間話 貴石との会合
エルネットで過ごす最後の日。
夕食後、眠いと言って早々に部屋に引き上げていった桜を見送った後、アステルは同じ食卓に着いているスター、ピジョン、ジスタを見回し、話を切り出した。
「不躾で申し訳ありません。ティア・ダイアモンドにお会いすることはできないでしょうか?」
寛いでいるところにアステルの思ってもみなかった発言を受け、左斜めの席で湯気の立った湯飲みを持ち上げ、今正に口へ運ぼうとしていたジスタはそのままの体勢で向かいのピジョンと顔を見合わせる。スターは顔つきに心持ちの真剣さを加えた。
「何故、と理由をお聞きしてもよろしいですか?」
「全てを思い出した、と述べれば分かっていただけますでしょうか?」
アステルはスターの質問に質問で答えた。そしてユヴェーレン三人は、それだけでアステルが何を言わんとしているかを正しく理解した。今までの出来事を突き詰め、検討した結果、自らの記憶を奪った元凶はホープでしかあり得ないと判断したのだろう。
しかしホープが望むのであればともかく、そうでなければスターたちに仲介を務める権限はない。これは仲間内での不文律となっている。
ホープは既に全ての顛末を把握しているのだろう。にもかかわらず何も言ってこないということは、こちらに一切を任せるとの心積もりなのか。いや、もっと的確に表現するならば「面倒だから代わりにあんたたちがなんとかしておいて」というところか。
――まるっと押しつけかよ、あの動物使い! 下準備だけ整えて、後は人任せに放り投げやがって!
ピジョンは心中でひとしきり毒突いた。
アステルの口調は穏やかだったが、目つきには一握りの柔らかみも含まれていなかった。彼はピジョンたちユヴェーレンに対する敬意を崩そうとはしない。しかしだからといって一歩も引く気はなさそうだ。
仕方がない。他の二人と目配せを交わした後、ピジョンはアステルの怒りを受け止めようと心を構えた。
「お前の記憶を奪ったのはダイヤの独断だ。だが、ユヴェーレンの総意だと受け取ってもらって間違いない」
「つまり、ティア・ダイアモンドにお会いすることはできないと?」
「言い分があるなら俺たちが聞こう」
「……」
アステルとしてもそう簡単にダイヤモンドと接触できるとは思っていない。それでもやはり、張本人であるユヴェーレンの真意を問い質したかったというところが本音ではあった。
彼は未練を断ち切るように一度目を伏せた。ユヴェーレンという立場にあるピジョンたちが話を聞くと申し出てくれただけでも、破格の待遇であるといえるのだろう。
すぐ様顔を上げたアステルは、まるでここが抜き身の得物同士をぶつけ合う場であるように、激しい気迫を込めてピジョンを見据えた。
纏う空気を苛烈に変化させたフリューゲルの使い手にピジョンは一瞬たじろいだものの、次の間にはもう落ち着きを取り戻し、真っ向から対峙する。
「ではせっかくの機会なので申し上げます」
口調だけはあくまでも静穏に、アステルは詰問を開始した。
「あなた方に重い責任がおありになるのも、そのおかげで私たちが平和に暮らしていけていることも充分承知しているつもりです。ですが、この度における騙し討ちのような方法には納得がいきません。あまりにも、私や桜の気持ちを無視しすぎているでしょう。もう少し他の方法はなかったんですか?」
「他の方法、と言ってもな……」
ピジョンは腕を組んで言った。
「正直、俺たちが桜の存在を知った頃にはもう、ダイヤはこの手でいくって決めちまってたしな。アイツの考えはよく分からねえんだわ。だがよ、お前は俺たちが、ジスタを身体に戻すために桜を借り受けたいと願い出た場合、素直に差し出せたか?」
ここでピジョンは一度言葉を止め、アステルの反応を窺う。表情にも雰囲気にも変化のないアステルは、無言で続きを催促しているようだった。意を汲んだピジョンは言葉を続ける。
「それに俺たちがフリューゲルの存在に思い当たれたのは、桜の言を受けたからだ。それまでは間抜けにも気付かなかったからな、破魔太比の攻撃を受けながらの行動を覚悟していたんだ。あれの厄介さはお前も思い知っただろう。最悪、桜が命を落とすという事態もあり得たかもしれん。その場合、お前は俺たちに悪感情を抱くだろうな。グレアム家はベルディアでもかなりの発言力を持つ家柄だ。そこの次期当主に反感を持たれた場合、ユヴェーレンの活動にどんな障りが出てくるか分からねえからな」
「公のことに私情を挟んで、王や殿下に奏上はいたしませんが――」
アステルは例え彼にとって重要な位置を占める何かを奪われたとしても、それに周囲を巻き込むようなことを潔しとしない。この場合周囲とは、家族やその息がかかった者以外を指す。いずれは上に立つ者として、多くの責任を肩に担う教育を受けて育ち、その義務を全うしようとする考え方が否応無しに染みついてしまっている。
