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空を映す海の色  作者: せおりめ
第3章
94/105

解放 4

「あっ、凄い!」


 波真太比ってあんな図体をしているクセに反射神経が優れている。アステルの剣をギリギリのところでくるりと躱した体捌きを、呑気にも賞賛してしまった。

 その後すぐに上から叩きつけられたアステルの身が心配になるものの、しっかりと立ち上がった姿を見て安堵する。波真太比め、何すんだ!


「惜しかったよね、おじいちゃん」

『そうじゃな……』


 上の空、といった調子の答えが少し気になった。


「どうかしたの?」

『うむ……。三の目に少々の傷を負わせてしまったようじゃ。ちと厄介なことになるかもしれんな』

「どうして?」


 質問している内にも、波真太比はドスンバタンといった感じで暴れ出してしまった。その場をグルグル回ったり、壁に体当たりしている。

 波真太比がぶつかる度に洞窟内が揺れた。落ちてきた砂を見て、広場が崩れやしないかと心配になってくる。

 納得。確かにこれは手に負えない。でも――


「じゃあ、あれって痛がってるの?」


 のたうち回って苦しんでいるみたいだった。更にはそのせいでもっと怪我を増やしている。お目出度くも悲しい存在とはいえ、滅多やたらと襲いかかってくる傍迷惑な生き物だと思っていたけれど、あんな姿は見るに忍びない。多分、アステルたちも一発で決めてしまいたかったんだろうな。

 どうにかしてあげたい。右手が目の前の何かを掴もうとするように持ち上がり、左足が勝手に一歩前へ出た。

 でも、私にはアステルたちを応援することしかできないわけで。

 私がうろちょろしても紛れるだけだろう。さっさと隠れてろと追い返されるのがオチだ。そこまで考えてから腕を降ろし、足を元の位置へと戻した。


「アステル、どうするんだろう?」


 内心の焦燥を抑えながら成り行きを見守っていた時だった。波真太比の動きがピタリと止まった。こちら側に身体の正面を向けて、大人しくフヨフヨ浮かんでいる。

 なんでいきなり? 観念したのかな?

 途端に、今まで気にも留めなかった周囲の音が気にかかるようになってきた。ここってこんなに静かだったっけ? 痛いほどの静寂が耳を打つ。

 でもその閑寂はほんの数秒だけのことだったと思う。すぐにアステルたちの、この機に乗じて済ませてしまおうと話し合う声が聞こえてきた。その声音に、波真太比の変化についていけずどこか呆気に取られていた私の意識も、脳の回路が繋がったみたいに動き始めた。


「これで終わるかな?」

『だといいんじゃがのう』


 なんだその返答は。不安に顔を曇らせる、か弱いご婦人を安心させようという心遣いがまるで感じられない。気休めでもなんでも肯定してくれればいいのに。

 内心で気の利かないおじいちゃんに対して文句を垂れていると――。雰囲気が、変わった……?

 ほんのさっきは木陰で微睡んでいる、という風情だった波真太比が、今にもネズミに飛びかかろうと、足を踏みしめた瞬間で留まっている猫みたいに物騒な気配を纏っている。つまり、やる気満々の状態。

 それを裏付けるかのように、波真太比から、正確にいうと三の目から放出される魔力が明らかに強くなってきた。あ、ちなみにそんなことが分かるのはおじいちゃんが中に入っているおかげだ。

 今までとは段違い。変な例えだけれど、扇風機でいえば、微風モードからいきなり強風モードへとスイッチを切り替えてしまったかのような急激な変化だった。

 思わず、足が一歩下がる。

 その時頭に、私のものとは違う誰かの想いが忍び込んできた。


「――うっ……」


 痛みを覚え、頭に手をやり虚空を見つめる。

 懐かしい、なんて思いたくはないけれど、これには覚えがある。絶望的な負の感情。波真太比のものだ。おじいちゃんの張ってくれている膜を通して、尚ひたひたと染み入ろうとする強い想念。しかも身体を締めつけようとする圧力を感じる。重力が更に強くなってきているんだ。

 改めて目線を遠くに飛ばした。相変わらず波真太比は、見かけだけは静かに浮いている。それなのに放つ力と感情が強大になっているなんて、そのアンバランスさにいびつな狂気を感じた。それが、伝わってくる感情に乗って私を食らいつくそうとしている気がして、わけの分からない恐怖を味わわされる。

