15 異世界では暴走しましょう(2)
第四師団の副団長として新たに任命されたのは、なんとパスズール・アシュガ様でした。
全然知りませんでした。
こんなにも知らないことだらけの人だったんだなぁと、遠い魔法使いの席でため息をついてしまいました。
所長様と副所長様は、ここから離れた良い場所に席がありますが、私のようなヒラ魔法使いは狭い末座です。だから、黒地に鮮やかな緑色の斜めラインをあしらったマントしか見えません。
でもきっと、パスズール様は精悍なお顔をしていたことでしょう。
真っ青な目が冷ややかに輝いていて、薄く傷跡の残る額に黒と金色の混じった髪が落ちてきていたでしょう。
でも、それも式典の間だけのこと。
国王様が退席して、少しくつろいだ空気が流れる今は、口元に笑みを浮かべ、やや荒れた頬に髭がないことを指先で確かめたりしながら、親しい騎士様方と談笑しているのだと思います。
私の席からは、遠すぎて何もわかりません。
すぐ近くで、新たに第四師団に配属された騎士様が若いお嬢さんと囁きあっていますが、今はそれほど気になりません。
式典会場のすぐ外では、同じく前線に配属された兵士の方々が、奥様や恋人と別れを惜しむ姿が隠す気もなく繰り広げていますからね。こういう時はリア充様の方が悲劇性が高いようです。
ですから爆発しろなんて言いませんよ。
ええ、遠距離恋愛なんて消滅しろとか、ザマアミロなどとは絶対に思いません。大変そうだなとか、うらやましいなとか思うだけです。はぁ。
でもパスズール様が前線に戻ってしまうと、これから私はリア充たちのイチャラブを一人で見ることになるんですよね……
一人で見て、一人で呪い妬み、一人で舌打ちし、そんな不毛な日常を繰り返すのでしょう。運が良ければ、もの好きな年配のやもめさまの後妻に収まるのかもしれません。そんな幸運が舞いこまないままなら、カナイジェ様を悪い方向にこじらせたような、ひたすら醜悪で性格の悪いおばさんになっていることでしょう。
その頃には、意図的に「モテ期来い」などと書いてしまう厚かましさとか逞しさとか図太さとかがあるかもしれませんね。
……何でしょう、この焦燥感。
私は目を伏せました。痛みの増す胸に両手を当てて、落ち着かない心臓をなだめようと深呼吸をしました。
「魔女クヤマ殿」
低い声に呼ばれ、私は慌てて顔を上げました。
パスズール様がいつの間にかすぐそばに立っていました。すっかり見慣れた第四師団の華やかなマントと禁欲的に着ている騎士服。その襟元に、初めて見る階級章が輝いています。
ああ、この方は副師団長様になってしまいました。
まもなく前線に旅立ち、数年はもう会うことのない方になってしまいました。……もともと高い生まれのリア充様だったのですから、こうして言葉を交わす同志になったことがそもそも奇跡だったのかもしれません。
相変わらず声が出にくい状態でしたが、私は鉄壁の笑顔を浮かべることに成功しました。
「副師団長就任おめでとうございます。今日の主役がパスズール様だったなんて、何も知らなかったので驚きました」
「形式上の肩書きですから、今までとほとんど変わりません。ですから何となく話しそびれていました」
「そうですか。……そういえばお家柄もたいそういいそうですね」
「……誰からそれを?」
「カナイジェ様です。宰相閣下の甥だそうですね。すごい名門貴族様だったんですね。これもびっくりしました」
「……あいつ、余計なことを。だが生まれなど私には意味のないものです。私は前線に出る騎士ですから」
「パスズール様らしいお言葉ですね」
「魔女殿にそう言っていただけて光栄です」
パスズール様はすべすべの顎を撫でながら、小さく笑いました。
手袋をはめた大きな手が、顎から離れて剣の柄に触れます。がちゃりと剣が動き、私は何となくそちらに目が行きました。
パスズール様が口を閉じると、急に会話が途切れてしまいました。
周囲では、若いお嬢さん方がお目当ての騎士様に声をかけています。向こうでは恋人らしき男女が手を握りあいながら歩いて行きました。反対側の柱の影では別れを惜しむ恋人たちが顔を寄せあっていました。
王座に近い方向に目をやれば、そこではたいそう秀麗なお貴族様がいて、でれでれの顔で奥様らしき女性の腰に腕を回していました。
ええ、何だか見たことのあるお貴族様ですね。あれほどまっすぐで見事な銀髪のお貴族様は滅多にいないでしょう。それに顔半分を隠す仮面がないと、本当におきれいすぎて舌打ちしてしまいそうです。胸毛は無事に生えたのでしょうか。
それに、腰を抱き寄せられながら呆れた顔をしている奥様。薄い唇に隠しきれない微笑みがあってとてもお美しゅうございます。惚れ薬なんて、そもそも必要なかったんじゃありませんか?
