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空を映す海の色  作者: せおりめ
第3章
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絆の刻 7

 夏も終わりに近付こうとしている残暑の夜。壁を挟んだ向こう側では虫たちが、昼間の熱を涼やかな音色で払拭させようとばかりに静かな合唱を響かせていた。まだ遠い、でもゆっくりと確実に忍び寄る秋の気配。

 月は爪のように細く存在を主張するだけで、普く光を届ける力は持たない。室内を塗りつぶしている漆黒は、部屋の端っこに備えつけられている弱々しい明かりを中心にして、薄闇という程度にまで和らげられていた。


 微かな虫の声を後ろに聞こえてくるのは、下りてきた密やかな息遣い。それからまだ眠りの縁に佇んでいる私の、寝息の様相を呈した呼吸音。

 私の両肩の脇にアステルは肘を突いて、自らの身体を支えている。そして屈み込むようにして顔は間近に、片手が私の頬を包み、もう片方の手はこめかみにかかる髪を梳いていた。

 私が自分自身で持っているものよりもずっと大きな手。重く、硬質な鋭い刃を扱うために固くなった指先が、そろりそろりと慎重に、肌触りを確かめるかのように私の頬をなぞる。まるで、自分が脆く壊れ易い砂糖細工にでもなってしまったみたいな気分だ。

 そんなことを頭の片隅で考えつつ、意識の焦点は大半が、どうしてこんな時間に私は寝室で、しかも寝具の上でアステルと目を合わせているんだろう? という至極尤もな疑問と、現状の認識と把握に当てられていた。


 感情の方はよく理解できない状況に追いついていないのか、それとも起き抜けで麻痺しているだけなのか、目を瞑ればそのまま寝てしまえそうなくらいに平らかだ。

 手間暇かけて造形された彫刻のような、特に表情の浮かんでいないアステルと絡まっている視線を僅かにずらし、下の方へ持っていく。完璧な線を描く顎を辿っていくと、幅の広い肩が目に入った。襟元を寛げている寝衣の隙間から裸身の胸が覗いている。

 昔はよく蒼兄ちゃんが上半身裸で家の中をうろついていたし、旅の間、宿屋でも男の人の裸を見かけたりしたことはある。上だけね。でもいつもきちんとしているアステルの、なんというかこういう際どい部位を見るなんて初めてだ。

 当たり前だけど、自分のとは全然違う。薄暗い中ハッキリ分からなくても、輪郭だけでも見るからに引き締まっていて、堅そうな胸元。


 触ってみたい。

 そう思ったのかどうか、気がついたら右腕が勝手に持ち上がり、指先が吸い込まれるみたいにアステルの胸へと落ちた。最初はそれでも遠慮がちに。それからちょっと大胆になって手の平を押しつける。意図したわけではないけれど、ちょうど心臓の真上。

 ゆっくりとした、力強く規則正しい鼓動が伝わってくる。思った通り強靱で堅く、でも弾力を感じる皮膚はちょっとした嫉妬を呼び起こすほどきめ細かそうな手触りで、なにより温かかった。

 手を置いたそのままの状態で視線を戻すべく持ち上げる。眼差しが合うと、無表情だったアステルの目元が緩み、少しだけ口元が綻んだ。

 ここに至って、ようやく今がどういう状態で、自分が一体何をしているのかを理解した。でも、理解はしても信じることができない。それに、今のアステルがこんな、私に勘違いをさせるみたいな行動を起こすはずがない。

 ということは――


「これって、夢……?」


 なんともなしに呟くと、アステルは僅かだけ柳眉を上げる。


「そう思いますか?」

「夢じゃないの?」

「さあ、どうでしょう」


 どちらでもいいという感じの微笑を浮かべられた。

 うーむ。手から伝わってくる温もりや、頬を滑る感触は、夢だとは思えないほどリアルで繊細だ。でも、頭はどこか霞がかっているみたいにぼやっとしていて心許ない。

 大体、こんな場面に置かれて私が落ち着き払っているという状態は、今までの経験からいっても考えられない。これが現実だったら淑女の嗜みとして、更には恋する乙女として、赤くなったり青くなったり、慌てふためきながらも恥じらって見せなきゃならない場面だ。