 私が怖じ気づいている間にも、波真太比から押し寄せてくる力の波はどんどんその勢いを増していった。


『これは……いかん。ホープの護りがあっても今の儂では抑えきれん。このままでは膜が保たんぞ。桜、ピジョンかスターの所に行け!』

「えっ? う、うん、分かった!」


 おじいちゃんの焦った声に頭痛を押して足を踏み出しかける。

 突然、ペンダントの緑色の光が目を射した。――光が、強くなっている? 思わず足を止めて見入ってしまった。そうやって眺めている間にも、目に見えて彩度が上がっていく。


『早くせんか、桜!』

「あ、ごめん」


 慌てて身動きした。

 でもそれが切っかけだったかのように、緑色の光が強烈に膨れあがったかと思うと、守りの石はパシンと呆気なく砕け散ってしまった。


「あつっ!」


 咄嗟に目を瞑る。

 破片が当たったのか、頬と胸に一瞬熱が走る。反射的に頬を手で押さえた。


『うわっ!』

「おじいちゃん!?」


 おじいちゃんが私の身体から弾き出されたみたいに、横方向へ飛び出してくるのがチラリと――見えたと思った途端。


「ふぐっ……!」


 抗いようがなかった。

 身体全体を縄で絡め取られて、下から強い力で引っ張られたみたいに地面へ引き倒された。即座に横へ顔を逸らしたから顔面強打は避けられたものの、こめかみと耳をしたたか打ってしまう。でもその痛みも気にならないほどの、巨大でとんでもなく重い何かにのしかかられているような、強い重圧が身体全体を襲った。

 頭も胸も背中もお腹も腰も足も、容赦なく、ぐいぐい土に押しつけられる。薄い爪や小さくて細かい髪までもが、ペシャンコになってしまうんじゃないかと思えた。象とか車が上に乗っかっていたら、こんな感じなんだろうか?

 息ができない。血管が圧迫されているのか、脳が沸騰してしまいそうなほど頭と顔が熱い。手足が膨張してむくんでいるような感じがする。そのせいか、ピリピリした痛みも感じた。目の前が赤くなって、その目と鼻と口、あと、耳から何かが垂れてきているみたいだった。

 頭痛が酷いのは物理的な問題なのか、それとも波真太比の感情によるものなのか。でも全身が熱さと痛みのごちゃ混ぜ状態で猛烈に苦しいんだから、そこだけが気になるわけでもないんだけれど。

 とにかく呼吸したい!

 苦しいよ! 重い! どいて!

 何も乗っている物などないのに、そう懇願したくなる。

 目は瞑っていないはずだ。なのに広がるのはただ、焼かれてしまいそうな赤い世界。聴力も多分機能していない。ドクドクと、異様に早い血液の流れらしきものを聞くともなしに感じているだけ。

 多分、おじいちゃんが滅茶苦茶心配している。幽霊みたいなおじいちゃんは重力なんて関係ないだろうから平気だとしても、他の皆は大丈夫なのかな。押し潰されそうな思考の中で考えた。

 顔を上げておじいちゃんに平気だよって言ってあげたい。でも縫いつけられたみたいな身体は全然思い通りにならない。いやまあ全然平気じゃないんだけれど。足の内部で何かがグシャリと砕けた。普通だったら激痛に転げ回っていなきゃならない状態も、今は全身を侵している苦痛のせいで、骨が粉々になったんだと認識しただけだった。

 ごめんね、とおじいちゃんに向けて心中で謝る。私が足を止めてしまったせいだ。ちゃんとおじいちゃんの言う通りにしなかったから。こういうのって一番嫌だったのに。見ているだけしかできないんだから、せめて皆の邪魔だけはしたくなかった。足手まといだけにはなりたくなかった。

 悔しい。指先一本動かない身体では、歯噛みすらさせてもらえない。アステルには、また溜息を吐いて呆れられるんだろうか?

 アステル……。あの夢。あれが本当になったらどれだけ幸せだったろう。これが終わっておじいちゃんの身体が元に戻ったら、ちゃんとアステルに告げるつもりだった。お屋敷に帰りたいって。そうしたら、もしかしたら未来の姿が夢に追いついていたかもしれない。

 広場に入る前に言っとけばよかったのかな。でも皆の前で口走って自分の気持ちを晒すのは、さすがに多感な年頃としては躊躇われるものがあったし……。

 そんなことを思い浮かべて、こんな時だというのに可笑しくなってしまった。

 痛みはもう感じない。

 眠くなった時みたいに、考えるのが億劫になってきた。

 炎の色が支配する世界。頭の中で、キラキラ輝くゴールドの色が際だつ。

 それから、青くて。

 それから――


×××


 光る苔に抱かれた洞穴。凍った湖。世界の平定者。伝説の生き物。

 ともすれば、幻想の中にいるのかと錯覚してしまいそうな状況。

 その中でただ一つ、現実を突きつけてくる光景。

 横たわっている姿が身じろぎ一つしないのは、凄まじい加圧のためなのか。それとも――

 襲いくる感情を跳ね返し、自分を守り覆い隠していた壁が厚みを失う。強度を保てず脆く崩れ落ちていく。

 希望を打ち砕く、容赦のない鉄槌。

 歪みを縫い、穴を広げるかのように、波真太比の狂った思念が猛然と纏わりついてきた。

 憎悪。憤怒。慟哭。抉悲。――狂乱の末の、悦楽。

 理性を手放せ、お前も堕ちろと誘う死の鎌が、癒せぬ傷を掘り下げ強く切り刻む。

 絶対と決めた唯一無二の者。引き離せぬ半身。

 喪失の果てに、緩く漂う虚無の牢獄を味わえというのか。

 深淵の縁に溺れ、そのまま沈んでしまえと?


