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空を映す海の色  作者: せおりめ
第3章
95/105

解放 5

 大体、瀕死の状態から目覚める正しく可憐な少女の姿というものは、うっすらとまぶたを開いて「……ここは?」とか言ったり、心配そうな――出来れば意中の人の――瞳に見守られながらとりあえずは呼吸を安定させるとか、とにかく絵的にも美しくあるのが相応しいんじゃないだろうか?

 それなのに私の目覚めはといえば、まずは激しくむせ込むことから始まった。念願の呼吸を果たした途端、なにかが喉に絡みつき、今こそ酸素不足で儚くなってしまうんじゃないかと思えるくらい地獄の苦しみを味わった。

 寝っ転がっていた身体を瞬時に横向けに折り曲げ、片手を口に当てて、拷問のような時間が終わるまで馬鹿の一つ覚えみたいに、ゴホゴホゴホゴホもがいていたのだ。しかもえらく鉄臭い匂いを感じながら。

 そして咳の発作が治まった後に荒い息を吐きつつ、つられて豪雨のように流れ出た涙と鼻を袖で拭い、目を開こうとした。けれどのりでまぶたと睫毛同士をくっつけたみたいにガッチリ閉じていて、どうしても無理だった。とはいえ、目を開いたとしても見えるかどうかは分からない。それを確認するのは不安でもあった。

 あれ? でもさっきまでみたいに目の前は赤くない。いつもの通りにまぶた裏の世界は暗色だ。

 そうやって私が現状の確認に努めていると、気遣わしげなか細い声が背中の方から聞こえてきた。


「桜……! 大丈夫……?」


 その声に横向けだった顔を反対側へ向ける。この語尾の消える特徴的なしゃべり方。


「も……しか……っ!」


 哀れみを催すことに、ここでまたもや激しく咳き込んでます。一時中断。

 気を取り直して、今度は手を突き身体を起こして向き直る。


「もしかして、イヴ?」

「そう……。よかった、間に合って……! もう少し遅かったらホープが……。あ、拭いてあげる……。少し待って……」


 イヴがそう言った後、目元を湿った布……かな? か何かで丁寧に拭われる感触がした。そこが終わると、さらに目や鼻の下、耳に口元も綺麗にしてくれている。ホープがどうしたんだろう? そう疑問に思いながらもされるがままじっとしていると、「ゆっくり目を開けてみて……」と言われたのでその通りにした。

 まずは少しだけ開いたまぶたの隙間から、肩に掛かった萌黄色の三つ編みが覗いてかなり安心する。ちゃんと視力は回復しているみたいだ。完全に開いてしまうと、イヴの不安そうな顔と対面した。イヴはフードを外して、くりくりした春色の両目も露わにしている。そして肩に乗った可愛い梔子ではなく、自分の口を開いた。


「私のこと……、見える……?」

「うん。イヴが助けてくれたの?」


 もう身体は全然痛くない。そういえば、耳も聞こえるようになっている。よかった。

 ふと、濡れているなと思い、さっき口に当てていた手の平と、次いで服の袖に視線を移してぎょっと仰け反ってしまった。

 血がベッタリ! スプラッタ劇場!

 つまり、さっきから鉄臭いのも、咳き込んでしまったのも理由の根は同じというわけで。

 吐血。喀血。血痰。

 いくら私が儚くてか弱そうでイメージ的にピッタリだとはいえ、これには相当ビビってしまった。もしかして、目が開かなかったのも血が原因だったりするの? ついでに鼻血も出していたりして? …………もう止めとこう。拭いてもらう前の我が顔を想像すると、えらい怖い。

 そんな私の内心を余所に、イヴが言葉を継いだ。


「私は傷を治しただけ……」

『本当の意味でお前さんを助けたのはアステル殿じゃ。見てみろ』


 いつの間にか、傍におじいちゃんが浮かんでいた。そのおじいちゃんに声もかけず、顎をしゃくって促された方向へ顔を向ける。

 そこには、フリューゲルを構えて波真太比の前に佇んでいるアステルの姿があった。それを見て違和感に気づく。


「フリューゲルの色が違う?」

『そうじゃ。お前さん、身体が軽くなっとることに気がついておるか?』

「えっ? あっ、そういえば!」


 確かに、さっきは圧死させられそうになるくらい強かったのに、今は全然普通だ。


『フリューゲルの力じゃよ。この広場の重力を正常に戻しとる』

「フリューゲルってそんなこともできるの?」


 確か、持ち主にかかる重力を操ることしかできないんじゃなかったっけ?

