8 異世界で拉致されて昼食をいただきました(1)
私の名は久山美紗子。
ある日突然落ちてきてしまった異世界では、特殊技能の魔女「クヤマ・ミサコ」としてごくごく一部で知られています。
まだ二十五歳ですが、この世界では完全に年増のおばさんです。その上、名前だけでは男と誤解されたり無駄に深読みされたりする不幸もありました。
……だからといって、この状況を素直に納得できるほど不幸ではないと思います。
始まりは実に些細なことでした。
小煩い副所長様の目から逃れて、ちょっとサボってみようかなぁと、本当にささやかな野望を抱いただけなんです。私の汚い字でいっぱいな魔道研究所から抜け出して、ちょっと早めのお昼ご飯を食べに行こうとしただけなんです。
それがどうして、街中でいきなり拉致されて、立派な馬車で運ばれて、王宮に連れ込まれて、この豪奢なお部屋にいるのでしょう。
訳がわかりません。
ついでに、どうして目の前に美味しそうな料理が並んでいるかもわかりません。
空気を読んだりしないで、無邪気に食べていいのでしょうか。
それにしては、目の前にいらっしゃるご婦人の目が怖い気がするのですが……。
「わたくしの事は気にしなくていいのよ。どうぞ召し上がれ」
「あ、はい。ではありがたく頂戴します」
目元だけを隠す仮面をつけたご婦人は、語尾の音がほんの少し鼻に抜けるような、ちょっと特徴的な声をしていらっしゃいました。お召し物は黒い外套でほとんど見えませんが、ちらっと見えるドレスの裾はとてもお高そうです。
かなり高位のご婦人と見ました。
そんなお上品なお貴族様が、どうして私を拉致して王宮に連れ込んで昼食をご馳走してくれるのでしょうか。
私が要人なら、まさかこの料理の中に毒が混入されている?とか思うのでしょうが、幸い私はしがない喪女魔女でしかありません。スキャンダルの種になるような愛人なんて知りませんし、国家を揺るがす機密も知りません。
善良なヒラ魔法使いに、いったい何をお求めなのでしょうか。
しかし、腹が減っては戦はできません。
何をさせられるにしろ、とりあえず目の前の料理に挑むことにしました。
この世界の料理は、大和撫子な私の舌にはまあまああっています。鰹節と昆布の一番だしは存在しないようですが、時々おおっと思うような旨みを感じるんです。日本とは異なる素材で出汁をとっているのだろうと思います。
残念ながら私は厨房に入ったりしませんし、味だけで全てを悟ることもありません。
ただ、美味しいなーと思うだけです。
そもそも、鰹節の正確な製法はもちろん、昆布の産地の違いもわかりませんからね。素材を見せられても、調理方法を見せられても、そうなんだなぁと思うだけです。
女子力低いですね。
でも料理下手な喪女なんてそんなものでしょう。特に私は、自分の食べものは食べられたらいいくらいの認識でしかないんです。好きな人のために作るとかだったら頑張るのかもしれませんが、残念ながらそんな経験はありません。……うん。
とにかく、そういう秘密の旨みたっぷりな料理は、大変美味しゅうございました。
王宮の料理人ってこんな美味しいものを作ってくれるんですね。見た目は定食屋の料理とそんなに変わらないのに、口の中に広がる楽園ぶりに脱帽です。
始めはお上品そうに食べていた私は、気がつくとがっついていました。
拉致されている間に、昼食時間なんてとっくに過ぎてしまいましたからね。しかも今朝は植物成長促進薬と、植物成長阻害薬の両方の改良をさせられていたから、思っていたよりずっとお腹が空いていました。
やんごとなきご婦人の前で失礼かな、と一瞬だけ思いましたが、拉致してくれた相手に気を使う方が馬鹿馬鹿しいと悟りましたよ。
ようやく一息ついた私は、改めてご婦人に目を向けました。
作法より食欲を優先させた食べ方に思うところはあったはずですが、仮面のご婦人は表情には全く出していません。
そして私が姿勢を正すのを待っていたように、手にしていた扇子をぱたりと閉じました。
「あなたに頼みたいことがあるのです」
「私にですか?」
ようやく本題です。
