絆の刻 4
行ってしまった……。
スターが消えてしまったことで、付き添いの人がいなくなってしまったかのような、お前は一体幾つなんだと自分でも嘆きたくなる、心許ない気分と少しの寂しさを覚えてしまう。でもいつまでもくよくよしているわけにもいかない。
これからどうしようかとアステルの方を向くと、スターが消えた辺りをまだ凝視していた。
「アステル?」
呼びかけてみたものの、反応がない。
「おーい、アステルー?」
今度はテーブルを回り込んで傍に寄り、目の前でプラプラ手を振りながら注意を引いてみる。そうすると、目線だけはこちらを向いた。
「今の――」
「うん?」
答えると、やっと顔も目線に追いついて私と相対する。
「今の、ティア・サファイアの発言はどういう意味ですか?」
「あ、驚くよね。スターはピ……ティア・ルビーと双子の姉弟なんだけどね、性別が交換できるんだって。さっきは男の人の姿だったけど、本当は女の人なんだよ。これがまた美人で――」
「つまり、ティア・サファイアは女性なんですね?」
や、だからそう言っているじゃんか。そう思ったけれど、余りにも真剣な様子で確認を求めてくるアステルに圧倒されて、私は咄嗟にコクコクと頷いた。
それを見たアステルは数秒動作を停止した後、深々重々と溜息を吐く。やけに落ち込んでない?
そしてアステルは遠い目をして問いかけてきた。
「……ティア・サファイアは、お人が悪い方ですか?」
「ええっ!? そんなことはないと思うけど? 凄く優しいよ?」
そんな感想を持つアステルにビックリだ。そりゃあ得体の知れないところもちょっとはあるけれど、いつも人のことを思いやってくれるスターなのに、どうしてそんな考えが浮かんでくるんだろう?
「いえ……、そうですか。謀られたと思ったんですが、俺の気のせいだったみたいです」
達観したみたいにまたもや溜息を吐く。
謀られたってどこらへんが? 少し疑問に思ったものの、納得してくれたんだったらまあいいかと思い直した。
「――ところで」
諦めの境地から戻ってきたアステルに真顔で話しかけられ、ようやく今の状況に思い至る。ふ、二人きりだ……。
いやいやいや、だからどうだって話でもないでしょうが。わざわざ意識をそっちの方向へ持っていくんじゃない、私。心臓がドクドクいっているのは、……うん、きっと久し振りに今晩は豪勢な晩ご飯を食べられることに、身体が興奮しているんだ。そう思っておこう。よし、切り替え完了。
「何?」
一応、胡散臭い笑顔も浮かべておく。これで完璧だ。
「少し話を訊かせてください」
と言って、アステルはすぐ脇のソファを手振りで示した。
それに少し躊躇ってしまう。ここに座ってしまうと、アステルの隣に鎮座してしまうことになる。ちょっと今の私には距離が近過ぎるぞ。
というわけで、机を挟んだ向こうのソファへ戻ろうと、一歩踏み込みかけた時だった。
「ここへ、座ってください」
やけに『ここ』という二文字を強調して機先を制される。アステルの顔を見上げると、逆らうことを許さないという、有無を言わさぬ笑顔を浮かべていた。
こちらも、挫けそうになる胡散臭い笑顔を何とか貼りつけるものの、意固地に向こう側へ渡る理由も思い浮かばず、結局は観念して膝を折り曲げた。柔らかい布張りのソファが浅く腰掛けた私を支えてくれる。落ち着かなくて、膝の上に置いた手に、なんとなく力が籠もってしまった。
続いてアステルが隣に静かな動作で座った。ちょっと肘を動かしたら当たってしまいそうな距離。ち、近くないか?
反対方向へ腰をずらしたい誘惑と戦うのに内心で力を尽くしながら、笑顔を崩さないよう心がけた。
お屋敷を出てから胡散臭い笑顔の出番なんて一度もなかった。なのに、帰ってきた途端にフル活用する羽目になるなんて……。やっぱり、貴族社会では表情のコントロールは大事な要素なんだな、と私は変なところで感心してしまった。
……なんか違う気もするけれど。
「訊きたいことって?」
黙っているより口を動かしていた方が気も紛れる。私の方から話しかけることにした。
「さっき、波真太比と対峙したと言っていましたが、怪我はありませんでしたか?」
「うん、大丈夫。おじいちゃんが守ってくれたから」
「おじいちゃんとは、ティア・アメジストのことですか。……凄いですね、桜は」
「凄いって?」
賞賛するように言うアステルにちょっと意表を突かれた。一体、私のどこをどうとったら凄いという単語が出てくるんだろう?
