番外編3 異世界の引越事情(後)
思わず目をそらした時、広間に軽やかな音楽が鳴り始めました。
踊りの再開を告げる合図です。
まだ踊るんですか。さすが十代、皆様お元気ですねぇ……。
オバサンな私は、五曲続けて踊っただけでもう足がガクガクで……ってそんな場合じゃありませんでした!
「どどどどどど、どうしよう、大変だ!」
「落ち着いてください。あなた一人くらい、私が一生お守りしますよ」
「……えっ、一生? ……いや今はそれよりもっと差し迫った危機がありまして!」
パスズール様の言葉にゆっくり動揺していたいところでしたが、今は時間との勝負です。
早く魔法の靴を脱がなければ、強制ダンシングタイムです。踊りの音楽が始まったら、私は問答無用に踊り始めてしまいます。
さっきの感じでは、たぶんパートナーがいなくても隅っこでも、一人で優雅にくるくる踊ってしまうと思うんですよ!
でもこういうときにかぎって、慌てているせいか手がよく動きません。
懸命に靴の紐を解こうとしても、解けにくいという踊り用の紐の処理が裏目に出てしまいます。ただひたすら焦るばかりで、靴は全然脱げません。
少し残念そうな顔をしていたパスズール様でしたが、私の不審な行動に眉を動かしました。
「……靴を脱ぐのですか?」
「魔法の靴なんです! 踊りの音楽が始まったら、勝手に踊り出してしまうんです!」
「ああ、それで先ほどはあれほど見事に踊っていたんですね。カナイジェと特訓でもしていたのかと思いましたよ」
「そんな暇はありませんよ。名所見物も食べ尽くしも部屋の片付けもできないくらい、ひたすら研究所の魔法試験続きで……ああ、もう始まった!」
無慈悲にも、踊りの音楽が始まってしまいました。
軽い前奏だけで、足が勝手にリズムを取り始めました。手も紐から勝手に離れてしまいました。
私の体は運動不足のせいでくたくたなのに、まるで操り人形になったように軽やかに立ち上がっていました。
「すみません、パスズール様。……しばらく一人で踊ります……」
人の並びの方に進み出ながら、一人でぴょんぴょん踊り始めました。壁際に立つパスズール様は、それを面白そうに見ています。
きっとかなり面白いでしょうね。一人なのに、まるで見えないパートナーがいるかのように踊っているのですから。かなり変な人でしょう。
周囲の視線が再び突き刺さります。
ああ、やっぱり二度と都に戻ってこれませんね。
国境への片道切符です。しがない異世界人には、都は縁がない世界だったのかもしれません……。
虚ろな目でくるりと回った私は、どこにも存在しないはずのパートナーが目の前に出現したのを発見しました。
えっ?と思って顔を上げると、パスズール様の大きな手が私をくるりと反対回りに回してくれました。
「本当はすぐにでもお助けするべきかと思いますが、一曲くらいはおつきあい願いたい」
「え? ええっ?」
私は驚きました。
それはもう、驚きました。
だってパスズール様が私と踊っているんですよ。物々しい第四師団の騎士様が、片手で剣を押さえたりはしますが、それは見事に踊っているんです。カナイジェ様は実に見事な踊り手でしたが、パスズール様も負けていません。
さすが高位のお貴族様のご出身ですね。
そんな風に激しく驚いているのに、私の足は止まりません。手も止まりません。
膝が笑う勢いで疲れているのに、背筋はピンと伸びているし、いい加減息が上がりまくっているのに、若いリア充カップルが尊敬の目を向けてくるほど身軽に跳ね回っていました。
……拷問です。
殺気の視線にさらされたときも死ぬかと思いましたが、今回は肉体的に死にそうです。
ああ、これが赤い靴の恐怖なんですね。
斧で足を切り落としたとしても、我が魔法の靴は童話に負けない勢いでそのまま踊り続けそうです。
あ、でも履き手の血が流れると魔法は解けるようにしていたんだったかな。ならばホラーな光景は今回はありませんね。よかったよかった。ははは……。
支離滅裂な思考に陥り、息も切れ切れになりつつ、私はなんとか踊り切りました。
最高に頑張りました。
体力的には限界を超えましたが、パスズール様と踊ることは純粋にとても楽しかったです。世界が輝いて見えました。
手を握ったり肩が触れ合う距離に近寄ったり、そんな喪女的にはハードルの高いことが堂々とできるのも素晴らしいと思いました。
この瞬間のためなら、私の魔法も無駄ではありませんね。
……でも正直に言えば倒れたいです。この場に座りこんでもいいですか?
