第五話 記憶の彼方
平成二十五年七月十四日。午後一時。警視庁の会議室に大勢の刑事たちが集まる。
白いスクリーンの前に設置された席に、千間刑事部長と喜田参事官の二人が座り、合田達捜査一課の刑事たちは、スクリーンの前に並べられた席に座った。
警視庁の刑事たちが着席すると、突然会議室のドアが開き、十人程の刑事たちが会議室に入室した。
十人の刑事の中の紅一点、須藤涼風は警視庁の刑事たちに頭を下げ、身分を名乗る。
「大分県警の須藤涼風です。捜査会議に遅れてごめんなさい。送迎車が渋滞に巻き込まれてしまったのです」
須藤涼風が遅刻の理由を刑事たちに伝える。それから大分県警の刑事たちは、用意された席に座る。
捜査会議に参加する刑事たちが全員集まったため、千間刑事部長がマイクを握る。
「これより大分県警との合同捜査となった、広域同時多発殺人事件の捜査会議を始める。まずは東京で発生した殺人事件から。合田。事件の概要を説明しろ」
千間に促され、合田が席から立ち上がる。刑事たちは机の上に置かれた捜査資料に目を通す。
「東京都江戸川区の路地裏で殺害されたのは三好葛。二十二歳。職業無職」
合田が被害者の情報を読み上げると、スクリーンに三好葛の顔写真が表示された。続けてスクリーンが、遺体の写真に切り替わる。
「殺害方法は拳銃による射殺で、使用した拳銃は現場に残された薬きょうや、被害者の心臓から発見された銃弾などから、コルト・パイソンと思われる。そして遺体の傍らには、パールとルビィが置かれていた。尚遺体発見時刻は、午後五時頃。路地裏のゴミを回収しようとした業者。現在警視庁では他に目撃者がいないのかを調べている」
合田が簡潔の捜査状況を説明し、椅子に着席する。
「続けて大分県警の須藤涼風警部。大分県警の捜査状況を説明しろ」
千間が再びマイクを握り、須藤涼風へ呼びかける。その後で須藤涼風は深呼吸を行い、席から立ち上がる。
「それでは大分県警の捜査状況を説明します。大分県竹田市三俣山にある大森山荘で、女郎花仁太の遺体が発見されました。遺体の第一発見者は、地元の消防署と所轄の刑事たち。三俣山から白煙が昇っていると近隣に住む住民が通報して、消防署の人間と、所轄署の刑事が、現場に駆け付けると、山荘の前に停車された黒色のワンボックスカーが爆破炎上していました。ワンボックスカーの窓ガラスは外側から壊され、そこから爆弾を犯人が投げ入れたとみて大分県警は捜査しています」
須藤涼風の説明の最中、スクリーンには女郎花仁太の顔写真と、爆破炎上するワンボックスカーの写真が表示されている。
須藤涼風は続けて、報告書を読み上げる。その直後スクリーンに女郎花仁太の遺体写真が表示された。
「爆破事件の捜査にため、所轄署の刑事たちが近隣の山荘を捜索したところ、山荘内から女郎花仁太の射殺体が発見されたということです。殺害に使用した拳銃は、東京と同様にコルト・パイソン。現場からはダイヤモンドとサファイアが発見されました」
警視庁の刑事たちはここで、大分県警の報告が終わると思った。だがスクリーンが切り替わり、二人の男女の顔写真が表示される。
「最後に容疑者について報告します。大分県警では、二人の容疑者を特定することに成功しました。一人目は萩野武蔵。五年前大分市内で発生した通り魔事件の被害者です。その通り魔事件の犯人は、女郎花仁太と三好葛。二人目の容疑者は女郎花仁太の恋人、藤袴由依。いずれも犯行当時竹田市内にいたということが証明されています。報告は以上です」
須藤涼風が着席し、千間刑事部長が三度マイクを握る。
「最後は東京都の離島海王島で発生した殺人事件について。この件は喜田参事官。説明してくれ」
刑事部長はマイクを隣の席に座る喜田参事官に手渡す。
「海王島で発生した殺人事件の詳細な情報は現在入ってきていません。現在分かっていることは、被害者は株式会社ウォーターコロニーの代表取締役秋野進希氏。現場には東京と大分の事件同様、二種類の宝石が置かれていたこと。殺害方法は一連の事件と同様に拳銃による射殺ではないかということ。以上三点しか分かっていることはありません。海王島の事件は現在警視庁の刑事二名を現場に派遣して捜査中です」
喜田参事官の説明を聞き、須藤警部が右手を大きく挙げる。