頼みたいなんておっしゃっていますが、こういう場合は拒否権なんてありません。副所長様なら蛇やら何やらを使って円満に脅迫するのでしょうが、このご婦人のような場合は、やっぱり権力とか闇から闇へ葬られるとか、そういうのでしょうか。
平凡に平和を愛する私としては、私にできる内容であることを祈るばかりです……。
「あなたは不思議な魔法薬を作ることができるそうね」
「あまり役に立つ薬はできていませんが……」
「失敗は多いようだけれど、とても強力な効果があるとうかがっているわ」
うわぁ……その情報はいったいどこから……なんて考えてはいけませんよね。何事も知り過ぎない。それが庶民のたしなみです。
「あなた、惚れ薬を作ったそうね」
「……惚れ薬は作っていません……」
「ああ、違う名前だったかしら。でも惚れ薬に近い効果のある魔法薬なのでしょう? わたくし、その惚れ薬を作っていただきたいのよ」
……えーっと、これは怖い事実が判明しましたよ。
いろいろ魔法薬を作っているのは、まあ魔道研究所の内部情報を入手できる立場の人ならそこそこ知っていますからね。
でもですよ。私がモテモテになる薬を作ったのはほんの三日前です。
しかも、まだ所長と副所長クラスの人にしか報告していません。他に知っているのはその場にいたパスズール様と同僚嬢くらいで……あ、もしかして密偵がそばにいたとかでしょうか。同僚嬢が金の誘惑に負けて……というのはさすがにないと思います。
「どうかしら。作って下さるわよね?」
「そ、それは……」
「そんなに強力なものでなくていいの。ちょっとあの人の気をひくだけでいいのよ。わたくしを見て、ほんの少しだけときめかせるの。素敵と思わない?」
ご婦人は微笑みました。
目元は隠れていますが、たぶんものすごい美人だと思います。鼻は高すぎず低過ぎず、唇はやや薄いけれど微笑む形はとても優しげで、もっと笑わせたいと思わせるものでした。
お年頃は、私より少し上くらいだと思います。
多く見積もっても三十より下ですね。つまり超妙齢。こんなに若くて美人な方が惚れ薬を使ってでも気を引きたいと思い、惚れ薬を使わなければ振り返らない、そんな男性がいるなんて信じられません。
どんな異星人でしょうか。
私の思いが顔に出てしまったのでしょうか。ご婦人はこれまた魅惑的な苦笑を浮かべました。
「実は、その相手というのはわたくしの夫ですのよ。とにかく朴念仁なのよ。結婚してからずっと、二人きりになると目を合わせてくれないし。悔しいからあの人とは全く違う男をそばに置いても、全然気にしてくれないのよね。嫉妬と言わなくても、普通は嫌味くらい言うと思うのに」
「はあ……」
恋愛が大手を振っているお国柄ですが、もしかしたら高位のお貴族様には純粋に政略的な結婚があるのでしょうか。
もしそうなら、冷え切った夫婦というのもそこそこ普通なのかもしれません。でもこんな美人さんに、かなり惚れられているのに目を合わせないなんて、周囲に美人が多すぎて感覚が麻痺した口でしょうか。それともご婦人の性格がお嫌いとか? 大穴としては……実はいわゆる同性しかダメな人だったり?
でも、それで愛人さん?を連れ込んでしまう奥様もツワモノですね。
喪女にはない発想でした。
「そういうことだから、惚れ薬を作ってちょうだい。お礼ははずむわよ」
「あー……お礼とかそういう話ではなくてですね。……あの……所長様とか副所長様とか、そういう方面に許可なんてものは……?」
「許可はもらっていないわね。だから、もし研究所から追い出されるようであれば、わたくしが一生面倒を見てあげるわよ」
一生ですか。
心が揺れましたが、一週間後に一生が終わって池に浮かんでいない保証はありません。
相手は権力と情報力を持ったお貴族。かよわい庶民の常識は通じないと思います。
多分、私は青ざめていたのでしょう。
仮面のご婦人は微笑みました。仮面があってもとても素敵な笑顔です。でも目は怖いです。背後で剣を抜く音が聞こえるのも気のせいでしょうか。拉致実行犯のお兄さんたち、すごくたくましくて強そうでしたからね。うっかり護身用の道具を持たずに外出してしまった私なんて、瞬殺でしょうね。
……私は、ただごくりと唾を飲み込むことしかできませんでした。