だから万が一の場合がないように、何かと危険に飛び込もうとする桜の身の安全には人一倍気を使ってきた。
「申し出を頂いてもおとなしく頷けはしなかったかもしれません。しかし少なくとも、私と事前に話していただければ、早い段階でフリューゲルに気がつかれたはずです」
痛い所を突かれたピジョンである。だがそうだとはいえ、非を認めてそのままこうべを垂れるほど大人しい性格をしていない。また、譲ることができない信念もあった。
「……まあな、だがそれも結果論だ」
ピジョンは組んでいた腕を外して食卓の下で拳を握り締め、心持ち声を低めた。
「お前が納得しようがしまいが、俺たちにも義務がある。個人と全体どっちを取るかと問われりゃ、迷わず全体を選ぶ。それがユヴェーレンの役割だ」
ピジョンの主張はアステルにも理解できる。常日頃から彼が己に戒めてきた考え方でもあったからだ。しかし、やり方が問題なのである。
「そのためには個人の気持ちを踏みにじってもよいとおっしゃるんですか?」
「だったら訊くが、お前は桜とそれ以外の女が危機に晒されている時にどちらを助ける? 一方しか救えない場合、考えるまでもねえよな? 選ばれなかった女の気持ちを斟酌しようが、意志は揺るがねえだろう。そういうことだ」
今度はアステルが詰まる番だった。そのような事態に陥った際、刹那の迷いも抱かないと断言できる。しかし感情とは白か黒かで割り切れるものではない。制御しきれない灰色の部分が、アステルに反論するよう働きかけた。
「――そうですね。確かに、例え何度決断を迫られたとしても、私は桜を選ぶでしょう。その私が被害者めいた言を振りかざしているのはおこがましいことなのかもしれません……。ですがあなた方のおっしゃる理論に従うならば、これからは大切な存在を守るために、私たちが二度とこのような思いをしないためにも、考えつく限りの対策を講じさせていただきます」
まなじりに、そして据えた腹の中心に更なる力を盛り込んだアステルの、宣戦布告とも取れる発言にピジョンは口を歪める。段々と頭に血が上っていく己を妙に冷めた部分で知覚していた。
ピジョンは普段の様子からも激しやすい性格と思われがちだが、それは親しい間柄だけに、気を抜いた証拠として披露する姿だといえる。危急の際や相対する敵を前にした場面では、久しく培ってきた経験からくる沈着さを常に見せ、理性的に物事を運ぶ。しかし今、アステルに対する彼の反応は少し過剰である。その理由として考えられるとすれば。
――呵責、かのう。ジスタはそう分析した。
ジスタの思いなど窺い知る由もないピジョンとしては、アステルにこうまで言われて迎え撃たないわけにはいかない。
「俺たちを敵に回すと言いたいのか? さっきはなるべく穏便に済ませたいから敵対したくないと言ったに過ぎねえんだぞ」
「それはあなた方次第でしょう」
怒気を交えて挑発するピジョンに、並々ならぬ意志を目に覗かせるアステルも、退く素振りを見せなかった。
「今後、また私たちに何某かの画策を以て干渉なさるようなことがあれば、例え相手が世界の平定者たるユヴェーレンであろうとも、全力を以て敵う限りの抵抗を示しますよ。手段は問いません」
「いい覚悟だ。だったら――」
「そこまでです」
ピジョンがその先何を言おうとしていたのか。激しく炎上しようとした言葉を、淡々と、それでいて決然とした声が、分厚い金属の板で断じるように遮った。
次いでスターは、包み込むような穏和に窘める声音で続ける。
「そういきり立たないでください、アステルバード殿。ピジョンもいい加減にしなさい。心にもないことを言うものではありません」
これにより、切れそうなほどピンと張り詰めていた、アステルとピジョンの間に漂っていた緊張感がフッと弛緩する。気勢を削がれたピジョンは冷静さを欠いた自分をばつが悪い思いで顧み、いつの間にか前へ乗り出す格好になっていた身体を背もたれに預けた。
「あー、なんか引っ込みがつかなくてな……」
「やれやれ、単細胞じゃのう」
「うっせえぞジスタ!」
「二人とも、喧嘩なら余所でやってください」
いつもの調子で言い争いを始めようとしているピジョンとジスタを、今回はそれどころではないと判断したスターは冷たくあしらった。そしてアステルに向かって強い悔悟を表すように頭を下げる。そんな姉の様子を見たピジョンの声と身体は反射的に制止に入ろうと動きかけたが、内に燻る後ろめたい思いに押さえ込まれた。
「失礼いたしました、アステルバード殿。しかしあなたや桜の気持ちをないがしろにしたかったわけではないのです。弁明と取られるかもしれませんが、ユヴェーレンが人の記憶に手を加えるなど、これが初めてのことでした。今回は前例のない事態であり、私共の方策も浅慮の至りだったと認めるしかありません」
続くジスタは取りなすように折衷案を提示する。