「株式会社ウォーターコロニーといえば、九年前の事件以来造船業から撤退したことで有名ですね。実は大分県大分市で発生した宝石店強盗事件の被害者、工藤瀬里香は九年前発生した豪華客船ファンタジア号人質籠城事件で人質になったと言っています。九年前テロリストたちが襲ったのは『株式会社ウォーターコロニー設立五十周年記念船上パーティー』です。もちろんそのパーティーには秋野進希も参加していた」
警視庁の刑事たちが騒がしくなる。そして須藤涼風は一呼吸置き、言葉を続ける。
「ここで警視庁の刑事の皆様に質問です。九年前の人質籠城事件の人質の一人が経営する宝石店で、宝石店強盗事件が発生しました。それから数日後、日本国内三か所で盗まれた宝石が殺人事件現場に放置されました。その内の一件、秋野進希は九年前の人質籠城事件の人質の一人です。果たして一連の事件と九年前の人質籠城事件は関係あるのでしょうか? 」
須藤涼風が捜査会議に参加した刑事たちの顔を見る。その質問に警視庁の刑事たちは答えることができない。
すると千間刑事部長がマイクを握り、須藤涼風に尋ねた。
「九年前の人質籠城事件と大分市内で発生した宝石店強盗事件。それから海王島で発生した株式会社ウォーターコロニー代表取締役殺人事件。この三件の事件に繋がりがあるとして、三好葛と女郎花仁太が殺害された事件とは関係あるのか」
「それはまだ分かりませんが、東京の事件は今のところ手がかりゼロでしょう。だから調べてみたら面白いことが分かるかもしれませんよ」
須藤涼風の解答を聞き、千間刑事部長がマイクを握る。
「これで情報共有は終わった。ここから警視庁と大分県警との合同捜査が始まる。事件を早期解決できるよう互いに協力してくれ。それでは解散」
捜査会議が終わると、須藤涼風は席から立ち上がり合田警部に会釈する。その周りには大野警部補と沖矢巡査部長の姿もある。
「初めまして。合田警部。私は大分県警捜査一課の須藤涼風です。本来なら捜査会議直前に挨拶するべきですが、都合上この場を借りて挨拶させていただきます。ご無礼をお許しください」
須藤涼風は右手を差し出し、合田警部が彼女の手を握る。
「合田武人だ。須藤警部。噂は聞いているよ。二十二歳という若さで国家公務員試験に一発合格したキャリア警察官」
「ご存じとは思いませんでした。ということで、九年前の豪華客船ファンタジア号人質籠城事件の捜査資料を見せてください」
「九年前の豪華客船ファンタジア号人質籠城事件か。確かに須藤警部の推理は面白いと思うが、まだ九年前の事件と今回の事件の因果関係が分からないことには、調べても無駄かもしれない」
と言いながらも、合田警部は、捜査本部に設置されたノートパソコンで、警視庁のデータベースで九年前の人質籠城事件の捜査資料を検索する。
「九年前の豪華客船ファンタジア号人質籠城事件。実は今年の二月にも、この事件の関係性のある殺人事件が発生していた。その事件は、今回の事件の手口とは全く異なる殺害方法だったな」
合田が殺人事件のことを思い出すと、須藤涼風が聞き返す。
「どのような事件だったのでしょう」
「あの事件が発生したのは今年の二月。九年前の豪華客船ファンタジア号人質籠城事件に巻き込まれて記憶を失った女が犯人で、突然現れた幼い時に自分を捨てた父親を錯乱状態の中で殺害したと言う物だった。本当は、この事件の時に詳しく捜査資料を読めば良かったが、事件の裏付け捜査は警察庁の圧力によって中止になった。その殺人事件の犯人は現在逃亡中」
「警察庁からの圧力」
須藤涼風が呟くと、ノートパソコンの画面に、九年前の人質籠城事件の捜査資料が表示される。
「これが九年前の人質籠城事件の捜査資料だ。殉職した警備員の顔写真や取り残された十人の人質の顔写真まで掲載されている」
合田警部はマウスで画面をスクロールさせる。すると、その画面に見覚えのある顔写真が表示された。綺麗に並べられた三枚の顔写真に刑事たちの目が大きく見開く。
最初に口を開いたのは、須藤涼風だった。
「この顔写真。右端に映っているのは、福岡県議会の田中ナズナですよね」
「そうだな。彼女は美しすぎる政治家として去年十二月の解散総選挙に初当選した衆議院議員だったが、今年二月に発生した殺人事件の直後、突然辞任した。だがその顔写真には江口寿々菜と表示されている。この情報がただしいんとすれば、田中ナズナというのは彼女の偽名ということか」
合田が須藤涼風の言葉に相槌を打ち、画面に表示された中央の顔写真にマウスを合わせる。
「この真ん中に映っている女は、今年二月に発生した殺人事件の被疑者だ。確か名前は……」
