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XIVサトゥルニア・ピリ

夜を歩く腐りかけた思想の幽霊を捕まえろ。

真夜中、修道士達が祈るミゼレーレを聞きながら、

私は怯え、小動物の様に潜む。

社会主義の気高さを持ち、我々は日々撃ち殺される。

外套膜に覆われた腹足類の様に

息を殺して私達が惨めに潜む理由を

聖者は教えてはくれない。


南米山椒(マニカ・デ・カデラ)の花に集う

多数の蜂の羽音に

アヴェイロの浜辺に打ち上げられた褐藻に集る

双翅目の羽音に

我々は悪霊の嘲り嗤いを感じ、縮こまる。


だが、そんな我々の屍の上を、

思考に縛られ、楽園に行けぬ亡者の上を

サトゥルニア・ピリは飛んでいくのだ。


主よ、お救い下さい。

我々はグラム陰性菌の数式を解く事が出来ないのです。

主よ、お救い下さい。

自己と他者との境界線に侵入するツァラアトの病を愛す事が出来ないのです。

主よ、お救い下さい。

私達は、腐肉や蛆虫から目を背け、その美しさの事を知らないのです。

主よ、お救い下さい。

我々はいもしない犬に怯え、

無菌室の中でしか愛を見つけられないのです。


故に、私達には楽園への道は、今日もただただ遠い。


腐敗の中に救いを見つけよ。

宿痾の中に希望を見よ。

喪失の中に恩恵を感じ、

闇の中で諧謔を歌え。


ああ!!それが神を感じるという事だ!!

存在しない尊さに、頭を垂れるという事なのだ!!

権威の無い椅子に栄光を感じ、

錆びた釘に尊さの王冠を見る者は、幸いだ。

その者は、乞食の幕屋から主の玉座を見るだろう。


そしていつか私は、

路上で死んだポルトガルの巨大な蛾

サトゥルニア・ピリの遺骸を見つけるのだろう。

そういう者達がファドを歌うのだ。


喪失を味わい、

手の平に愛を感じられず、

十字架にかけられてしまった気高さの処刑を悔い続け、

孤独を路上の排水溝の中に見つける者達が

ファドを歌うのだ。


そして、

亡き者のぬくもりを感じ、

輝かないパンを愛し、

神のいない礼拝堂に神を感じる為に私達は歌う。


だが!!

だが、諸君。

それでも私達は、

いつもの台詞を繰り返さなければならない。


なぜなら、三流である私達の哀しみを常に打ち砕くものは、

三流の芝居だし、

それが他でもないキリストの愛した劇だからだ!!


その台詞はこう始まる。


我々は頭上より照らされる神の国からの日差しの中にすら

蛾の片鱗、

すなわち日常の談笑や、頓智を見る事が出来るのだ。

その光がどんなに神々しいとしても、

俗的な眼差しで人生を微笑する事が出来る。

それがキリストの見た世界だ!!

キリストの愛した世界だ!!


そして、どんなに悍ましい

悪霊や網翅目や波貝(パノペア)の大群が

地の底から押し寄せて来る希望の果てた最後の日も、

絶望的な暗闇に向かってニヒルに笑ってやるがいい!!

微笑は我々の誇りだ!!


諸君、そうなのでは?


そうだ。

それは、地を這いつくばり、

王よりも気高い乞食が持つ

我々の唯一の武器だ!!


その辛辣なユーモアは、

青二才ルシファーの剣も、

気取ったミカエルの盾も砕くだろう。


そう。

そして舞台の最後の台詞はいつだって、

野暮に勿体ぶって、こう締め括られる。


おお、主よ!!

それが、

そういう無駄な足掻きこそが、

生きるという事なのだから。


と。

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