遠浅
遠浅とは岸から沖まで、ずっと浅い海をいう。
深くはないから安全で、ちゃんと足がつくから大丈夫で。
だから心配はない。けれど──。
──
「……。……」
眠い頭を覚醒させたのは、聞き慣れてきた着信のメロディだった。
これに叩き起こされる度に、もう少し大人しい曲にしておけばよかったと悔いる。けれど相手をイメージして決めた曲だから、今更それを変更するのは何か業腹だった。
もぞりと布団の中で寝返って、枕元の携帯電話に手を伸ばす。
こんな夜更けに無遠慮に電話をしてくるなんて、一体どういう要件だ。思いながら、半覚醒の指で通話ボタンをやっと探り当てる。すると、
「ハローシーキューシーキュー。っつーか寝てたかマジごめん」
やはりというかなんというか、声の主はのっけから馬鹿だった。そもそもCQとはcall to quarters、つまり四方への呼び掛けの略である。私宛に電話しておいて、不特定多数への通知を装うとはどういう了見か。
「謝るくらいなら、かける前に気を使え」
「うん、ごめんなさい」
素直に詫びたので、おや、と思った。
いつもなら詭弁を弄し多弁で晦まし、のらりくらりと本音をはぐらかすはずなのに。
「やけに素直だな?」
「んー、ちょっとテンション低くてな。具体的に言うとhello,hello,how lowって感じ。だから君に叱られたかった」
言葉を交わすうちに、だんだんと目が冴えてきた。ベッドの上に座りなおす。
「酔ってるな?」
「いや全然」
矛先を変える事にする。
「呑んでるな?」
「うん。そりゃもうがんがんに」
「馬鹿。私は酔っ払いは嫌いだと言ってるだろう」
「だから酔ってないですってば」
「酔漢は皆そう言うんだ」
決まりきった問答に、はっはっは、といつもの惚けた笑いが返る。
「いやいやホントに大丈夫。オレは経験から学ぶ子だから。賢い大人だから。いつぞやみたいに呑んだくれてからツマミ追加しようとして、包丁でばっさりやって大流血とかもうありえないか……!?」
がつん、と電話越しに鈍い音が聞こえた。他人事ながら、思わず額を抑える。
間違いない。今、馬鹿が転んだ。そして派手に頭を打ち付けた。
「大丈夫か?」
「──痛い」
「酔っ払いが調子に乗ってうろうろするからだ。自業自得だ」
「冗談抜きで痛い。っつーかもう泣くいやマジで」
「大の男がめそめそするな」
完全にいい大人の台詞ではない。そもそも自称賢い大人ではなかったのか。
仕方ない。ひとつため息をついた。布団を抜け出して体を伸ばす。まあどうせ、自転車で数分の距離だ。
「え、何、来てくれんのっ!?」
一体こちら側のどんな気配を察したのか、馬鹿は歓声を上げた。まるで大喜びの子犬が尾を振り回すようなテンションだ。
思ってから、即座に質した。子犬? こいつがそんな可愛らしいシロモノであるものか。
「相手、して欲しいんだろう?」
「うん」
「なら、仕方ない」
嫌々なのだぞ、というニュアンスを極力滲ませたつもりだが、はてさてどこまで通じたものか。
そもそも、思ってしまっているのだ。コレがこんなふうに臆面もなく甘えてくるのは、きっと世界に自分ひとりだけだと。
それを嬉しくも誇らしくも感じてしまう自分の心は、残念ながら否めない。
薄く寝汗をかいていた。シャワーくらいは浴びておきたい。まだ鈍い頭で所要時間を概算する。
「三十分で行く」
「んー、もうちょっと早くは無理か?」
オレは寂しい、ウナギは構ってやらないと死んでしまうんだぞ云々と戯言は続く。孤独のあまりで死ぬかどうかは別として、のらりくらりと捉え所のない辺りは当てはまっているのじゃないかと思う。
「夜更けに叩き起こしておいて無茶を言うな。女の身支度には時間がかかるんだ」
「その割りには早かないか?」
「もっと遅くてでいいんだな?」
「ASAPでよろしく」
「はいはい」
電話向こうでは馬鹿がまだ、それじゃあ待ってる愛してるなどと騒いでいたが、返事はせずに通話を切った。
「……まったく」
電気を点けて着替えを探る。袖を通しながら不満を籠めて、じろりと沈黙した携帯電話を睨んだ。
ひとを呼びつけるなら、もう少しやり方というものがあって然るべきだろう。
それから、ため息などをもうひとつ。
──愛してるくらい、偶には素面で言ってみろ。
──
これはきっと、遠浅の海に似ている。
浅い浅いと油断をすれば、突然足が届かなくなる。
まるで罠のように、ほら。
気付けば、深みに嵌っているのだ。