丁度その頃、神奈川県横浜市にあるイタリアンレストランディーノのカウンター席に二人組の男女が座った。
男の名前は愛澤春樹。テロ組織『退屈な天使たち』のメンバーで仲間たちからはラグエルと呼ばれている。
一方愛澤の相手は、黒髪のショートボブに二重瞼が特徴的な巨乳の女。
その女。日向沙織はテロ組織のメンバーではないが、愛澤のことを慕い同居している。
その同居人に愛澤春樹は彼女の顔を見ながら、声を掛ける。
「この前あなたは聞きましたよね。本当は知っているのでしょう。私の本当の名前」
あれから三か月程度経過したが、愛澤は彼女の本当の名前を伝えていない。
いよいよ自分の本当の名前を知る時が来たのかと、日向沙織は喜ぶ。
「まさか本当の名前を教えてくださるのですか」
「もちろん」
愛澤の答えを聞き、日向沙織は喜びとは裏腹に、どこか腑に落ちない顔をする。
「でもどうして掌を返したのかが分からない。この前までのあなたなら、記憶を急激に思い出させるのは負担だからって、自分から昔の私のことは話さなかったのに」
「少しばかり状況が変わったんです。あなたのお姉さんが無意味な復讐に走ろうとしているから。それを止めるためには、どうしてもあなたに全てを思い出していただくしかない。これは荒療治です。覚悟はできていますか」
日向沙織は全てを覚悟し、首を縦に振る。全ては本当の自分の名前を取り戻すため。そのために彼女は愛澤と同居生活をした。
日向沙織の顔付きは真剣な物に変わり、愛澤春樹が、彼女の本当の名前を呼ぶ。
「江口寿々白」
その名前を聞き、日向沙織の心から白い靄が消えた。その瞬間、日向沙織の空っぽだった記憶が鮮やかに蘇っていく。
江口寿々白。その名前を日向沙織は懐かしく感じる。
名前を呼んだ愛澤の声も同様に、どこか懐かしい。
『寿々白』
頭に浮かんだ、その男の声は愛澤の物と似ているが、声のトーンが幼いと日向沙織は思った。
その直後、日向沙織を突然の頭痛が襲う。彼女は歯を食いしばり、カウンター席のテーブルの淵を握る。
そして彼女は、白い霧の中に囚われたかのような錯覚に陥る。その錯覚の果て、彼女の目の前で懐かしい出来事が蘇る。
どこかの川沿いにある歩道を六人組の男女が歩いている。
その男女は全員小学一年生で、全員がランドセルを背負っている。
一緒に通学路を歩いた男の子と女の子の顔を日向沙織は思い出すことができない。
だが彼女の隣を歩く女の子の顔を、日向沙織は覚えている。
その女の子の顔は自分を生き写しにしたようによく似ている。違いといえば、首筋にある小さな黒子だけ。
すると突然、彼女の前方を歩く男の子が立ち止まり、後ろを振り向く。
「寿々白」
男の子が彼女の名前を呼んだ瞬間、男の子の顔を隠していた白い靄が消える。
「春くん」
その男の子は幼い愛澤春樹。彼のことを江口寿々白は、このように呼んでいた。
最後に思い出したのは、あの日の想い。
日向沙織が自分の本当の名前を聞いて、思い出したのは、これだけだった。
そして日向沙織は夢から覚めたかのような感覚を味わう。それから彼女の頭痛が治まり、席に腰を落とした。
一部の記憶を思い出した日向沙織は、右手を額に置き、呼吸を整える。その彼女の頬から涙が零れるのを、彼女の傍にいた愛澤は間近で見る。
「春くん。自分の本当の名前を聞いて、一部だけ思い出したよ。でもどうして記憶を失ったのかまでは分からなかった」
春くん。懐かしい自分のあだ名を聞き、愛澤の頬が緩む。それから愛澤春樹は彼女に尋ねる。
「僕のあだ名以外に思い出したことはありますか」
「私の隣に私と同じ顔をした女の子が歩いていたよ。もしかして私って双子だったのかな。それと私と春くんと私の顔と似ている女の子。顔の分からない三人の男女。合計六人が通学路を歩いていた。ランドセルを背負っていたから小学生くらいかな」
「顔の分からない三人の男女」
愛澤は思わず呟き、笑みをこぼす。その反応に日向沙織は慌て、手の平をバタバタと動かす。
「もうすぐ春くん以外の三人の顔も思いだすから」
愛澤春樹は日向沙織の顔を見て、微笑み、頬杖を突く。
「まあ自分に双子の姉がいたことだけでも思い出せたら、成功ですから」
自分の本当の名前を思い出した日向沙織は小さく頷く。
「うん。ありがとうね。春くん」
日向沙織は愛澤に伝え、店内に設置されたトイレのドアを開ける。
そして、トイレの中に籠った日向沙織。本名江口寿々白は、鏡の前で赤面した。
