンジェロ殿下のお世話があるから無理よ」と言って断っていた。
だけど同僚に、
「アンジェロ殿下は眠っていらっしゃるみたいだし、扉に外から鍵をかけておけば大丈夫よ。
パーティには普段食べられないような高級なお肉を使った料理もあるのよ。
ちょっとだけ味見したけどとても美味しかったわ。
それに今日はおめでたい席だから、招待客がうんとチップをはずんでくれるの」と言われ、考えを改めたらしい。
「それもそうね。
王妃様もパーティに参加しているから気づかれないわよね」
そう言って、メイドは部屋の扉に外から鍵をかけた。
僕はベッドで寝たふりをして、二人の会話を聞いていた。
二人の足音が遠ざかっていくのを確認し、僕はベッドから起き上がった。
「僕もパーティに参加したいな」
僕はこの部屋にずっといるから、この部屋のことには誰よりも詳しい。
ある壁を押すと秘密の通路が開くことを、僕は知っていた。通路はパーティが行われている庭に通じている。
この通路のことは、父にも、母にも、兄にも秘密だ。
誰かに教えたらきっと、秘密の通路を塞がれてしまう。
僕はクローゼットの中から上着を取り出すと、手早く羽織り、隠し通路を通って部屋を出た。
母の目を盗んで秘密の通路を通って、一度だけ外に出たことがある。
そのときは夜だったし、夜の庭が不気味ですぐに部屋に戻った。
でも今日は昼間だから、庭に出てもちっとも怖くない。
それに兄のパーティにたくさんの令息が呼ばれているみたいだから、僕が庭の隅のほうにいてもきっと誰も怪しまないはずだ。
僕はただ兄のパーティを遠くから眺め、パーティに参加した気分を味わいたかっただけだった。
僕は小さな願いを叶えようとしただけ。
だけどこの選択が多くの人の運命を狂わせることになるなど……この時の僕は考えもしなかった。
☆☆☆☆☆
通路を伝って庭にでると、春の花の香りがした。
音を頼りパーティ会場に近づくと、楽団の演奏する音楽がはっきりと聞こえるようになり、お菓子やお肉が焼ける匂いが強くなってきた。
僕は生垣に隠れパーティの様子を伺った。
「……兄上だ」
遠くに兄の姿を見つけた。
兄の周りにはたくさんの人がいて、兄上はその中心で笑っていた。
朗らかに笑う兄の顔は、僕の前で浮かべている笑顔とは違って、本当に楽しそうだった。
「兄上楽しそう……」
兄が僕の前で浮かべる笑顔と、同年代の貴族の前で浮かべる笑顔は違う。
どこがどう違うのかうまく説明できないし、なぜ兄が笑顔を使い分けているのか、幼い僕にはわからなかった。
ただ、言いようのない寂しさに襲われた。
「ゲホゲホゲホゲホゲホゲホッ……!」
そのとき僕は激しい咳込みに襲われた。
「……いけない、薬を……飲まないと」
上着のポケットに手を入れたが、何も入っていなかった。
薬を机の上に置いてきたことに気づき、僕は焦った。
「どうしよう……!
こういうときどうしたらいいの……!?
母上……! 父上……!
ゲホゲホゲホゲホゲホッ……!」
二度目の咳込みに襲われ、僕は完全にパニックに陥っていた。
僕は地面にうずくまり、咳が止まることを願った。
「大丈夫ですか?」
甘い香りがして、頭上から優しい声が聞こえた。
見上げれば銀色髪の少女が、心配そうに僕を見をろしていた。
歳は多分僕より少し上ぐらい。
この出会いが悲劇をもたらすことを、このときの僕は知らない。
「ゴホゴホゴホゴホゴホッ……!」
返事をしたがったけど、僕はまた咳き込んでしまった。
「大変……!」
少女は咳き込んでいる僕の背中を優しくなでてくれた。
すると不思議なことに僕の咳がピタリと止まった。
「お姉さん、ありがとう」
僕は少女にお礼を言って、改めて恩人の顔をよく見た。
銀色のサラサラした髪を腰まで伸ばし、アメジスト色の大きな瞳がキラキラと輝いていた。
陶磁器のようにきめ細やかな肌、ピンクのバラのように色づいた唇、それらがバランスよく配置された整った顔。
細くスラリと長い手足に、翡翠色のドレスがよく似合っていた。
熟練の職人が丹精込めて作り上げたお人形のように美しい少女だった。
「お姉さん、とっても綺麗だね」
当時の僕は、家族と医者と使用人以外の人間と触れ合ったことがなかった。
だから、貴族の令嬢にむやみに「綺麗」と言ってはいけないことを知らなかった。
ただ思ったことを口から出してしまった。
少女は僕の言葉に戸惑った様子を見せた。
悪いことを言ってしまったのかな? そう思った僕は彼女になにか言葉をかけようとした。
「お姉さん、あのね……」
「そこで何をしている!」
冷たい言葉が聞こえ、振り返ると兄がいた。
兄は眉を釣り上げ、鋭い目つきで僕を睨んでいた。
「兄上、僕は、あの……」
「レーア、早くこっちへ!」
兄はレーアと呼ばれた少女の手を取ると、自分の後ろに立たせた。
まるで大切な物を、邪悪ななにかから守るように……。
「ここはお前の来る場所ではない!