「許して欲しいなどと図々しいことは言わん。じゃが、あんたには多大な恩義を受けた。ここは一つ、ユヴェーレンに貸しを作ったと思って妥協してくれんかの?」
「元はと言えばお前がドジこいたおかげなんだけどな」
「分かっとるわい。茶化すな若造」
「お聞きの通りです――」
放っておけばまたもやぶつかり合おうとする。これが自然なことなのだ、とスターは二人に対する認識を改めて確認しながらも、会話の手綱を望む方向へと捌いた。
「今から私たち三名はいずれも、あなたからのいかなる要請にもお応えいたします。それで手打ちにしていただけませんか?」
「ただし、国の利権が絡む場合はその限りではないぞ」
「それから一回だけな」
ユヴェーレンである彼らが一個人に向かってここまで譲り渡すなど、通常であればまず考えられない。破格の条件である。今回の件についていかに彼らが負い目を感じているのか、アステルにもその誠意は伝わってきた。
だがしかし。
「――お申し出はとても光栄に思います。しかしユヴェーレンの方々に何かをお頼みするのは、もうご遠慮申し上げたいのですが……」
そもそもは、彼がホープに願いを告げてしまったあの時から始まったのだ。いや、突き詰めていけばジスタが発端であるともいえるのだが。
「ですが、あなたは桜に出会えたのではないですか?」
「……」
この指摘にはアステルも黙って頷き返すしかない。
様々な問題が付随してきたが、確かにホープは彼の望みを叶えた。
「では、俺の分は桜に回していただけませんか?」
例え桜に巡り会えたとはいえ、アステルはもう誰かに頼って目的を遂げようとは思えなかった。自分で行ったあげくの報いは自らが負えばいい。だが他からの力を当てにして、感知せぬままよいように踊らされた今回のような状態には、もう我慢ならない。そのせいで最愛の存在を傷つけてしまったとあれば尚更に。
「安心しろ。この先俺たちが何かの事態に桜を巻き込むようなことは断じてない。あいつは今後、無条件で俺たちの庇護を受ける。なんせかわいい妹分だ。ペリドットも既に守っているようだがな」
「すまんが例えあんたでも、桜を泣かせたり辛い目に遭わせるようであれば容赦はせんぞ。覚えておいてくれ」
アステルは僅かに顎を引いて絶句した。何故だかいきなり立場が逆になってしまった。――完全に信用することはもうできそうにない。それでも桜に接する彼らの態度を見て、また桜の名前が出た途端に温もりある方向へと変化させた彼らの表情を考えると。
ユヴェーレンであるスターたちがそう請け負うのであれば、自分がある日突然桜を喪ってしまうような事態は避けられそうだと、アステルは心中で深く頷いた。ようやく心の重しを外した自分を実感した。
「ですから、どうかあなたの分も借りとして、いつか返させてください」
困ったように微笑みながら頼み込むスターの言葉に、アステルは眼差しに込めた険しさを緩めた。そのさまを捉えたジスタが急に席を立ち、部屋の隅に据えつけられた戸棚の方へと向かう。
「分かりました。ありがたく貸しということにさせていただきましょう」
いずれにせよ、ユヴェーレンに恩を売っているという今の状況は歓迎すべきなのかもしれない。アステルは、戸棚の引き戸を開けて何やらゴソゴソと探り始めたジスタを視界の隅に留めながら、了解した。
それは和解の表明であり、この場における話し合いの終息を告げる合図でもあった。
「そうと決まれば、やるか!」
軽やかな宣言が室内を通り抜ける。食卓の三人が何事かと声の主を求めて目線を移動させると――
そこには、満面の笑みを浮かべながら両手に一本ずつ酒瓶を掲げ持つジスタの姿があった。ジスタはそれらを食卓の上に置くと、「まだあるぞ」と言いながら、次から次へと大小長短様々な形状の酒瓶を取り出してくる。
「テメッ、それ俺が集めた……! なんで知ってんだよ!!」
「ふん、けちくさいことを言うな若造」
「喜んでお付き合いいたしましょう」
「遠慮するんじゃねえのか、アステルバード!」
「まあまあピジョン。明日にはお別れとなってしまうのです。一夜の宴と参ろうではありませんか」
自分を置き去りにして着々と準備を進める一同を茫然と見やり、長年をかけて収集してきた秘蔵品が一晩で露と消えてしまう未来を、ピジョンは瞬時にして悟った。おまけにつけ加えるなら、ここで自分一人が騒いだところでその未来が変わるはずがないということも。
――いいだろう……。こうなったら、ジスタとアステルバードを酔い潰す!
ジスタはともかくとして、アステルが底なしだということを知らないピジョンは、炎のように燃えさかる悔しさを胸に、せめて大切な酒を奪われる意趣返しをしてやろうと心に誓った。
その後、鼻を利かして起き出し、つむじ風のように飛び入りしてきた桜によって座は散々に掻き回され、ピジョンの計画は敢えなく頓挫してしまうのだが、それはまた別の話である。