(本当は昔から春くんのことが好きだったってことも思い出したけど、まだ伝えるには早いよね)
江口寿々白は心の中で呟き、鏡に映る自分の顔を見つめる。
江口寿々白がトイレの籠った頃、愛澤春樹はカウンター席でため息を吐いた。
「どうした」
店主の板利明が心配そうに声を掛ける。
「本当にこれで良かったのかと思っただけです。彼女の本当の名前を伝えることは正しいことだったのかと思ったんですよ」
「そんなことか。お前はあいつを救いたいんだろう。だから今まであいつの復讐を止めるために暗躍を続けてきた。そんなお前の結論だ。俺は間違っていないと思う」
板利の意見を聞き、愛澤は安堵する。
「そうですね」
所変わって警視庁捜査本部。合田たちはノートパソコンの前で九年前の人質籠城事件の資料を閲覧している。
「日向沙織。田中ナズナ。それともう一人……」
合田は双子の横に映し出された女の写真にカーソルを合わせる。その女の顔を見て、事情を知らない須藤涼風と大分県警以外の刑事の顔が青ざめる。
その女の顔は、現在大野警部補と同居している組織の関係者で、西村桜子という偽名を与えられた女と瓜二つ。
大野は女の写真を見て、数か月前のことを思い出す。数か月前の彼女の口ぶりから察するに、彼女は最低でも二回記憶を失った。
最初に記憶を失うきっかけとなったのが、九年前の人質籠城事件だとしたら。
九年前の人質籠城事件が原因で彼女はテロリストになったとしたら。
大野の脳裏に浮かんだパズルのピースが一つになろうとしている。
そんな大野を他所に、合田は女の名前を読み上げる。
「早見結か。この捜査資料が正しいとすれば、日向沙織、田中ナズナ、西村桜子。以上の三人は九年前の豪華客船ファンタジア号人質籠城事件で最後まで取り残された十人の人質。おそらく爆発に巻き込まれ、海に投げ出されてもなお、生存したんだろう」
合田が資料を読みながら推理を口にすると、須藤涼風が挙手する。
「ということは、この三人が一連の事件に関与している可能性が高いということですね」
「そうだな。日向沙織は現在逃亡中。即ち所在不明。西村桜子。いや。本名早見結は現在訳あって大野と同居している。田中ナズナは……」
「田中ナズナ福岡県議会議員の後援会に問い合わせます」
須藤涼風が合田の言葉を遮る。彼女は携帯電話を取り出し、電話を掛けた。
その電話はワンコールで繋がり、須藤涼風が議員の秘書に尋ねる。
そして一分後、彼女は電話を切る。
「分かりました。田中ナズナ福岡県議会議員は、現在東京クラウドホテルで酒井忠義衆議院議員が開催する勉強会に参加しています」
「そうか。それなら大野と須藤涼風警部は、東京クラウドホテルに行って、田中ナズナ福岡県議会議員に話を聞いてこい。俺と沖矢と大分県警の刑事二人は、この場に残って残り七人の人質の所在を調べる。残りの刑事は、三好葛の遺体が発見された現場周辺で聞き込み捜査。以上解散」
合田が周辺に集まる刑事たちに指示を与える。そうして刑事たちは一斉に廊下へと飛び出した。
警視庁の廊下を須藤涼風警部と大野警部補が歩く。彼女は大野の隣を歩きながら、彼に尋ねる。
「早見結が偽名を使っていた理由は何でしょうか。それと彼女は九年前の人質籠城事件について何か言っていませんでしたか」
唐突な質問に大野は首を横に振る。
「残念ながらそんな話は聞いたことがありません。西村桜子という偽名は千間刑事部長から与えられた偽名です。元々彼女は、ある事件の重要参考人です。しかし彼女は記憶喪失になってしまい、仕方なく記憶が戻るまで僕と同居しているんです」
「なるほど。合田警部の話によると、日向沙織も記憶喪失のようですね。そして西村桜子も記憶喪失。九年前の人質籠城事件で再死後まで残された十人の人質の内、現在生存が確認されている三人は、全員偽名を使って生活している。これは偶然だと思いますか? 」
「偶然とは思えませんね」
「でしょう。偽名を使っている三人の身元が分かりました。これからは三人の身辺調査を済ませた方が良いかもしれません。その中に一連の事件を解く手がかりが隠されているのかもしれません」
「ここから先は歩かなければならない」
「そろそろ秋野進希の遺体が発見された現場に案内してくれませんか?」
「桔梗お姉様。私はいつでもお姉様の味方だから」
「その二人だったら覚えているわ」
「お前こそ秋野進希が殺されて嬉しいくせに」
次回。第六話 現場不在証明
五月十七日。投稿予定