絆の刻 5
急速に傾いていく夕陽が作る影は長い。
青々とした芝生の間をレンガ敷きのアプローチが、お屋敷に訪れた人間を目的地まで導びいてあげようとばかりに続いている。丹精込めて育てられた花々や、綺麗に刈り込まれた植え込みで目を楽しませつつ、路は玄関前の行き止まりまで延びると左右に別れ、両側に張り出した石造りの階段へと誘う。
どちら側の階段を昇るかはその時の気分次第。どうせ数段上がった先は同じ場所、上部にグレアム家の家紋を戴いた、風格のある扉の前へ辿り着くのだから。
約二ヶ月振りに帰還を果たした放蕩娘にとっては、見慣れたはずの、目の前を埋め尽くしてそびえる扉が、記憶よりも大きくて重々しく感じられる。それでもどこか慕わしく、懐かしくて。
帰ってきたんだ……。感慨に耽っていると、蝶番の音を微かに立てて内側から扉が開いた。
こういうのを敷居が高いって言うのかな?
入るにはちょっとだけ踏ん切りが必要だ。足を留めたまま躊躇していると、アステルが背中に手を回し、「行きましょうか」と促してくれた。少し驚いた面持ちで出迎えてくれる使用人さんたちにただいまと挨拶を返し、中へと進んでいく。すると、広い廊下の先で見慣れた人影が目を瞠り、慌てた様子でこちらへと向かってきた。
「――桜様!?」
「エレーヌ!」
ちょっと照れくさいなと思いながら応える。
「ようこそお帰りなさいませ! お元気そうでなによりでございます」
超感激! とばかりにガッシと手を取られ、目を潤ませて歓迎されてしまった。ここまで喜ばれると、逆に今晩だけしか逗留しないということが申し訳なくなってくる。
「ただいま。と言っても明日にはまた出ていっちゃうんだけどね。エレーヌも変わりなさそうでよかった」
「そう……でございますか。明日には……。それでもお顔を拝見できて嬉しゅうございます。――! アステル様もお帰りなさいませ!」
一通りのやり取りが終わった後、隣で忘れられている次期当主の存在をようやく認識したのか、エレーヌは私の手をパッと離し、焦った様子でアステルへの挨拶を付け加えた。
アステルは微苦笑して、鷹揚に返す。
「ただ今帰りました。俺たちはまず父上の所へ向かいます。エレーヌはソフィアと、桜の部屋の用意をしていただけますか?」
「かしこまりました。旦那様はただ今お部屋にいらっしゃいます」
ヘンリー父さん!
それを聞いた途端、居ても立ってもいられなくなってしまった。
「お父様、部屋にいるんだね? アステル、私、先に行ってる!」
「桜様!? はしたのうございます! 走ってはなりません!」
久し振りに響き渡るエレーヌの注意をどこか快く感じながら、聞こえなかったふりをして私は一目散にヘンリー父さんの部屋へ駆けていった。
「お父様!」
バターンと力強い擬音が轟きそうなほど豪快に、扉を開け放ってからしまったと思い当たった。既に開かれている、艶やかに鈍い飴色の一枚板を、急ぎつつも遠慮がちにノックする。もう遅いけど。
対面にくり抜かれている窓から見える景色は茜色に染まっていた。外からの光源だけでは乏しいのか、室内には既に明かりが灯っている。
奥行きのある部屋の、中ほどに革張りのソファがある。そこへ座って足を組み、背もたれに身体を預けて寛いでいたヘンリー父さんは、何事かといった様子で振り向いた。
「桜か……?」
えへへと笑いかけ、えんじ色の絨毯を踏み越えて、ソファ越しにヘンリー父さんの背中へ思いっきり飛びついてやった。
「ビックリした?」
「ああ……。本当に、驚いたな。さっき戻ってきたのかね?」
目を白黒させた後、顔だけを私へ向けてから、笑みを零してくれた。
「うん。最初は王城へ行ってたんだけどね。アステルと一緒に戻ってきたの。アステルももうすぐ来ると思うよ」
「アステルと? そうか……。隣へおいで。もっとよく顔を見せておくれ」
そう言われて、私はかじりついていた手を離し、グルッとソファを回り込んでヘンリー父さんの横へ収まった。片耳の辺りを大きな手で包み込まれ、まじまじと顔を見つめられた後に「お帰り」と囁かれる。それから額にキスを落とされた。くすぐったくて温かい。
私もお返しとばかりにヘンリー父さんの頬へ唇を押しつけ、そのまま抱きついた。ちゃんと抱き留めてくれる。身体だけじゃなくて、心まで大きくて安心できるものに包み込まれているようで、とても凪いだ気分になり、目を閉じた。
胸にくっつけた顔を、押しつけない程度の力で私の頭に手を置きながら、ヘンリー父さんが訊いてくる。
「辛い目に遭ったりしなかったかい?」
「全然そんなことなかった。出会う人皆が親切に助けてくれたよ」
「怪我や病気は?」
「擦り傷ぐらいはあったけどね。病気は今のところないよ。食べすぎてお腹を壊したことがあるくらい」
