第一話 可視酔いと初恋の人の異変
彼は、私の声に気づいて振り返ってくれた。
「……何かな?」
高い背も、低い声質も、艶やかな黒髪と漆黒の瞳も。何もかもが澄恋そのものだ。
何故、澄恋はこの世界にいるのだろう。彼は元居た世界で交通事故に遭い、亡くなったはずではないのか。今は、この世界で何をしているのか。元気で暮らしているのだろうか。色々な質問がいっしょくたになって、口から飛び出そうになる。
だが、再会を喜ぶ私に対して、澄恋の反応は乏しい。
「君……僕の事、知ってるの? 君とは初対面だよね?」
「えっ……?」
澄恋の返答に狼狽えてしまう。しかし、すぐに私の姿がリリーシャだから分からないのだと自覚した。
「じゃあ、香姫の事なら知ってるよね? 私、鳥居香姫なの!」
「鳥居香姫……?」
澄恋は怪訝そうな顔をするばかりだ。ついには、澄恋の苦笑が返ってきた。
「ごめん、その人も知らないんだ」
「えっ……」
頭の中が疑問で埋め尽くされる。目の前の彼は、景山澄恋じゃなかったのか。いや、私の問いに返事をしたから確かに彼だ。だとしたら――。だとしたら、どうして私の事を知らない?
あまりに衝撃的な出来事を体験してしまい、自分が可視使いであることをすっかり忘れていた。
「っ!?」
澄恋に疑問を持った為、例によって私は澄恋の服の下を可視してしまったのだ。無駄のない筋肉に、細身の身体が視覚に訴えてくる。あまりの衝撃に眩暈を覚えた。澄恋の裸なんて一度も見たことがないというのに。
「おっと!」
倒れそうになる私を澄恋は支えてくれた。
「大丈夫か?」
「うん……大丈夫……」
間近で裸を見てしまい、あまり大丈夫ではなかった。私は澄恋に抱きとめられて、どぎまぎするばかりだ。
澄恋が、一瞬驚いたような顔つきになった。
「香姫さん、可愛い腕輪してるんだね……」
「うん……」
「僕はちょくちょくこの魔法学校に来るから、また会おう」
「うん……」
私の視界はぐるぐると回って、収まりがつかなくなった。澄恋に再会して有頂天になったからかもしれない。
医務室のドアが開く音がした。
「リリーシャ、さっきから何やって……。リリーシャ!?」
「ふにゃ……」
ふやけたセンベイのようになって壁にもたれている私に、ジュリアスが駆け寄って来た。彼は、私がデレデレになっている理由を知らない。
「一体、何があった!?」
ジュリアスの表情は、心配と疑問が大半を占めている。彼の心配をよそに、私はヘラリと締まりなく笑っていた。
「えへへ、初恋の人に会っちゃった!」
「えっ……?」
ジュリアスの表情が険しくなった。
「なんで、君の初恋の人がこっちにいるんだ? どう考えても変じゃないか!」
ジュリアスの言葉が妄言に聞こえる。私は初恋の人の裸を見たせいで自分の視野に酔っていた。
ジュリアスの裸を初めて見た時と同じ症状だった。視界がピンク色になって花びらが舞っている。
「ふにゃ……」
「まったく! 何を見たのか知らないけど、『可視酔い』するだなんて!」
ジュリアスが呆れ返っている。でも、私の恋心は歯止めが効かないので、仕方がないのだ。
ジュリアスが医務室のドアを開けて声を上げた。
「クレア先生! ちょっとこっちも診てくれませんか!」
「今日は忙しいわね」
ドアの中から明るい声が近づいて来る。クレア先生はドアを閉めると、私の傍にしゃがんだ。
私の頬を軽く手のひらで叩くと、頷いて診断を出した。
「可視酔いね! 一体、何を見たのかしら?」
「えへへ。初恋の人に再会しました~」
私は酔っぱらったまま、両手でピースサインした。
「あら~、良かったわね~」
クレア先生はジュリアスを見てニヤッと笑った。彼女は私たちの関係を完全に面白がっている。ジュリアスはジュリアスで、クレア先生のその視線にカチンと来たらしい。
「……クレア先生、完全に楽しんでますよね?」
「あら、シェイファー。そんなことないわよ? 私はただ、ローランドが初恋の人に再会しても別に変じゃないと思っただけよ?」
「変でしょ、だって……」
「全然変じゃないわ。だって、ローランドも転生したんだもの。彼も転生したのかもしれないじゃない」
ついに、ジュリアスは黙ってしまった。
「怒らせちゃったかしら?」
クレア先生は肩をすくめた。そして、私に可視編成をかけてくれた。やっと私は酔いから冷めて、元の気分に立ち返ることができた。
「クレア先生、ありがとうございます!」
「良いのよ~。シェイファーを怒らせちゃったけど、ごめんね?」
「ジュリアス君、あの……」
「僕は、変だって分かってるから。気を付けた方が良いよ」
「う、うん……」
どことなく、ジュリアスはイラついていた。私の事を心配してくれているから、虫の居所が悪いのだろうか。
それでも私は、澄恋にまた会いたいと思ってしまう。でも、もし蟻地獄のデュランのような罠だとしたら――。ジュリアスの言うとおり、用心に越したことはない。けれども、澄恋がそうであってほしくないとも願ってしまう。
私の心の中では、期待が大半を占めていた。
澄恋との出会いが、やっかいな事件の幕開けになるとも知らずに。
ジュリアスとクレア先生が医務室の中に入って行く。廊下の端に目をやると、薄闇が襲い掛かってきそうだった。怯えた私は、ジュリアスの後に続いて入り、医務室のドアを閉めたのだった。