……なんと、私を拉致してくれたお二人は夫婦だったようで。
奥様の好みとか視線が合わないとかそう言う以前に、お互いに会話が足りなかっただけではありませんか? あれだけアホらしいすれ違いなら、王宮とか魔道研究所などが何とかしろと私に丸投げしてくるはずですね。
お二人のご様子はどう見ても円満ですね。どこの新婚夫婦ですか。結婚何年目かは存じ上げませんが、同棲を始めたばかりのバカップルも真っ青ですよ。
あーあ。お幸せに。
はぁ……爆発しろ爆発しろ爆発しろ……みんなみんな爆発してしまえ!
私はいろいろな光景から目をそらしました。
そらした先にいるのは、パスズール様だけです。背の高い騎士様が、私を見下ろしていました。
私の心臓が、また急に暴走を始めました。
頭のどこかで、今しかないと叫ぶ声が聞こえる気がしました。
何が今なのでしょうか。
この叫びは何なのでしょうか。
……私の心臓は、いったいどうしてしまったのでしょうか。
「……パスズール様」
私の足が勝手に動きます。
私の手も勝手に動きます。
まるで別の誰かになってしまったように、私はパスズール様に近寄り、騎士服をつかんでいました。
目の前のたくましい騎士様は、戸惑いを隠さずに私を見ていました。
「魔女殿?」
「パスズール様。……私を置いていかないでください!」
私の声は、かなり大きかったようです。
急に周囲が静まりかえり、私たちを振り返ったのがわかりました。
でも私の言葉は止まりませんでした。
「私を一人にしないでください! わ、私を置いていかないでください!」
「あの……魔女殿……」
「パスズール様がいなくなったら、誰が私と一緒にお酒を飲んでくれるんですか! リア充なカップルがベタベタしているときに、誰が一緒に荒んでくれるんですか! わ、私はコミュ障というほどではないですが、友達なんて少ないんですよ! ミルエさんはそのうち寿退職してしまうし、ピラニアさんたちとは話が合わないし、所長様と分かりあうなんて未来永劫に無理なんですよ!」
「……ミサコさんミサコさん、落ち着いて……!」
近くにいたミルエさんが、慌てて囁いてきます。
でも私の耳には入りません。聞こえていますが、正しい意味では聞こえていません。私に見えているのはパスズール様の困った顔だけであり、青い目だけでした。
「同志と一緒に荒んだり妬んだりすることを覚えた私は、もう孤独な喪女には戻れないんですよ! 心の平安を覚えてしまったのにどうしてくれるんですか! 私はこの世界では異質で孤独なんですよ!」
「落ち着いてください、ミサコ殿」
パスズール様が周囲に助けを求めるように目を向けた後、そっと私の頭を撫でました。
大きな手でした。
私の髪の乱れを直すように、丁寧に何度も撫でてくれました。
その手がとても優しかったので、私は少しずつ落ち着いてきました。呼吸がゆっくりになって、心臓も穏やかになって……ようやく状況を把握しました。
……ええ、把握しました。
私は掴んでいた服からそっと手を離しました。ひどいしわになっているそれを見ながら、一歩二歩と後ろに下がりました。
怖くて目を上げられません。
周囲にも目を向けられません。
騎士仕様のブーツのつま先を見つめながら、背中に冷や汗を感じました。
私……とんでもないことをいいました……よね?