 ということは。

 うん、やっぱり夢だ。起きたと思ったのは勘違いで、実はまだ寝ているみたいだ。

 どういう態度を取るか迷っていた私は、夢の中だったら動揺する必要もないよねと判断し、恐らくは願望が見せたであろう虚構の世界を思いっきり堪能することに決めた。

 とりあえずはしんどくなってきたので、持ち上げたままだった腕を降ろす。夢の中なのに疲れを覚えるなんて理不尽だ。あ、でも感覚があるんだから、逆にそうじゃなきゃおかしいのか。中々理屈に合った夢だな。そんな所は適当でいいのに。やっぱり、私の几帳面な気質を投影しているのかもしれない。

 そんな風に考えながら、訊きたいことがある、とアステルに目と表情で訴えかけた。

 通じたのか、アステルは無言で首を傾げて質問を促す。


「どうして私の部屋にいるの?」


 夢の中なんだから、理由も何も関係ないのかもしれないけれど。物事を筋道立てて合理的に考える私が見ている夢なんだから、きっと何某かのあらましが用意されているに違いない。

 そういう論理的な私の見通しを裏付けるべく、アステルが口を開く。


「消えているんではないかと思って」


 消える?

 これは想定外のお返事だ。かといって、具体的な理由を何か思いついていたわけでもないけれど。でもこんな答えは多分、予測がつかなかったぞ。

 私の夢なのに、私の想像を超えた物事があっていいんだろうか?

 や、でも夢は無意識下の意識が発露させているとも聞いたことがあるし。無意識っていうのは自分の管理下にはおけない意識なんだよね。だったら仕方ないか。

 私は、無意識の私との会話を試みることにした。


「消えるって、スターが移動したみたいに魔術でっていう意味? 私には魔力が無いんだから無理だよ」

「しかしもしかすると、ティア・サファイアが連れていってしまわれるかもしれない」

「スターが迎えにきてくれるのは明日だよ? 日付的には今日なのかもしれないけど。でもいくらなんでもこんな夜中には来ないよ」


 現実の世界が一体何時なのかは知らないけれど、今、体感しているここは夜の帳が降りている刻限なんだから、そういう認識でいくことにしとこう。

 アステルはしばらく黙って私の目を見つめ、そして口を開く。


「……桜がいない間、夜中に何度かこの部屋を訪れました。貴女の存在が感じられない室内は夏だというのにどこか寒々しく、一層の不在感を強められました」


 私の頬を包んでいた手が額へ移り、前髪を後ろへ流すようにして撫で上げる。


「それでも、何かが掴めるかもしれないと思い、ここへ足を運ぶ自分を止められなかった」


 そう言うアステルの言葉は私に向けられたものではなく、覗き込んでいる私の目を通して、かつてこの部屋へ通っていた自分自身を確認しているように感じられた。


「掴むって、何かに悩んでたの?」

「悩んでいた……と言うよりは、疑問をどうしても解明できなかった――というところでしょうか」


 それとこれとがどう違うっての?

 私の無意識、ちょっとややこしいこと考えすぎじゃない? なんか、自分自身のはずなのに負けているみたいな気分になってきたぞ。

 いやいや、このまま話を続けていくのだ。これはいってみれば、自分探しにも匹敵する偉大で学究的な問答である。自分に負けてなるものか!


「どういう疑問?」


 問いかける私に、アステルは予め用意していた答えを諳んじるように、一気に答えた。


「どうしてこんなに桜のことを考えてしまうのか。何故離れていると不安になるのか。会いたいと思うのか」


 ……。

 いくら夢の中だからとはいえ、ちょっと私に都合よく進みすぎだと思うけれど……。もしかしたら、リディが言っていたことが関係しているのかもしれない。かなり心配してくれていたみたいだし。けれどそれを抜きにしても、確かにこれは私の願望を如実に反映している。

 ――ああ、現実でもこんな風に言われてみたいなぁ。

 でもまあ夢幻の出来事だとはいえ、アステルが私に伝えているという形を取っていることに変わりはない。幸福な夢。浸っていいよね。

 私は少しだけ目線を上げて、落ちかかってくるアステルの前髪を摘んでみた。弱い力で引っぱると、指の間をすり抜けてサラサラ零れていく。なんとなく、そのままアステルの頭を撫でた。こんなの滅多にできない。