「ふ……はっ……!」


 大声を上げて笑い出しそうになった。頭と胸を突き刺す波真太比の情念と、そこからじわりと水のように浸食していく苦痛が、狂った高揚を誘発する。

 その感情が波真太比のものか、己のものか、判別がつかない。

 このまま前後不覚に陥ってしまえばどれだけ楽なことか。割れるような頭痛と直視できぬ恐ろしい可能性から逃れ、引き摺られたいと願う気持ちがある。悲哀に浸り、憎しみを塗り込め、怨みに凝り固まったまま、己の無念と重力によって潰れ尽きる。そうして初めて解放を得られるのだろう。

 この一件が終われば連れて帰るはずだった。帰ってこないかと誘った時、その目は確かに迷いを映し揺らいでいた。ならばその明瞭なる憂慮の種を祓ってしまおうと、尊い瑞獣に刃を向ける決意を固めた。刹那の夢だと思っているからこその桜の本音を聞き、己の想いを知るに至ったのだ。

 それを。

 よくも。

 直接被害をもたらした波真太比。

 守ると言って守りきらなかったユヴェーレン。

 何よりも、攻撃を外し、今の事態を招いた自分自身。

 その全てに対し、腹の底より湧き出る怒りが総身に溜まっていく。己のどこに隠れていたのかと感心するほど、激烈で巨大な熱が身を焦がす。瑞獣に対する同情心や畏れの気持ちはまだ残っているが、塵芥のように価値が消え失せた。

 ――他者の事情など知ったことか!!

 身の内の感情が占領者を凌駕したのか、燻る頭痛が急速に霧散した。籠もる熱はそのままに、頭の芯は冷静さを促すように温度を下げていく。

 身体の向きを戻すと波真太比はまだ、膨大な魔力を放出し続けていた。全てを飲み込もうとする大波のような魔力。自らがどうなるかなど顧みていないのだろう。そのまま放っておけば自滅しそうだったが、それを悠長に待ってはいられない。

 のしかかる圧力を制御しながら傍らを見やる。かろうじて洞窟内を維持しているティア・サファイアは無論のこと、ティア・ルビーも新たに桜を防護の膜で包む余裕はなさそうだった。

 惑う必要はない。そう瞬時に決める。

 フリューゲルの刃を右手首に押し当て、力を込めて引いた。


「……お前!?」


 ティア・ルビーの苦しそうな声が耳に届く。鋭い刃先は皮膚と脂を切り裂き、切断された動脈から血液が勢いよく溢れだした。痛みは気にならなかった。或いは、それを感じる部分が麻痺してしまったのかもしれない。

 右腕を掲げ、吹き出す血を左腕に持つ紺に染まった刀身と鍔の鱗に振りかける。

 まだ間に合う。そう自分に言い聞かせる。――だが時間は幾らもない。それでも焦れないよう心掛けて口を開いた。


「『血と肉と、盟約を引き継ぐ我名を錠と鍵とし、条項を発動する権利を行使する』」


 言葉を紡ぐそばから、刀身に付着した血が全体を覆うように薄く伸びていく。

 フリューゲルとの契約時に、知っておかなければならないと口伝された唱文。

 けれど決して使ってはならないとも忠告された禁忌の技。


「『汝は忠実なる我手。汝は同道たる我命』」


 刃全体が波真太比の、狂った三の目と同じ血色に染まっていった。

 命を捨てる覚悟で臨む必要があるという。

 惜しまぬわけではないが、差し迫った状況である今、他に方法は見当たらない。


「『吉と祥のしるしに護られし言祝ぎの楔』」


 ああ、この下りは瑞獣を指していたのか、と今更ながらに気付いた。

 血の色が刀身の内部へ吸い込まれるように消失し、紺の色さえ取り払われる。

 何の変哲もない、金属が持つ鏡のような銀色の輝きが現れた。

 まるで目覚めの時を前にして、静かに力を蓄えているかのように見える。


「『瞑目たるかけがねによる封埋の扉』」


 無駄に長い。この長さも鍵の一つなのか。

 早口に、だが正確に言葉を連ねる。

 体内の魔力が剣に搾り取られていく。

 呼応するかのように、刀身が仄かに色づき始める。


「『アステルバード・ホリス・グレアム、主たる我名を以て終の解とす』」


 唱え終わると、フリューゲルは鮮やかな赤紫の剣にその身を変じた。持つ手の僅かな動きに合わせ、刃に沿って光が走る。恐らくは、本来波真太比の額を彩っていたはずの輝き。

 手の中に在るだけで急激に魔力が消費されていく。

 重さを司る力、その真価を見せてもらおう。魔力、気力、体力、根こそぎ持っていくがいい。


「フリューゲル、お願いします」


 いつものように囁きかける。呼びかけに応え、鍔の鱗が煌めいた。


「瑞獣よ」


 前方の巨大な闇に向け、宣言する。


「この場の支配権、こちらにいただきましょう」


 ――必ず、助けてみせる。


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