- プロローグ -
さざなみの音だけが耳に届く、真っ白な景色の中に自分はいた。
周りの景色は、石畳の道と雲ひとつない空が、絵の具で描かれた水彩画のようにぼやけた状態で浮かび上がるように見える。
まるで自分が絵の中に入り込んでしまったように思えた。
「ねぇ、ディーくん」
呼ばれた声に振り向くと、そこには一人の女の子がいた。
肩までのショートヘアは、光を糸にしたような金色で、見せる笑顔もおとぎ話に語られる太陽の女神さまのようだと、子供心に思わせるには十分だった。
「これ、ディーくんにあげる」
手のひらに渡されたのは、細い鎖を通して首から下げられるようにした、小さな金色の指輪。
羽を模した細工が施され、青い宝石が埋め込まれたそれは、子供の目から見ても高級品だと想像がつく。
「でも、大切なものだろこれ?」
「うん。だからね、持っててほしいの」
目の前にいる女の子は、笑顔で頷いた。
「お母さまが、いちばん大好きなひとにあげるものだって言ってたから」
その子は頬を少し赤くする。
「いつかきっと、また会えたとき、それもってたらディーくんだってわかるから」
「……わかった。やくそくする。ぜったいまた、アーちゃんに会いにいく!」
女の子が白い世界に姿を消していき、視界は暗転していった。
「夢か……」
ゆったりと揺れる床の上で、ディーノは目を覚ました。
黒一色の旅装束に身を包み、ボロボロで色あせた草色のマントをその上から羽織っている。
マントについているフードを目深にかぶっていて、遠目に見て素顔は確認できないが、奥から覗く紫色の目は、縄張りの周囲を警戒する獣のような、ギラギラした輝きを放って見えた。
辺りを見回せば、自分と同じように雑魚寝をしている人の姿がちらほらとある。
この様子からすると、まだ目的地に到着したわけではなさそうだ。
三日も同じ場所にいると、退屈という名の敵が襲いかかってくる。
子供ではあるまいし走り回るわけにもいかず、日課のトレーニングもできることは限られ、座り込んでいたらうたた寝をしてしまっていた。
『珍しくよく眠っていたようだが、愛しの姫君でも出てきたか?』
頭の中に声が響く。
声質は低くしゃがれて、落ち着きを持った古強者といった具合だが、どうも一言多い。
(お前のおかげで最悪の寝起きだ)
飽きるほどに聞き慣れた相手に思考の答えを返してやる。
常人ならばただの幻聴、だがディーノにとってこの声は日常だった。
『一刻も経てば港に着く。寝過ごすよりはよかろう?』
(ならしばらくしゃべるな。ヴォルゴーレ)
思考の対話を無理やり打ち切って、鍵付きの扉で区分けされた乗客用の荷物置き場に足を運んだ。自分にあてがわれた番号を探し、鍵を使って開ける。
中には最低限の着替えや携帯食を入れた皮製の袋と、くたびれた鞘に納められている一振りの剣が入っていた。
片手でも両手でも扱えることが特徴である、通称バスタードソード。
野ざらしにして海風や波を浴びたわけでもないが、錆が少し心配だった。
荷物を確認すると廊下から階段を上がって、外へと出た。
ディーノの視界は白一色に塗りつぶされ、思わず目を閉じた。
先ほどまで薄暗い中で眠っていた寝ぼけ眼に、降り注ぐ昼下がりの日差しはかなりきつい。
回復した視界が写し取ったのは、どこまでも広がる青だった。
カモメの群れが飛び交う澄み渡った雲ひとつない空と、南の方は世界の果てまで続いていくと思わせる海原とが水平線で綺麗に区切れたツートンカラーの景色。
そして、自分が立っているのは、道無き道を優雅に進む一隻の船の|甲板だ。
