第二曲:女神と邂逅
「え? な、なんであなたがここに……っ?」
「……」
裕也を力づくで帰らせ向かった用事先。その帰り道。
用事終わりには必ず帰宅路として利用している寝静まった市街地にて、俺と彼女は交差点の信号待ちで邂逅してしまっていた。
まさかパンツ事件が発生したその日に再び顔を合わせることになるとは微塵も思わなかった俺は驚愕して目を瞠き声も出せずにいたが、どうやら相手も混乱の渦中にいるらしい。
「あ、あわわ……っっ!?」
挙動不審の女神ここにあり。
いつもはしっかりとした意思を宿している黒瞳はキョロキョロと不審げに周囲を彷徨わせ、細くしなやかな両手をパタパタと振って明らかに焦っている我がクラスの女神様。
どう見ても、俺よりも動揺具合が激しい。あわわ、なんて漫画やアニメ以外で初めて見た。こんなに狼狽た倉野をクラスでは見たことがない。
羞月閉花、こんな四字熟語が似合う清廉で凛々しい美少女。それが倉野椎奈という女神様に与えられた周囲からの評判。
実際、彼女は評判通りの美貌と愛らしさがある。
ただし今の彼女に凜然とした雰囲気が漂っているのかと問われれば、その答えはノーだが。
「さ、さささ……相良君はどうしてこんな時間にこんなところに?」
ぱっと咲かせる女神の微笑み。ただしどろもどろ感は拭いきれずにいる。本人もその自覚があるのだろう。まるでマシュマロのように白く柔らかそうな頬がわずかに赤みを帯びていた。
「俺は……バイト帰りだ」
どう答えたものかと戸惑ったのもほんの一瞬。少しだけはぐらかすようにして、そう答えた。
嘘は言っていない。事実、提示されたノルマを熟せば十分な収益を得ているのだからバイトとさして変わらないだろう。
「……バイト、ですか?」
「おう。別に校則で禁止にされてるわけじゃないしな。それで倉野はなんでこんな時間にこんな場所に出歩いてるんだ?」
「ふぇっ!?」
俺の返答から聡くも何かを感じ取った倉野は訝しんだようにまるで尋問する刑事のような鋭さを持った眼差しで睨んでくる。
しかし、俺が同じような質問を投げかけると、さっきまでのキリッとした大人な風貌が再び腑抜けた子供の顔になった。
「え、えーっと……私も、ば、バイト…………ですかね?」
「おまえ、俺の話聞いて適当に合わせて言っただけだろ」
「な、なんでそう思ったの?」
「おもっくそ顔に出てる」
「嘘っ!?」
分かりやすい誘導にまんまと引っ掛かった倉野はペタペタと端麗な自分の顔を触って指摘された歪みを探し出そうとする。
勿論ブラフ。ただ、コロコロと表情が変わっているのは事実なのであながち間違っていない指摘だったろう。
「嘘でもないが、単なるブラフだよ」
「なっ!? なんて卑劣なっ!」
「嘘ついてたのは認めるんだな?」
「うぐっ!?」と言葉に詰まり視線をあらぬ方向に逸らし端正な顔を顰め始めた女神様(笑)。
屋上でも感じていたが、今なら確信を持って言える。
こいつとんでもないポンコツだ。
万人が褒め讃える絶世の美貌を持っていて、その清楚可憐な立ち姿が示す通りの飛びぬけた学力で学年トップを常に維持し続け、男子顔負けの運動能力を誇るといった完璧超人。
おまけに、人柄の良い和やかな話口調とふわっと場が華やぐような可憐な微笑みを誰にでも分け隔てなく向けることのできるおおらかさ。
そうして付けられた渾名が、女神。
「そ、そう言うあなたこそっ! バイトなんてテキトーなこと言ってるけど実際はどうなのよっ!? 本当のところ非行に走ってたとかいうオチじゃないのっ!? 普段落ち着いた人間ほどそういった方面に走りやすいってよく聞くしっ!」
「……よくは聞かないだろ」
「聞きますぅ~、私の女神イヤーはちゃんと聞き取ってますぅ~」
その他称・女神様が、根暗なぼっちに軽く言い負かされ躍起になって弱みを握ろうとしている姿は実に愉快──げふん、哀れ以外の言葉が見つからない。
「まぁ……倉野がそう思うんならそういうことにしておいてもいいぞ」
「待って、ほんとに待って。その『倉野が駄々捏ねて煩いし仕方ないからここは大人しく引き下がってやろう』みたいな空気を作ったまま普通に帰ろうとするのだけは、私が子供みたいな印象を与えたままになっちゃうのでマジ勘弁してください」
「実際、疑いようもなくその通りなんだから俺が帰ったのころで然たる問題ないだろ」
「ゔっ!?」
「それとも……クラスの女神様は、自分の本性がバレただけの些事でぼっちで矮小な存在でしかない俺をこんなところに暫くの間拘束し続けるくらいに狭量なのか?」
俺がそう言い切ると、倉野は、ぐさっと心臓に槍状の何かに刺されたと思わせる程の勢いでふらふらと後退って口を噤んだ。
この女神様(笑)、今日だけで何回噤んでいるんだろうか?