そう思うのに、二曲目の前奏が始まってしまいました。
ああ、また靴を脱げませんでしたね。
私が意識を失ったら流石に止まれるはず。それとも怪我すればいいんでしょうか。マメの一つもできないなんて、私の足って結構丈夫ですね……。
すっかりあきらめた時、私は宙に浮いていました。
正しくは、横抱きにされていました。
すごいですよ。
一度は夢見るお姫様抱っこってやつですね。手足が動いて踊りを続けているのが激しく残念な光景ですが、私はたくましい騎士様にお姫様抱っこをしていただいていました。
「パパパパ、パスズール様?」
「音楽が聞こえなければ大丈夫ですか?」
「え? あ、はい。たぶん」
私が頷くと、パスズール様は大股でどんどん歩き始めました。
高貴な方々でいっぱいの舞踏会会場から、魔道研究所の制服を着た色気ない女を抱き上げて出て行くなんて、パスズール様って大胆ですね。
でもかっこよすぎます。
……絶対みんなに見られていますね?
恐る恐る背後に顔を向けると、予想通り注目の的でした。
若いリア充たちが、踊りながら目を丸くしています。年配のお貴族様たちは首を振りながら眉を潜めていました。
思わずそこから目を逸らすと、指差して大笑いしている所長様が見えました。
カナイジェ様も、どこか渋い顔ながら微笑んでいました。
でも、どうして副所長様は興味深い現象を見た時のようにメモを取っているのでしょうか。まさかまた何か閃いたなんてことは……いやいや、これ以上の試験はもう無理ですから!
私が赤面したり青ざめたりしているうちに、パスズール様はあっという間に舞踏会の間を後にしていました。
王宮の中庭に出ても、まだ舞踏会の音楽が小さく聞こえていました。
大広間からずいぶん離れているのに、どういうことでしょうか。普段は静かな場所のはずなのですが……。
そこまで考えて、私は気づきました。
そうでした。この世界には魔法があるのでした。
私が赤い靴パクリの魔法の靴を作ったように、大広間の楽しげな踊りの曲を王宮の主だったところに流すなんて簡単でしたね。
そう言えば、廊下で仕事着のカップルがひっそりと楽しそうに踊っていましたよ。自分のことばかりに気を取られていましたが、上級職の勤務人だけでなく、下働きさんたちもそれぞれの職場近くの広場で踊るのが国王主催の舞踏会のようです。
なるほど。
従業員への福利厚生の一環ってやつですね。
……つまり私は、どこに逃げても踊りから逃げられないってことですか。音が小さいせいか、少し抑えが効くのが救いでしょう。
は、ははははは……。
そろそろ、パスズール様に抱き上げられたまま踊るのにも疲れて来ましたよ……。
中庭の向こうで踊っている楽しそうな男女を、私は虚ろに眺めます。
と、その時。
パスズール様は足を止めて、灯りのそばにあるベンチにゆっくりと降ろしてくれました。
お尻が座面に着くと同時に、私の体は立ち上がろうとします。
でも大きな手が肩を押さえていて、立ち上がることはできませんでした。
まだ中腰くらいの姿勢なので、パスズール様のお顔はかなり近くにあります。その事に一瞬動揺して気を抜いたためか、地面についた私の足はひらりと大きく動きました。その足も、パスズール様がゆっくりと押さえつけていました。
「失礼。非常事態なので、靴の紐を切ります」
「……え? あ、はい」
真剣なお顔で言われたので、私もよくわからないまま頷きました。
でも切るってなんだろう?
……あれ、靴の紐と言いましたか?
まさか、私がジタバタと踊っているまま紐を切る、ということでしょうか?