周囲が静まり返っているのは、気のせいじゃないんですよね?
一応言い訳をしますが、リア充爆発しろな気分をわかちあう同志を失うことに動転しているだけであり、普段は忘れている異世界にいる孤独感が急に噴き出しただけであって、あの、その、……あああああ、今すぐ日本に戻りたい!
今なら最悪な毒母にも熱烈なハグができますよ!
「……魔女殿って、実は情熱家だったんだね」
この爽やかなお声は近衛騎士のカナイジェ様でしょうか。
うわぁ、この屈折した似非王子様にまで見られてしまったなんて、もう都では生きていけません。……このまま走って逃げていいですか? でもどっちに走ればいいんでしょうか。式典会場には初めて来たので、方向がよくわかりません。
「おい、アシュガ。何か言ってやれよ。女性にあそこまで言わせて、だんまりは許されないだろう」
「い、いえいえ、もう忘れてください、猛烈な勢いで忘れてください! なんか錯乱してしまったようで……もう失礼しますね!」
私は顔を上げられないまま、方向がよくわからないまま走り去ろうとしました。
……しかし、それは叶いませんでした。
大きな手が私の腕を掴んでいます。騎士として鍛えた手は、私がちょっと払いのけようとしたぐらいで外れるものではありません。
周囲の視線が集まるのを背中に感じながら、私はパスズール様の手を外そうと無駄な努力を続けました。
「す、すみません。なんかバカなことを口走ってしまいました!」
「……あなたはこの世界では孤独ですか?」
「いえいえ、全然ですよ。皆さんが私に優しくしてくれるのに、孤独なんてそんなのは贅沢者の戯言ですよ。嫌ですね、私、飲み仲間がいなくなるくらいでバカみたいに騒いでしまって……あ、皆さんすみませんでした。気にしないでお別れの続きをしてください!」
「ミサコ殿。あなたは……一人になってしまうのでしょうか?」
「ま、まさか! 私には妖艶で親切で心の広い所長様とか、聡明で腹黒で額の広い副所長様とか……ええっとすぐには名前が出てきませんけど、他にもいろいろ親切な人がたくさんいますから!」
「一緒に行きますか?」
「ミルエさんに子供ができたら、子守なんかもさせてもらったり……え?」
今、予想外な言葉を聞いた気がしました。
思わず顔を上げると、パスズール様はようやく私の腕から手を離してくれました。
「さすがに前線の砦に来ていただくことはできませんが、十キロ手前の集落までならお連れできます。何もない田舎ですが、いいことに地酒はなかなか美味いものが揃っています。植物の研究で暴走させても、都ほど影響はないでしょうね」
「いや、その、でも、魔法使いの私が研究所を離れるなんて許されるとは……」
「今の私には、従軍魔法使いを指名できる権限があります」
……あ……ああ、従軍魔法使いのことですか。あははははは……。
私、何だかものすごい勘違いをしていたみたいです。
どんな勘違いだったのか、私は考えないようにしました。そうしないと恥ずかしくて泣いてしまいそうです。ええ、何を期待したんでしょうか。バカですかアホですか。身の程を知れって感じですね。
私が必死で笑顔の作り方を思い出そうとしているのに、パスズール様はまるで当たり前のことを話すように言葉を続けていきました。
「都ではリア充だらけで目の毒ですが、向こうは静かなものですよ。少々戦闘があるくらいです」
「……せ、戦闘って、それは少々なんてレベルじゃないですよ。そんな大変な場所で、わ、私が行っても役に立つとは思えませんよ」
「そうかな。かなり役に立つと思いますが。しかし、そんなことは本当はたいした問題ではありません」
パスズール様は少し言葉を切り、ゆったりと胸の前で腕組みをしました。