船首の先には、街を見下ろすようにそびえ立つ白い王城と太古の姿を残した円形闘技場を中心に栄える都市の全景が見え始めていた。
「あれが、王都ロムリアット……」
ついこの間まで、あんな場所には一生足を踏み入れることはないと思っていた。
せいぜいこのまま、師から巣立ち一人で生計を立てていくぐらいだろうとも。
だが、その師が最後に与えた課題は、ディーノの想像だにしないことだった。
『なら、このまま雲隠れでもするか?』
そんなディーノの考えを察したのか、ヴォルゴーレは茶化してくる。
(だからしゃべるんじゃねぇ。覚悟くらいできてる。それに……)
『《焔星の魔女》を敵に回すほど命知らずでもあるまい』
心の内を隠せないことはわかりきっていても、ため息一つつきたくなった。
もしも、この声を遮断できる方法があるというのならば、たとえ大金が必要だったとしても死に物狂いで稼いだかもしれない。
甲板の柵に体を預けて、そんなことを考えていると、大きな影が船体を横切るのが目に入った。
雲ではない。もっと低い位置ではっきりと輪郭が見て取れる。
「きゃあぁーーーーーーーーっ!!」
悲鳴が耳に飛び込んできたのは、ほぼ同時だった。
見上げた先には、大きく翼を広げた怪鳥が女の子を抱えて飛び去ろうとしていく姿があった。
「誰か! ソフィアを! 娘を助けて!!」
母親と思しき女性が周囲へと必死に訴えかけている。
だが、その声に応えてくれそうな人間は現れてくれそうにない。
『魔獣……か。この船に護衛はついていないのか』
「それか、いてもやる気のねぇ金目当ての連中だけか……」
『行かないお前ではあるまい』
ディーノは見透かしていると言わんばかりの言葉に舌打ちして剣を抜き、甲板を走り出す。
刃に意識を集中し、血液がめぐる体の一部であるとイメージを広げた。
胸に熱が走り、紫色の輝きが服の下からもれ始め、そして剣の刃がバチバチと音を立てて同じ色の稲妻がまとわれていく。
周囲の乗客たちは駆け抜けていくディーノを、驚きと困惑の表情を浮かべながら見送っていた。
「あいつは怪鳥種で間違いないな?」
『”ペレグランデ”。大型の部類に入るな。今は二月、繁殖期のど真ん中だ、メスへの求愛のために若く柔らかい肉を欲しているのだろう』
ヴォルゴーレが敵の詳しい情報を語りかけてくるが、ディーノにとってはどうでもいい。
「あの翼、切り落としてやる」
『落ち着け。下手な攻撃はあの子どもの命が危ない』
「どこまでも面倒だな」
ディーノは憎々しげに吐き捨てながら、意識を剣とは別の方向へと向ける。
今もこうして頭の中で言葉をかわす、自分に宿った紫色のドラゴンが背中に持つ翼で空を駆ける姿を思い浮かべた。
助走をつけたディーノの体は、一歩、二歩と歩幅を大きく広げ、三歩目の踏み切りで宙高く舞い上がる。
魔獣ペレグランデは、獲物を手に入れたことに油断して、こちらの存在にまだ気付いていない。今が絶好のチャンスだった。
ディーノは静かに剣を振りかぶり、女の子をつかんでいる左の足首を狙って、横薙ぎに斬り払う。
吸い込まれるように入った刃は足首を小枝のように斬り落とし、耳障りな金切り声が空に響く。
ディーノは支えを失って落下していく女の子を、宙を蹴って追った。
「手をのばせ!」
状況を理解しきれない女の子に対して、ディーノは端的な言葉だけを送る。
そして伸ばされた手をつかむと、ぐいっと力いっぱい引き寄せて、女の子の体を抱きとめた。
「ったく、面倒かけやがって……」
『喜ぶのはまだ早いぞ!』
ヴォルゴーレの言葉でディーノが上を向く。
獲物を失ったペレグランデが怒り狂った鳴き声をあげながら羽ばたき、こちらを見ている。
