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空を映す海の色  作者: せおりめ
第3章
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解放 6

「アステル、やった……」


 眼前で繰り広げられた光景に放心状態で目を奪われながらも、勝手に動いた口がそんな言葉を呟いた。でも出てきた言葉を噛み締めて心が浮き立ってくる前に、私の思考は凍りついた。

 着地したアステルはそのまま膝を折ってしゃがみ込む体勢になり、次いで糸が切れたみたいに、前のめりの体勢で地面に倒れ込んでしまったのだ。地にぶつかったフリューゲルが立てる、硬質な音がやけに耳を打つ。


「アステル!」


 既にピジョンはアステルの傍へ駆け寄っていた。スターは波真太比の方を担当するらしく、別方向へ走っている。

 私はというと、立ってしまうと脳貧血状態になってしまうので、ヨタヨタと四つん這いになりながら、その体勢で出せる可能な限りの速さで近付いていった。小石で膝が擦れるのも気にはならない。でもこの牛歩並みの速度がもどかしかった。イヴはそんな私に合わせて横を歩き、おじいちゃんは先にアステルの所に辿り着いていた。

 傍に着いた頃には、俯せ状態だったアステルは仰向けにされていた。ピジョンが真剣な顔つきでアステルの胸辺へ両手をかざしている。

 アステルの状態を見て、私はただでさえ足りない血の気が更に逃げていくかと思った。

 四肢は全く力が入っていない様子で地面の上に投げ出され、血液は本当に循環されているんだろうな? と疑いたくなるくらい肌が青白い。所々に火傷を負い、一部の服は焼け焦げていた。これは礫を防いだピジョンの魔術が原因なんだろう。理不尽とは解っていても、ちょっとピジョンを恨みたくなってしまった。

 それから打撲や裂傷の痕も痛々しい。何より、右の手首にパックリ開いている傷が見ていられなかった。アステルの右半身の衣服は、まるでバケツ一杯の赤黒いペンキを撒かれてしまったんじゃないかという有様。私のスプラッタな袖なんか、まだ綺麗な方じゃんかと思えるほどだ。酷い出血量を想像させた。

 多分、血の匂いが立ち籠めているんだろうけれど、もう自分自身の鉄臭さで鼻が慣れてしまったのか、そんなに気にはならなかった。


「アステル……」


 ペタペタと這いずり、頭の方へ移動してアステルの目を覗き込む。いつもは生に溢れる輝きを深く青い色に閉じ込めている瞳が、今は薄い。捉え所のない場所を映そうとしている。呼びかけると、焦点を合わせようと濃度を上げかけるものの、上手く混ざりきらない。変な表現なんだけれど、そんな感じ。


「アステル」


 声が、震えた。

 片手を地面に突いて支え、もう片方の手でアステルの頬を包む。手の平に伝わってくる体温はとても冷たい。青ざめた唇が動いて何かの言葉を紡ごうとしているみたいなのに、声は出てこなかった。

 今だけは、涙が流れない自分を喜んで歓迎したい。何かに焦れているように心臓は早鐘を打ち、鼻の奥に込み上げてくるものがある。でも今は悠長に泣いて、嫌な予感に気持ちよく浸っている場合じゃないと思う。

 そもそも! と私はアステルの頬に手を置いたまま怒りを込めてピジョンの方を向いた。


「ピジョン! さっきからアステルの様子が全然変わってないじゃない!」


 そうなのだ。ピジョンは大真面目な様子でいかにも治療していますよって風情なのに、アステルは全く回復しているようには見えない。何をやっているんだと文句の一つも述べたくなる。イヴにでも変わってもらったら? という失礼な意見まで喉元に飛び出してきた。