腰に帯びた剣が硬い小さな音を立てました。マントを肩にはね上げているので、禁欲的な騎士服の上からでも、広い肩幅と厚い胸板と太い腕がよくわかりました。
「私は公私混同は好みません。しかし一生のうち一度くらいは、この手にある全ての権力を利用して、私情に走るのも悪くないと思うようになりました。……こんな私を、あなたは軽蔑するだろうか」
「……え? いや、そんな、私なんかが軽蔑なんて……」
「私は今、私情のみでお誘いしています。あなたとはこの先もずっと飲み交わしたいから。もしあなたが一緒に来てくれるなら、私はあの地でもこの上ない幸せを得られる」
腕を解き、パスズール様は私の顔を見つめました。
かなり強張った私の笑顔の下から、何かを探し出そうとしているようでした。
「私と一緒に行ってくれますか?」
私は……すぐには答えられませんでした。
パスズール様の言葉をゆっくりゆっくりと咀嚼し、理解して行きます。
頭が理解していくと、私の顔はどんどん赤くなっていきました。
「ミサコ殿?」
「……あ、あの、えっと……じゅ、従軍魔法使いからなら喜んで!」
かなり上ずった声でしたが、私はなんとか言い切りました。
でも……空気がなんだか微妙です。パスズール様も意表を突かれたような顔をしていました。
あ、あれ? 私、言葉を間違えてしまいましたか?
年齢はおばさん級でも、私は経験値の低い喪女ですからね。初心者向けの順番通りでなければ頭がついて来ないから、まずは飲み友達の続行から始めましょうと言ったつもりだったのですが。
……もしかして通じていなかったりしますか? ……通じませんか。通じませんよね……バカだアホだどうしよう……!
青ざめてパスズール様の表情をうかがうと、騎士様は口元に手を当てていました。半分隠れた口元は、なんだか引きつっています。
怒っているのかと思ったら……笑っていました。
「……そうだな、いきなりは失礼だったか。ミサコ殿の言うとおり、まずは従軍魔法使いとして一緒に行きましょうか。不便ではあるが、慣れれば良いところですよ」
「だ、大丈夫です。私にとっては全てが異世界ですから!」
「それは頼もしい」
パスズール様は笑いながらうなずき、口元に当てていた手を私の方に伸ばします。そして大きな手がゆっくりと私の頬に触れました。
この手に触れられるとなぜか心が落ち着きます。でも落ち着いてくると、周囲のくすくすと笑い合う声が聞こえました。
同僚ピラニア嬢たちのいる一画からは、怨嗟の視線が突き刺さっています。……本当に痛いのは気のせいでしょうか。本気の魔力がこもっていませんか。私闘での魔法利用は禁止されていますよ!
別の意味で青ざめた時、突然、誰かがパンパンと手を叩き始めました。びくりと振り返ると、にこやかな似非王子様めいた近衛騎士様が手を叩いていました。
その拍手に釣られるように、周囲に拍手が広がっていきました。あっというまに式典会場全体に拍手が広がり、所長様まで嫣然と微笑みながら手を叩いていらっしゃいました。
羞恥で頭が真っ白になりそうです。
でもパスズール様はそんな私の顎にもう一度触れ、少し屈んだかと思うと私の頬に素早い口づけをしていました。
完全に言葉を失い、ひたすら動揺して目を泳がせた私は、拍手をやめた近衛騎士様がため息をついたのを見てしまいました。
「相変わらず派手なことで。……さっさと前線に行ってしまえ」
拍手と冷やかしの歓声の中、私の耳には近衛騎士カナイジェ・ナリノ様の舌打ちとつぶやきがはっきりと聞こえたのでした。
「異世界の魔女は夢を見る」はこれで終わりです。
お付き合いいただきありがとうございました。
(この後に、番外編として本編の続きを少し書いています)