 私の問いかけを聞いた途端、イヴの顔が曇った。その表情を見て不安になってくる。なんでそんな顔をするんだろう?


「普通はできない……」

『物に掛かる重さを操るとは大変なことじゃ。法則をねじ曲げるんじゃからの。そして個人単位ならともかく、制御する範囲が広大になるほど、より大きな力が必要となる。波真太比は魔力甚大な生き物じゃから難なく操作しているように見えたじゃろう。だがアステル殿がいくら強い魔力の持ち主だとはいえ、所詮は普通より多少勝っているという程度に他ならん』

「それって……」


 言い止して、もう一度アステルの方へ顔を向ける。――それって要するに、アステルの魔力だけでは不充分だということ?

 そういえば、さっきからアステルは波真太比の方を見据えて、踏ん張るように立っているだけだ。攻撃を仕掛けようともしない。

 まさか。

 そうであって欲しくない。嫌な予感に胸がざわめき、押し出す声のトーンが低くなった。


「じゃあ……、足りない魔力の分はどうやって補うの?」


 まさか。

 まさか。

 もしかして、立っているだけで精一杯なの?


『自分自身の命の力じゃ。気力、体力。その全て』


 命の全て――

 おじいちゃんの残酷な言葉が頭に響いた途端、自然と足に力が入り、私は立ち上っていた。でもそのままアステルの元へ走ろうと足を踏み出したところで、両手を広げたイヴに通せんぼされてしまう。


「行かせない……」

「どいて!」


 アステルが!

 このままだと!

 動こうとしないイヴを避けるため、身体の向きを変えようとした。ところが、一瞬気が遠くなるみたいに頭がクラリと揺れたと思うと、足が萎えたように力が抜けてしまい、私はその場にペタンと座り込んでしまった。


「なんで? 足が――」


 頭がグラグラする感覚に耐えながら見上げると、イヴの悲しそうな双眼と出会う。


「桜、出血が酷かった……。血が足りない……。まだ動かない方がいい……」

「そんな!」


 もう一度足を動かして起き上がろうとしても、どうしても腰を上げられなかった。足に力が入らない。

 動いて! 動いてよ! 拳で足を何度も叩いた。でも身体は持ち上がらない。これっぽっちの効果もなかった。


「それに止めては駄目……。公爵家の息子が決めたこと……」


 子ども姿のユヴェーレンが紡いだ言葉に胸を刺される。そんなこと言われたって!

 思わず俯いて、唇を噛んだ。目を瞑ってぎゅっと握り込んだ手の平に爪が食い込む。

 情けない。何もできない自分が本当に情けない。こうやって、アステルの後ろ姿を眺めるしかないなんて。足手まといになるだけだなんて。

 こんな時だというのに涙一つ零れやしない。さっき咳き込んだ時は出たのに。アステルを失うかもしれないのに。私、本当は何も感じていないの? 今どうしようもなく胸の奥が痛いのは、そう思い込もうとしているだけなの? 噛み締めた唇から新たな鉄の味が広がった。

 ああもう支離滅裂。今考えるのは自分の感情についてなんかじゃない!