思わず息を飲みました。
すると、私の肩と足を押さえているパスズール様が、にやりと笑いました。
舞踏会の大広間で見上げた端正なお顔ではなく、ドキリとするほどエロい表情でした。
思わず見入った瞬間、さくりと布を切り裂く音が聞こえました。
目を落とすと、押さえ込まれていた方の足に履いていた靴の紐が切り取られていました。パスズール様の手には小さなナイフのようなものが輝いていて、それを持ったまま指だけで靴をぽとりと脱がせていました。
途端に、そちらの足が自由になります。
ほっとしていると、反対側の靴の紐もナイフで切り取られます。そして、やはり指の動きだけで靴を地面に落としていました。
「これで大丈夫ですか?」
「……あ……はい……ありがとうございます」
自由になった途端に、疲れが一気にやって来ます。
一瞬、筋肉のあげる悲鳴にめまいがしましたが、私はお礼を言いました。
でも何というか……騎士様ってこんなに器用なんですか? 刃物の扱いに慣れているだろうとは思っていましたが、ここまで自在だったとは。
いや、それはいいんです。問題は指だけで靴を脱がす仕草が、何と言うか……妙にエロいというか……心臓に悪いと言うか。
小振りのナイフをベルトに収納する仕草まで卑猥に見えて、無駄にドキドキしてしまいました。
でもぼんやりしている場合ではありません。
今は魔法を解くことに集中しなければいけません。裸足で宿舎まで戻るにはさすがに辛いです。そこまで丈夫な足の裏ではありませんから、私は急いで脱げた靴を拾い上げました。
「……あ、しまった」
ああ、どうして今まで気づかなかったのでしょう。
私、靴の本体に文字を書き込んでいました。
靴本体は布製です。その表側にインクで書いた文字が微妙に歪んだまま並んでいます。このインクは水につけても消えにくかった気がします。
……所長様とカナイジェ様の迫力に負けて大急ぎで書き込んでしまったので、後先を全く考えていませんでした。
困りました。これでは魔法を解除できません。この文字が消えるまで、私の靴は恐怖の魔法の靴のままでしょう。
「……あの、厚手の布とか持っていませんよね?」
「人を呼べば大概のものは用意できると思いますが」
「靴の代わりになるものなら何でもいいから、頼んでもらえますか? 私では権威が足りませんので……」
「まさか、その厚手の布とやらを靴の代わりにするおつもりですか?」
「そのつもりです。歩ける状態になればそれでいいです。もう疲れたので帰ってしまおうと思いまして」
「……困った人だ。もっと私を頼ってください」
パスズール様はため息をつきました。
そして私が首を傾げた途端に、また横抱きに抱き上げていました。驚きのあまり、私は手にしていた魔法の靴を握りしめてしまいました。
「お送りします」
「いや、さすがに重いですよ」
「重くはありませんが、歩くと遅くなりますから馬でお送りしましょう。……そうだ。ついでに名所巡りでもしましょうか? 紐をダメにしたお詫びです」
「え? 紐なんてそんな、助けてもらったのはこちらですし……それにパスズール様が抜けては、壮行会を兼ねた舞踏会の意味がないのでは?」
「主だった方への挨拶は終わっています。それに……」
パスズール様は私を見下ろしてニヤリと笑いました。
「あんな退場の後にすぐに戻るようでは、そちらの方が笑いものですよ」
「そ、そんなものですか?」
「そういうものです。……それよりカナイジェの顔を見ましたか?」
「あー、かなり黒い感じでしたね。でもあの方ってかなり気の毒で……」
「ご安心を。カナイジェのファンにも世代交代があります。初代の辺りは私と同年代ですから、そろそろ自分の子供の結婚関係でそれどころではなくなります。それにあなたと言う究極の弾除けの前例もできましたから、五曲より少なければ普通に踊れるようになったでしょう」
……本当に大丈夫なんでしょうか。
私としても、あんなに楽しそうに踊る姿を見ると弾除けにされてもあんまり恨めないんですよね。それに色々お世話になっているのは事実ですから、あれ以上屈折する前に幸せになっていただきたいと思っています。
しかし……パスズール様の同年代の子供がそろそろ結婚話ですか……。
「うーん……この世界の方々は本当に結婚早いんですね」