『この若造は昔から手当を施すのが下手なんじゃ』


 おじいちゃんが私に便乗したみたいにしみじみと零す。


『スターに才能を持っていかれたんじゃろうのう』

「うるせえぞクソジジイ! アステルバードに空っぽになっちまった魔力を供給してだな、それを介してアステルバード自身の力で快癒するように仕向けてんだよ!」

『まあ、お前さんの回復技術じゃその方が無難かの』

「やかましいっつってんだろ! ほら、怨みがましい目で睨めつけてねえで見てみろ、桜」


 うっ、そんなに睨んでた? 曖昧な媚びを乗せて、えへへとちょっとだけピジョンに笑いかけてから、アステルに視線を戻した。

 あ。

 見る間に様子が変わっていく。火傷や打撲の痕は消え、手首の傷も塞がった。顔に目を転じると、頬には赤みが差し、手の平越しに伝わってくる体温もさっきよりは温かくなっているようだった。

 何よりも劇的だと思ったのはその瞳。ここじゃないどこかを彷徨い、果てのなかった眼差しが、今は私の目とカッチリ噛み合っている。まだ少し弱い。でもさっきよりずっと確かな意志を感じさせる力が籠もっていた。


「――無事で」


 緩く直線を引いていた口が弧を描き、ハッキリと言葉を紡ぐ。


「よかった……」


 頬に乗っている私の手に自分のを重ね、安堵したみたいに言うんだ。私は奥歯を噛み締めて、色んな感情がごちゃ混ぜになって襲撃してくる感覚を堪えた。顔を見られたくない。きっと、とんでもなくおかしな表情になっている。


「それはこっちの台詞!」


 極まっている自分を誤魔化すために叫んでから、アステルに負担がかからないように抱きついた。そうしたら、背中と頭に腕が回ってくる。

 ああよかった。本当によかった。

 私は目を閉じ、しっかりした息遣いや鼓動を確認しながら、腕の中にある生を実感していた。


「あっちもどうやら無事だったみたいだな」


 しばらくの間アステルに覆い被さっていた私は、ピジョンの声をきっかけに身を起こそうとした。

 うん? 何故か身体に回されている手に阻止されて動けない。地面に手を置き、ふんがと突っぱねてもビクともしなかった。なんなんだ!


「もう少し」


 ひえっ!

 抗議しようとした口が、名前を呼ぼうとした「あ」の形で静止した。耳元で囁かれたのだ。一瞬で鳥肌が立ち、身体が硬直する。こんな時に色気を出すのはやめてほしい!


「お前ら、後にしろ」


 ピジョンの冷たい声音が私の耳を容赦なく突き刺す。後って! 何をしろと!?

 自分のせいでもないのに後ろめたい思いを抱えている私とは逆に、アステルは不承不承、といった態度を前面に押し出して溜息を吐く。よくそんなふてぶてしい自己主張ができるもんだ、と慎ましやかで常に後ろへ控えている性格の私は素直に感心した。

 アステルが、私を抱き締めたまま反動をつけて半身を起こす。私はその膝に座っている状態になった。一見、もうなんでもない調子に見えるけれど。


「本当にもう平気?」

「はい、もう大丈夫です」


 こちらの気持ちをほぐすように眼を細め、力強く頷いた姿を見て、最後まで肩に蹲っていた強ばりがやっと抜けていくのが分かった。


「桜、こっちへ来て」


 珍しく尖った声でハッキリ喋るイヴが、背中の服を引っ張る。


「――ペリドット?」


 イヴと言いかけたら声が出なかった。アステルが名前を知らないからだ。不便だな。イヴは教えてあげないのかな、と思いながら後ろを振り向くと、イヴはやけに不機嫌そうなブスッとした表情で私を見下ろしていた。

 もしかして、お冠状態? イヴはそのまま無言でグイグイ服を引っ張り続ける。私はアステルの膝から抜け出し、数歩分先へ離れたイヴについていった。もちろん、這いながら。


「どうしたの?」

「これ、飲んで……」


 何か目的を達して満足したみたいに、一転して機嫌がよくなったイヴの手の平には、明るい紅茶色をした丸い木の実状の物が乗っかっていた。指先でそれを摘んでしげしげと眺める。梅干しの種くらいの大きさで、表面がザラザラしていた。