『まだ決めつけるのは早いぞ、桜』


 おじいちゃんの発言にハッとする。目を開けて顔を上げた。


「どういう、意味?」

『アステル殿の力が尽きる前に決着をつけてしまえばいい』


 半透明の真剣な面持ちが、頷いて言った。


『波真太比は自らと同じ重力操作を受けてかなり戸惑っておる。頭痛もなくなっておるじゃろ?』


 本当だ。波真太比からの強い感情を全く感じない。


「イヴが膜を張ってくれてるんじゃないの?」

「張ってる……。でも……」

『いくら防護の膜があっても、さっきまでは防ぎきれんかったじゃろうが。揺れておる分、思念が弱くなっておる。今が勝機じゃ』

「それって、アステルが動くことさえできればいいのかな?」

『多分な』


 今のアステルはやっと立っている状態だ。どうにかして動ければ……

 ――そうだ! 思いついた私はガバッとイブの方を向いた。


「イヴが私にしてくれたみたいに、アステルの体力を回復してくれればいいんじゃない!?」

「駄目……。今、あの人に術をかけて……魔力への干渉を行なったら制御が乱れる……」


 そんな。今の均衡が崩れるってこと? アステルの苦労が台無しになる? それじゃいけない。却下。

 首を巡らせると、ピジョンはいつの間にかアステルから離れてスターの傍にいた。もしかしたらピジョンも、アステルの集中を乱さないためにと思ったのかもしれない。それか、スターを手伝っているのかも。

 どうすればいい? 私に何ができる? 焦る思いで必死に考えた。せめて、何かきっかけを。

 そして、これっていつかの時と同じだと閃く。おじいちゃんと旅をしていた時。自分の無力感を嘆いて、でも足掻こうとして――

 一つだけ私でもできる方法に思い当たった。そうだよ。あの時と同じなんだ。

 逆効果になる可能性もある。今の膠着状態が崩れてもっと悪くなる危険性も。でも、どうせこのままで過ごしたってアステルが消耗していくだけだ。そうなったらいずれは……。慌てて、頭を左右に振って浮かんできた映像を打ち消す。うっ、急に動かしたからクラッときた。

 とにかく駄目。それだけは許せない。そう強く決意し、アステルに視線を止めた。

 裏目に出たらどうしよう。再び嫌な想像が頭をよぎって肝を冷えさせる。心臓がバクバクいっている。

 でも、もう心を決めたのだ。深く息を吐いて大きく吸い込む。

 簡単だ。こんなの誰にでもできること。


「アステル!!」


 大声で名前を呼ぶ。色んな思いを込めて。

 もう無理しないで。なんとかして。一旦逃げよう。後もう少しだよ。こっちへ来て。

 ――頑張れ!!

 アステルの肩が、揺れたように見えた。


×××


 己のみに施していた重力制御の範囲を広場中にまで拡大すると、見る間に身体から力が抜けていくのを感じた。ともすれば傾いでしまいそうになる身体を留め、フリューゲルを握る手に力を込めてしっかりと構える。

 それでもまだ波真太比の力が強い。フリューゲルに送る力を更に増やした。まだ足りない。もっとだ。もっと持っていけ。

 身体の位置をずらし、視界の端に横たわる桜の姿を捉えるようにする。頼むから、生きていてほしい。そう焦る気持ちを無理矢理抑え込んだ。徐々に、僅かずつ広場を苛む圧力が弱くなっていった。それと共に波真太比から押し寄せる情念が薄らいでいく。そして代わりのように、別の感情が流れ込んできた。

 これは……なんだ……? 戸惑い? 同じ重力操作を受けて混乱しているのか? いや、それだけではなく別の感情も伝わってくる。

 これは、微かな――喜び?

 突然視界の隅、倒れている桜の傍に小さい人影が現れた。瞬間警戒するものの、すぐに解く。萌黄色の髪を持つ後ろ姿。あの特徴は。あれが、桜を守護しているというティア・ペリドットか。或いは、この場の重力が収まるのを待っていたのかもしれない。今すぐ治療を受ければ桜が助かる可能性も高くなる。

 頭の中を強張らせていた恐ろしい虚像が、輪郭を失い少しずつ溶け出していく。楽観視はできないが、希望が頭を占めていた。

 波真太比の方へと完全に向き直る。視界から桜の姿を遮断した。後はティア・ペリドットに任せておく。これで集中できそうだった。

 ティア・ルビーは、これ以上は自分にできることはないと判断したのか、洞窟内を維持するティア・サファイアの補助に回っていた。ずっとこの広場を守っていたあの方の負担も相当なものだろう。

 フリューゲルに力を送り続ける。もう、使っているのが魔力なのかそれ以外なのか判然としなかった。朦朧としてくる頭を抱えるこちらとは対照的に、命を吸い取り続けるフリューゲルはますます美しい赤紫色の輝きを放っている。束の間、それに心を奪われた。

 依然として表面上だけは大人しくしている波真太比を見ると、まるで陶然としているかのように、この剣に魅入っているように見えた。その両目に宿る狂気が薄れ、何かを知覚するような理性の光が少しだけ灯って見えるのは、目の錯覚なのだろうか?