 視線の位置を戻すと、当の本人はいきなり見知らぬ人から構われた子供のような、少し困った表情を浮かべている。その珍しい顔が愉快で、強気な台詞が口を突いた。


「私がいない間、寂しかった?」


 私の言葉を聞いて、アステルが苦笑する。ややあってから答えた。


「……はい。それはもう」

「それってさ、私のことが好きだって言ってるみたいに聞こえるよ」


 虚を衝かれた、というようにアステルが目を見開く。強引な解釈だったかも。ま、気にしない。

 ちょっと笑いかけてから、更に私は得意げに指摘してみることにした。こうなったら、とことんまで図々しくなってしまえ。


「ずっと一緒にいたいって告げられてるみたい」


 そう言うと、アステルが瞬く。次いで、懸念事項が氷解したみたいな、徐々に温もりが広がって染み渡るかのような、ゆっくりとした表情の変化を見せた。

 それを見て唐突に、本当にいきなりローズランドの春を思い出した。澄みきった湖面は蒼空を映し、清冽でまだまだ冷たい。けれど太陽の柔らかく暖かな日射しに温められた空気は、その地の生命に優しかった。固い蕾は競うようにほころび、苦味とは無縁の蕩けそうな花の香りをそこかしこに充満させて、何もかもを誘い入れる。全てが生きる喜びに溢れた、光り輝く雪解けの季節。

 やがてアステルが、甘く艶味を帯びた笑みを形作る。それがあまりにも鮮麗で、一瞬でも目を離したくなくて。私が支配する世界のはずなのに、不覚にも、まばたきするのも忘れて見蕩れてしまった。

 そんな私の心理状態が分かっているのか、声音に乞う色を乗せ、でもそれが退けられないことを確信している強かさを織り交ぜて、アステルが囁き落とす。


「そうだと言ったら――傍にいてくれますか?」


 何、この確信犯的な誘惑は? 一瞬だけ私の頭は、してやられた! という想いで一杯になった。

 でもその狙いは正しい。これは私が心の底から欲して止まなかった言葉であり状況。拒絶なんてできるわけがない。だから今だけは素直に。ちょっと申し訳ないけれど、おじいちゃんたちのことは考えないで。

 でも……と思い直す。何もかもが相手の思い通りに進行するなんて悔しいな。

 なんか、私の方も。何かない? そう頭を巡らせ、よく吟味せずに言葉を押し出した。


「……キスしてくれたらいいよ」


 なんだそれは! 咄嗟に出てきたとはいえ、なに言ってんだ。ちょっと自分の神経を疑ってしまった。これじゃ、まるでおじいちゃんじゃないか。かなり毒されているな、私。

 実はおじいちゃんが身体の中に入っているんじゃないか、と自分の身体を見下ろしてしまう。すると、柔らかい力で頬を挟み込まれ、上を向かされた。

 近い場所にあったアステルの顔が、さらに至近へ降りてくる。


「約束ですよ」


 笑い含みの囁きが吐息となってまぶたに触れた後、唇が重なった。目を閉じると、柔らかい感触だけが意識の中に残る。

 何度も何度も、触れるだけの、撫でるような口づけが落ちてきた。いつの間にか、お互いの胸の間に横たわっていた距離が取り払われて、体温までもが交わっている。凄く気持ちのいい重さ。

 枕の上に散らばった髪を梳く動き。肩から腕に沿っていく手の感触。

 今は、周りを取り囲む何もかもが優しいものだけで構成されているという心地になってきて、私は酷く安らいだ気分に包まれていた。



 気がついたら私は、「おはようございます」と爽やかに声をかけるエレーヌに起こされていた。

 室内には陽光が立ち籠め、窓の外には青空が広がっている。チュピピと鳥のさえずりが賑やかだ。今日もいい天気、暑くなりそうだな。

 ムクリと身を起こし、まだはっきりしない頭で明るい部屋の様子をぼーっと眺める。眠たいな。

 視界の中では、光の中にホコリがキラキラ踊っている。それを綺麗だと思った。エレーヌが右へ左へ忙しそうに動き回る度に、そのキラキラがふんわり舞い上がる。寝惚けながらしばらくそれを見ていた。

 そして突然、昨夜の夢がフラッシュバックして私の脳裏に蘇る。

 ………………なななななんという夢を見てしまったんだ、私は!? 眠気なんて一瞬でぶっ飛んだ。頭に浮かんできた映像を散らすべく、首をブンブンと激しく振った。

 これが俗に言う、欲求不満ってやつなのか? とその頭を抱えて悶絶する。そのまま壁に打ちつけてしまいたい! 夢の中の出来事とはいえ、自分がしでかした言動を思い出して、今頃顔中に熱が集まってきた。


 虚しい自分を地面に埋めてしまいたくなるほど落ち込みそうになった。けれど夢の残滓が留まっている気がして、エレーヌが見ていないことを確認してから、そっと指先で唇に触れてみた。


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