それでも女神(笑)としてのプライドが陰気なクラスメイトに揶揄われ続けることを単純に許せないようで、倉野は澄み渡った黒水晶のような綺麗な瞳を恨めしそうに切れ長にした……
「相良君、私を弄って楽しんでいません? え、むしろ私と近づきたいからわざとツンケンしてたり……そうならそうと言ってくれればいいのに」
「俺は、好きな子に構ってほしい小学生か」
「さ、相良君。こ、こんなところで告白なんて…………」
「おまえ結構めんどくさいのな」
「うふふっ、しばきますよっ?」
と思えば、次の瞬間には乙女らしく顔を赤らめ健康的にくびれた腰を何度もくねらせながら何とも物騒なことを仰る。
この間、頻りに青信号に変わっているのに先へは進まず立ち往生し尽くしていた。
だが、今の時間帯に外に出ているような人間は俺たちぐらいなものなので、周囲から疎んだ視線を向けられることはない。というよりも、向けてくる人がいない。
とはいえ、俺も仕事終わりということもあって疲れが溜まっている。早く帰りたいというのが本音だ。
とんでもない因縁を出来てしまった顔見知りと思わぬ鉢合わせをしてしまったということもあって普通に話し込んでしまっていたが、そろそろお開きにするべきだろう。
やけにテンションの高い倉野も、白のTシャツにグレー色のショートパンツといったラフな格好だ。ぴったりと体に沿うTシャツが、彼女の華奢ながらに女であることを認識させるしっかりとした起伏のある体をより強調している。
こんな姿でよく外に出れるな、と別の意味で感心しつつも、それ程遠出する用事では無かったのだろうことが窺えた。
五月の下旬とはいえ、夜風はそこそこの冷気を帯びている。ショートパンツから伸びる白くすらっとして長い美脚が長く外気に晒されているとなると風邪を引いてしまうかもしれない。
これから先、深く関わり合うことはないだろうが、もし風邪を引かれでもして学校を休まれてしまっては後味が悪い。
というわけで……
「んじゃ、しばかれるのは嫌だしそろそろ帰るわ。倉野も夜遅いんだしさっさと気をつけて帰れよ」
「ちょっと待って」
丁度、信号が青になったのでそのまま交差点に足を踏み出したところで、くいっとシャツの裾を引っ張られる。
くるっと振り返れば、そこには、今さっきまで機械的に見せていた女神らしい微笑みはなく、もっと自信がなさげで恥じらいのある苦笑が浮かんでいて──
その精緻に整った顔立ちをこれでもかと近づけて──
そして、ふわっと女の子特有の甘いシャンプーの香りが鼻腔を掠めて──
「──今日のことは二人だけの秘密……ですよ?」
暖かな吐息が耳にかかって、不覚にも胸が高鳴った。
熟れた林檎のように頬が真っ赤に染まっているのが自分自身でもわかってしまう。
「ふふっ。おやすみなさい、相良君」
次の瞬間には、いつもと変わらない朗らかな笑みを浮かべてとっとと交差点を渡り切ってしまった倉野。
その背中を最後の最後、見えなくなるまで呆然と眺め尽くしていた俺ははっとして、その数瞬後には苦笑してほんのりと呟いた。
「……女神様ってスゲェな」
どうやら、俺は女神様の掌の上だったらしい。
気付けば、信号の点滅が止まって赤色に変わってしまっていた。