「何これ?」

「血を増やす……。飲んで……」


 増血剤みたいなものかな。ありがとう、とお礼を言ってパクッと口に含んだ。甘くて糖衣錠っぽい。噛まずに飲み下す。ちょっと詰まったけれど、すぐに溶けたみたいだった。


「アステルも大分血を流したみたいなんだけど、もう一つ無い?」

「…………もう無い……。桜とは身体つきが違う……。あの人は平気……」


 顔を逸らせてまたもやむくれたように言われてしまった。さっきからアステルに関することでは気分が急降下している。人見知りするイヴは、初対面のアステルが苦手なのかもしれない。


『それは違うと思うがのう』

「うぎっ!」


 いきなりおじいちゃんが横からぬっと顔を出してきた。たまげるじゃないか。しかもまた人の考えを読んで。


「ジスタ……うるさい……」

『まあ、そう怒るな。それより向こうを見てみるんじゃ』


 おじいちゃんが指し示す方へ顔を向けた。地面に沈んでいた波真太比が、湖を背景にしてちょっとずつ浮いていく。底のお腹部分がスターの胸を越え、頭を通りすぎてもまだ上昇していった。

 見上げるほどの高さまできた所で止まり、その場で泳いでいるみたいに胸びれと尾びれをゆらゆら動かして浮遊している。波真太比も無事だったんだ。多分、スターはピジョンと違ってすんなり治したんだろうな。うーん、こんなことを考えていたらピジョンが可哀想かも。

 それはともかく。


「あれが波真太比?」


 思わず正直な感想が口を突いてしまった。波真太比が発していた生臭さは綺麗に払拭され、辺りには水の匂いが立ち籠めている。それはなんというか、彼方の高みから勢いよく流れ落ちる瀑布。砕け、散り、広がる飛沫。胸一杯に吸い込みたくなるような、清新な空気。

 物騒だった橙色をした左右の目は、見ているだけで優しい気持ちになれる温かみを宿し、不吉を表していた三の目は高貴さ溢れる赤紫で彩られている。そしてそこからは。


「紫色の雲?」


 同じ色をしたキラキラ光る細かい粒が現れ出で、集まり煙る。


『紫雲じゃ。瑞雲とも言う』


 いつの間にか横に並んだおじいちゃんがポツリと解説する。


『吉祥の兆しじゃな。紫というのは気高い色なんじゃ』


 最後のおじいちゃんらしい言葉にクスリときてしまった。

 横を向き、少し高い位置にあるおじいちゃんの顔を見上げながら言う。


「それって、紫の賢者って呼ばれていたおじいちゃんみたいに?」

『おお、そうじゃ。儂を見ると幸せになれるんじゃぞ』


 私はなんだか愉快な気分になって、あははと声を出して笑った。また波真太比に顔を戻す。

 確かに、慶賀の雲に乗るかのように身の半分を柔らかな光に覆われた波真太比は、神々しくすら見えた。これが瑞獣たる所以か。いかにも御利益がありそうだ。思わず拝みたくなってしまったぞ。

 その波真太比はじっとアステルを見つめていた。違う。正確にいうと、アステルの傍に落ちているフリューゲル。鍔にはめられた鱗。

 防護の膜はもう解除されているのか、波真太比の感情が伝わってくる。懐かしさ。恋しさ。

 ――巡り会えた、嬉しさ。


「あの鱗ってもしかして……」

『多分な』


 腰を下ろしていたアステルが心得た素振りでフリューゲルを手に取り、波真太比のすぐ下まで確かな足取りで移動した。フリューゲルを横向けに持ち、両手で捧げるように掲げる。そして恭しく語りかけた。


「どうぞ、お返しいたします」


 最初、なんの変化もないかと思えた。

 微かに、フリューゲルが震えていることに気付く。突如、鍔の鱗がスイと剣から浮き上がった。何の音も、つっかかりもなく外れたようだった。そのまま瑞獣の目前まで吸い寄せられていく。

 波真太比を中心に、歓喜の波がさざめき広がる。渦を巻く。飲み込まれ、溺れる。

 私がそのとてつもなく大きな感情にぼーっと浸っている間に、波真太比は紫雲に溶け込むようにして消えてしまった。半身の証と共に。

 その場には残滓の光が残り、やがてはそれも霧散した。

 そしてアステルの手には、装飾を失い鍔に穴が空いてしまった一振りの剣と、新たな瑞獣の鱗が残った。


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