「早いかな。普通だと思いますが。まあ貴族の婚約は特に早いことが多いかもしれません。こじれると私のような独身者になるくらいに」
そういえば、パスズール様も婚約一歩手前まで行っていたとカナイジェ様は言っていましたね。そんな方が、リア充を睨みながら舌打ちするまでになるんですから、ここは本当に恐ろしい世界です。
そんなことを考えている間にも、パスズール様は私を抱き上げたまま歩きます。かなりの速さで歩いているのに、のんびり散歩をしているかのような軽い足取りでした。
どう反応すればいいか戸惑っていた私も、気がついたら笑っていました。
慣れない踊りで体がクタクタだったので、もしかしたらランナーズハイに近い状態なのかもしれません。
無性に楽しくて嬉しくて、私はパスズール様に抱き上げられたまま、どうでもいいような話をしては笑っていました。
そんな状態で王宮内を抜け、騎士様の兵舎まで行き、馬に乗せてもらいます。もちろん一人では乗れませんから、パスズール様と一緒に二人乗りです。
日は完全に暮れていましたが、ちょうどまん丸になった満月が明るくて、都の通りはまだ多くの人が歩いていました。
美しい夜は、リア充カップルの宝庫です。
以前なら爆発しろと祈念したでしょうが、ハイな状態の私ですからスルーする余裕があります。聖人のように穏やかな気持ちで通行人を見ていると、パスズール様が話しかけて来ました。
「ミサコ殿の宿舎へは遠回りになりますが、南の尖塔を見て行きましょう。噴水通りは行ったことはありますか? 月夜ならリスのいる公園も楽しいかもしれませんね」
「こんな街中にリスがいるんですか!」
「運が良ければ、ウサギもいますよ。ウサギもリスも、子供の頃はよく追いかけ回したものです」
パスズール様にも子供時代があったんですね。
当たり前ですが、すぐには想像できなくて笑ってしまいました。でもきっと活発な子供だったんだろうなと推測できます。
でもそう言えば、私も幼い頃は虫を追いかけ回していました。
その頃は、後に蒸発した父親も一緒に暮らしていて……いや、そんなつまらないことは忘れましょう。
今の私は異世界にいて、パスズール様と一緒にいるのですから。
夜の都を楽しんだ私は、宿舎前まで馬に乗せてもらいました。
さらに、馬から宿舎入り口までのわずかな距離をお姫様抱っこで運んでもらいました。
つい何の抵抗もなく運んでもらいましたが、宿舎の窓から降ってくる同僚嬢の視線に我に帰りました。
……マズイですね。私、お姫様抱っこに慣れていましたよ!
密かに焦っているうちに、入り口でやっと降ろしてもらいました。
「こんなところまで送って……運んでもらってすみません」
「本当はお部屋までお送りしたいところですが、ここまでにしておきます」
「いやいや、私の足の裏はそれなりに丈夫ですから! でも今日は本当にありがとうございました。楽しかったです」
「それはよかった。お見かけした時に疲れた顔をしていましたから、少し心配していました。ではまた。……お休み」
パスズール様はそう言うと、軽く身をかがめて私の額に顔を寄せました。
額の真ん中に、柔らかいものが軽く触れました。
ぼんやりとした私が今のは唇だったと気づいた時、パスズール様はもう騎乗していて、軽く手を上げたと思うとあっという間に王宮方面へと去って行きました。
……な、なんでしょうね。
同志様は相変わらず、全てが大人すぎますよ。
おかげで疲れが一気に飛んでしまいました。そのふわふわ状態は、中途半端に荷造りをしたままだった部屋に戻るまで続き、そして現実に引き戻されました。
すっかり忘れていましたが、引越まであと三日でした。
……困りました。絶対に間に合う気がしません。
そう思いつつ、私は積み上がった荷物に背を向けました。
今夜はもう忘れます。現実逃避と言われても、今夜だけは忘れていたい気分です。
パスズール様と踊った時の高揚感を思い出します。お姫様抱っこをされながら見上げたお顔、馬に乗った時の私を支えてくれた腕、時々肩に当たった硬くて広い胸も思い出しました。
恐ろしく疲れたし、いろいろありましたが……とても楽しかったな。
まだ半分以上物が残っている押し入れを視界から外し、私はばったりとベッドに倒れこんだのでありました。