「……それは気をつけなさい。一人でも夜はよく眠れているかい?」
「うん、ちゃんと寝てる。――って、子供じゃないんだからさ」
胸から顔を離し、ヘンリー父さんを見上げて抗議してやる。幼い子じゃあるまいし、夜中に目覚めて怖いようなんて泣く歳じゃないぞ。でも寝る前に皆を思い出して切ない気分になっていたことは、黙っておこう。それに今はもう、一人じゃないしね。
すると、ヘンリー父さんには少し困ったみたいな表情を向けられてしまった。
「この先お前が三十になっても、四十になっても、私の子供であることに変わりはないさ。幾つになっても心配はさせてもらうよ。鬱陶しくても、それが親というものだからね」
「……」
これから私がどれだけ年齢を重ねても、ヘンリー父さんを鬱陶しいなんて思う日は来るはずがない。ちゃんと伝えたいのに、一杯一杯の頭ではその言葉に答えられなかった。再びヘンリー父さんの胸に顔を埋めてしまう。
そう言ってもらえたのがただただ嬉しくて、でも心配をかけているのが申し訳なくて。それでも胸の中は幸せな気分で満たされていた。
コンコンと扉を叩く、ノックの音が聞こえた。そういえば、うっかりして閉めるのを忘れていた。入口の方に首を向けると、アステルとリディが立っている。
「あ、リディ!」
ソファから降りて、リディの傍へ寄っていった。入れ替わりにアステルが帰還の挨拶を告げながら、ヘンリー父さんの所へ歩いていく。
たった数ヶ月では衰えない記憶の中そのままに、リディは華のごとくに美しい笑顔を向けてくれて……いるみたいに見えた。目には明らかな怒りが見え隠れしているけど。
リディは、言葉を交わしているアステルたちがこちらを気にしていないのをチラッと確認してから、尖った小声で言ってきた。
「『あ、リディ』じゃないでしょう。私が手紙を書きなさいと言ったことを忘れておりましたの?」
それを持ち出されると弱い。なんせ、故意に出さなかったわけだし。いやまあ、書けなかったという方が正しいんだけれど。
でもとりあえずは顔の前で両手を合わせ、殊勝な態度で謝ることにした。
「ごめんね。でもほら、こうやって無事に可愛い顔を見せにきたんだしさ。安心したでしょ?」
「何を図々しいことを」
リディがフンと鼻を鳴らす。
うん、自分でもいけしゃあしゃあとよく言うもんだと思ったよ。
「でも、いつも通り悩みのなさそうなお顔をしていらっしゃいますわね。お変わりないようでよかったですわ」
いつも心に煩悶を抱えている私に向かってなんという言い草だ。もしかして私はリディに、お気楽人間だというレッテルでも貼られているのか!?
文句を返してやろうと声を出しかけたところで、先に口を開かれてしまった。
「私もお父様ももちろんですけれど、お兄様はいつもあなたのことを心配していらっしゃいましたわ。お気の毒に、その気持ちを紛らわせようと、屋敷へ帰れないほどお仕事に打ち込まれて」
――アステルが? 嘘でしょ? 私は信じられない気持ちで目を瞠った。
気にかけてもらっていたとはいえ、私が出発する時だってちゃんと送り出してくれたのに。
「ただ単に、忙しかったからじゃなくて?」
「私も王城へ詰めておりますのよ? お兄様がどういう状態かくらいちゃんと分かりますわ。あなたはもう少し、あらゆる可能性を考慮する想像力を養うべきです」
それって、言葉は違っても今まで色んな人に散々っぱら言われてきたことと同じような気がする……。そうまで繰り返されるというのは、私が学習していない証拠なんだろう。
…………なんか、段々落ち込んできてしまった。
「……リディ、私ってそんなに人の気持ちを蔑ろにしてる?」
「そういうわけではありませんわ。ちゃんと人を思いやろうとしているのは見て取れますもの。思い込みを捨てて、視野を広げなさいと申し上げている……だけなのですけれど、その様子では頭が破裂しそうですわね。今言ったことは参考程度に留めておきなさいな。――そういえば、まだでしたわね。お帰りなさい、桜」
参考程度にって言われても、中々浮上できないんですけど……。それでも今度は本当に、迎え入れてくれるみたいな笑顔でお帰りと告げられると、私の顔も自然と綻んでくるのが分かった。
ただいま、リディ。
「リディ、桜、いつまでも二人だけで話していないで、俺たちも会話に入れてください」
アステルが呼びかけてくる。それにリディが「はい、お兄様」と弾んだ声で返し、アステルの隣へいそいそと赴いた。私もヘンリー父さんの隣に座るため、リディの後に続いた。
ユヴェーレンの皆と送る時間も本当に楽しいんだけれど、家族で過ごす一時は、それとはまた何か種類が異なっている。こんなに楽しい、でも胸に迫り来る感情を、いつまでも覚えていたいと思った。