早く部屋に帰れ!」
兄に叱られ、僕は萎縮してしまった。
離宮で優しい人たちに囲まれて育った僕は、人に敵意を向けられたこともなければ、大きな声で叱られたこともなかった。
だから僕を睨みつける兄のことがとても怖かった。
後から思うと、兄は怖かったんだと思う。
兄は僕に両親の愛情も、アメジストのブローチも金の鳥も奪われてきた。
兄上はきっと、レーアのことだけは守りたかったんだ。
「兄上、ごめんなさい……僕はただ」
「アンジェロが謝る必要はありません」
そのとき母上の声が聞こえた。
「母上!」
僕は母の姿を確認すると、彼女の後ろに隠れた。
「わたくしが来たからにはもう大丈夫ですよ、アンジェロ」
母上は優しい顔で僕にそう語りかけ、にっこりとほほ笑んだ。
僕は部屋から抜け出したことを知られたら、母に怒られると思っていた。
だけど母は怒ってはいなかった。
僕はそのことにホッとしていた。
「エリック、人が大勢訪れているパーティで、病弱な弟を叱責するとは何事ですか?
人前で感情をあらわにするようでは王太子は務まりませんよ」
母は僕に向けるのと同じ優しい笑顔で兄に問いかけた。
僕には母が、兄にも僕にも平等に笑いかけているように見えた。
母は王族の教育を受け、感情を表に出さないすべを身につけていただけだった。
母は僕に対して声を荒げた兄に、腹を立てていた。
聡い兄は、母の穏やかな笑顔の裏に怒りの感情が含まれていることを、感じとっていた。
「申し訳ございません……母上」
兄が母に頭を下げた。
「アンジェロが大勢の人間と接して、病気を移されたら大変だと、気遣う気持ちはわかります。
ですがだからといって人前でアンジェロを叱りつけるのは悪手ですよ。
以後は気をつけなさい」
「はい……母上」
二人は終始穏やかに会話しているように見えた。
でも母は兄に怒っていて、兄は母に怯えていたんだ。
「帰りますよ。
アンジェロ、ここには大勢人が来ています。
病をうつされたら大変です」
「はい、母上。
それから勝手に部屋を抜け出してごめんなさい」
「良いのですよアンジェロ。
幼いあなたをどうして叱れるというのですか?」
「母上」
母は僕が部屋を抜け出したことを怒らなかった。母は穏やかにほほ笑んでいた。
「ところで……あなたの世話を任せたメイドがいたはずです。
彼女はどうしたのですか?」
兄なら母がメイドに対して怒っていることを、母の口調から気づいただろう。
洞察力のない僕には、いつもと変わらない優しい母に見えた。
「パーティのお手伝いがあるからと、部屋を出ていきました。
母上、彼女を叱らないでください。
悪いのは部屋を抜け出した僕なのですから」
「アンジェロは優しい子ですね。
アンジェロの思いやりの心に免じて、メイドは許して上げましょう」
穏やかにほほ笑む母を見て、僕は安心してしまった。
僕の見張りを怠けたメイドが、母に酷い目に合わされることなど、このときの僕は知る由もない。
「そうそうレーアと言いましたね。
話があります。
後でわたくしの部屋に来なさい」
「はい、王妃様」
僕には母とレーアのやり取りは、ごくごく普通のやり取りに見えた。
母が獲物を狙う鷹のような目でレーアを見ていたことも、レーアが母にそんな視線を向けられ怯えていたことも、兄が僕と母上への怒りで震えていたことも、このときの僕は知らない。
☆☆☆☆☆
部屋に戻った僕に、母が「アンジェロは先ほど庭で出合った少女をどう思いましたか?」と尋ねてきた。
僕は正直に「とても綺麗な人だと思いました」と答えた。
それがレーアや兄の運命をぐしゃぐしゃに捻じ曲げてしまうことに気づかずに……。
「ではあの少女が、毎日あなたのお見舞いに来てくれたらどう思いますか?」
僕には歳の近い話し相手がいなかった。
兄は僕を避けて離宮を訪れなくなっていた。
「お姉さんに背中を撫でてもらったとき、咳が止まったのです。
あのお姉さんが毎日お見舞いに来てくれたら、とても嬉しく思います」
僕は同じ年頃の友達が欲しくてそう答えた。
「そうですか。
よくわかりました」
無邪気に笑う僕に、母上は満面の笑みを向けた。
多分このとき僕がレーアに抱いたのは憧れに近い感情だったのだと思う。
初恋……というには幼すぎた。
当時の僕は、家族や使用人以外の人間と触れ合う機会がなかった。
レーアは初めて話した貴族の女の子で……彼女の反応が当時の僕には新鮮だったんだと思う。
新しいお友達が欲しい!
僕のほんの小さな望みが……大勢の人を不幸にしてしまう。
読んで下さりありがとうございます。
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