 今、この場の力は完全に拮抗している。波真太比も無理に魔力を放散し通して、明らかに弱ってきていた。それでもこちらよりは遙かに余力がある。だが、このままの状態を維持し続ければ、最終的にはティア・アメジストの身体を救い出す際、邪魔ができなくなる程度には参っているだろう。

 そうとなれば、こちらの仕事は少しでも粘っておくことだけだ。そう方針を決め、正面を見据えた。迫る大きな波壁めいた圧力感を、押し戻すべく腐心する。

 ……しかし、段々身体に力が入らなくなってきた。膝が折れてしまわないように意識するも、限界が近い。

 桜、無事でいるのだろうか? 気懸かりといえばそれだけだった。だが、気配を探る余裕がない。

 前からの圧迫感が強くなってきたような気がする。いや、こちらの抵抗力が弱くなっているせいなのか。額から流れる汗が目に入り、眇める。息は荒く、フリューゲルを握る手が震え、ともすれば取り落としそうになった。

 せめて、最後にひと目……

 女々しいことを考えたせいか、とうとう、向こうから加えられる力にこちらが打ち負けてしまったようだった。魔力の波が押し寄せてきた。ここまでか。迫りくる予感に指先が強ばる。

 防護の膜に覆われていない自分の身体はこのまま潰れてしまうのだろう。呆気ないものだとも思う。もう立っていることすらままならなくなっていた。

 体中から力が抜け、足元から崩れ落ちていく。


「アステル!!」


 突然聞こえてきた声に、弾かれるように身体が反応した。抜け出たはずの力が蘇り、隅々にまで巡っていく。折れそうだった足は真っ直ぐに立ち、しっかりと地面を踏みしめていた。今にも己を取り囲もうとしていた重力の波を押し返し、知らず、口の端が持ち上がっていた。

 いつもと同じ、表情さえ思い浮かべることができる快活な声。総身の奥から御せない震えが込み上げた。表面をなぞり、肌が粟立つ。この世のあらゆるもの、全てに感謝を捧げたくなる。

 途端に生への執着が呼び覚まされた。ここで蹲ろうとしている場合ではない。連れて帰ると決めたのだから。

 フリューゲルを握り直し、最後の力を込めた。自分自身に掛かる重力を操作すると、一瞬にして身体が軽くなる。

 見上げた先には悲哀に狂った瑞獣がいた。怒りと憎悪で雁字搦めにされたその心。もう十二分に苦しんできたのだろう。そろそろ解放されてもいいはずだ。

 軽く地面を蹴り、一息に跳躍する。正面に惑う双眸、それから濁った三の目と相対した。


「御身を縛る負の鎖、断ち切らせていただく」


 誓うように、口から自然と言葉が流れる。


「――お許しを」


 フリューゲルの刀身が吸い込まれる時、確かに波真太比の目は鍔の鱗に釘付けになっていた。今までで一番強い感情が身体全体を包み込む。決して不快ではないその想い。

 これは――


×××


 フリューゲルを掲げたアステルの動き一つ一つがスローモーションに見えた。イヴも、おじいちゃんも、私も言葉一つ漏らさずその様子を見つめていた。きっと、スターとピジョンもそうだったんだと思う。

 まるで、そこにあるのが当然であるかのように、剣先が波真太比の濁った三の目に突き刺さる。

 寸の間の空白さえあったかどうか。次の瞬間、防護の膜を越え、恐らくはこの広場にいる皆に届いた魂を揺さぶる激しい想い。

 これは――


「「歓喜?」」


 先に着地したアステルに続いて、波真太比はゆっくり地面へと落ちていった。


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