そして、翼をたたみ、ディーノに向かって一直線に急降下してきた。
これはハヤブサが獲物を狩るために行う攻撃方法、そしてその標的が獲物を奪い取ったディーノに切り替わったことを如実に表していた。
だが、その表情に怯えはなく、むしろ不敵な笑みを浮かべている。
ディーノは握っていた剣を逆手に持ち替え、槍投げのように上半身のひねりでペレグランデに向けて投擲する。
放たれた剣はそのままペレグランデの頭部に突き刺さったが、それだけでは終わらなかった。
「もう邪魔者はいねぇ……落ちろっ!」
ディーノは指を剣に向けて念じる。遥かな天空からさらなる一撃が奴を貫き通すイメージを込め、光が紋章を作り出した。
その瞬間、景色が真っ白になるほどの強烈な光とともに、紫の稲妻がペレグランデに刺さった剣めがけて落ち、衝撃が空気をゆらした。
ディーノはまだ気付いてない、自分が目深にかぶっていたフードがそのはずみで脱げ、抱きかかえた女の子にその素顔を見られていることを。
夜の闇を溶かしたような漆黒の髪、黙っていれば美形と形容できなくもない顔立ちだが、眉間にしわを寄せ、見た相手を射殺すような目つきと左の頬に刻まれた大きな切り傷が、近寄りがたい雰囲気を作るのに一役買っている。
何も知らない人間が街で顔を見れば自然と道を開けてしまいそうだ。
一拍遅れて耳をつんざく轟音とともに、黒コゲとなったペレグランデの体が力を失って甲板へと落下し、ドスンと船体を揺らした。
後を追うように、女の子を抱えたディーノも着地し、ペレグランデの死体から剣を引き抜いて鞘に収めた。
それは、一分にも満たない、文字通り"電光石火"の戦いぶりだった。
「あ、あの……ありがとうございます」
下ろされた女の子は、ぺこりとディーノにおじぎをする。
「好きで助けたわけじゃねぇよ」
ペレグランデの死体は、粉のような緑色の光を発しながら、空気に混じって消えていく。そして最後に残ったのは、光と同じ色に輝く、手のひらに乗るぐらい大きな宝石だった。
「路銀の足しになるのは、ガキでも知ってるだろ? 船長あたりに売りさばいて、船の動力にでもしてもらうってだけの話だ」
それだけ吐き捨てるように言って、その場を去ろうとしたのだが。
「おにいさん、魔術士ですか?」
女の子の質問に足を止めた。
「だったらなんだ?」
わずらわしいと言わんばかりに女の子を睨み返す。
「その……黒い髪の人なんて初めて見るから。それに、カードを使ってない人も」
そこまで言われて、ディーノは素顔をさらしていたことにようやく気付いた。
周囲のざわめきは、単に戦いの跡に対するものだと思っていたが、同時に自分に対しての奇異の視線も混ざっていたようだ。
「これ以上俺に話しかけるな……」
ディーノはフードをかぶりなおして、今度こそ女の子の前から立ち去った。
入れかわるようにして、女の子の元に母親が駆け寄ってくる。
「ソフィア……よかった」
母親は心の底から安堵したように女の子を抱きしめていた。
「お母さん。あのおにいさんが助けてくれたんだよ」
女の子、ソフィアにしてみれば、目の前で起きたことを素直に受け止めた結果なのだろう。
「ああいう人には近づいちゃダメ! いい?」
母親は血相を変えてソフィアに言い聞かせていた。
どうして? とその顔が言っているのにディーノは気づくこともなく、母親は気づかないふりをした。
『すっかり、嫌われ者だな』
(慣れてる……。学園とやらに行っても、これが関の山だ)
そうこうしているうちに港が近づいてきたことを、汽笛が乗客全員に伝え、ディーノはいち早く降りる準備をした。