「先程ティア・サファイアに名前を授けていただきましたが、俺はそれでもその尊い名を口に乗せる気概は持てません」
尊い名って……。
耳をおかしくさせようとする、あまりにも予想外の単語に卒倒しそうになりながら、私は誤解を解こうとした。
「それってさ、やっぱり私がこの世界の人間じゃないからじゃない? 魔術師なんて今でもどこか非現実っぽく思えるし、ティア・ペリドットとはアージュアに来たばかりの頃に知り合ったからね」
畏れ多いとか、そういう価値観を植えつけられる前にイヴと友達になってしまった。だから凄いというのはまた違うと思うんだけれど。それになあ……、今まで接してきたユヴェーレンの実態を考えても、この先皆に対して尊いなんて認識を持つのは、ちょっと無理そうだ。
「桜はティア・サファイアや、他にもユヴェーレンの方々と親しくさせていただいているようですが、変に気構えた様子のない所が好かれている理由なのかもしれませんね」
私からすれば、王族に対して気安いアステルたちの方がよっぽど凄く感じられるんだけどね。まあ、結局はどっちも同じことなのかな。
それはともかく。
「私、スターに好かれてるみたいに見えた?」
「ええ、とても」
それって凄く嬉しい。例え本人に言われたんじゃないにしても、誰かに好かれているようだと教えてもらって悪い気はしない。
とはいえ、そう言ってくれたアステルから妙な重圧感が伝わってくるのはどうしてなんだろう? コッソリ顔色を窺うものの、別に怖い顔をしているわけでもない。気のせい……なのかな……?
「……」
それから何故か会話が途切れてしまい、妙な静寂が漂ってしまった。無意味に膝の上に乗っている手を握ったり開いたりしてみる。
うむむむ、沈黙が痛い。なんか身の置き所がないな。もう訊きたいことっていうのはなくなったのかな?
だったら、そろそろこの二人きりという、緊張感で神経をすり減らしそうな状況から逃れたい。そうと思って、お屋敷へ帰りたいという要求を述べるべく膝に固定していた目線を上げ、口を開いた。
「――あの」
「――桜は」
お互いの視線と、更には声までもがバッチリぶつかる。
「桜からどうぞ」
アステルは一度瞬きをした後、少し笑いながら譲ってくれようとした。でも私は帰りたいと言おうとしただけで、特に内容があるわけでもない。
「ううん、私は後でいい。アステルから言って」
かぶりを振りながら、続きを促した。
「分かりました。では俺の方から」
そう言ってアステルは少し姿勢をずらし、身体ごと私に向き直る。真剣な表情と相まって、何を言われるのかとちょっと怯んでしまった。
「まだ、屋敷に帰ってくるつもりはありませんか?」
ドクリ、と心臓が一際大きく胸を打った。
さっきも似たようなことを言っていたけれど、あの時はスターが答えてくれた。でも今は、助け船を出してくれる人はどこにもいない。どんなに言い辛くても、自分の気持ちを自分で晒さなきゃいけない。
それでも強く問いかけてくる目を見ていられなくて、再び視線を膝の上に戻しながら声を出した。
「心配かけてごめん。でもまだ……」
こういう時ってどうして声を出しにくいんだろう? いつもより断然トーンが低くなって、喉が詰まったみたいになる。
「それに、ティナさんと結婚するんでしょう?」
そんな所へ帰る気にはとてもじゃないけどなれない。
――っていうか! こんなことをわざわざ言わせるのか? なんか、腹が立ってきたぞ?
この逃げ出したくなる気持ちは怒りに変えでもしないとやってられない。
などと必死こいてセルフコントロールを試みていたんだけれど。
「ティナとは結婚しません」
――なんだって?
その発言が耳から入って脳のシワに刻み込まれ、更にその意味を咀嚼するまでにちょっと時間がかかってしまった。
「え?」
やっと意味を理解して、お間抜けな声と共に顔を上げる。すると、相変わらずの真面目な瞳とぶつかった。
「あの話は断りました」
断ったって、ええっ? ティナさんとの結婚話を?
「だったら、さっき庭で一緒にいたのは?」
「俺とティナが幼馴染みであることに変わりはありません。一緒に散歩ぐらいしますよ」
少し表情を和らげながらアステルが言う。デートしてたんじゃなかったんだ……。
でも、どうして断ったんだろう? ティナさんの家柄も本人の資質も申し分ないのに。それを訊こうと口を開いたけれど、実際に出てきたのは全然別の質問だった。
「じゃあ、他の人と結婚するの?」
なんとなく、断った理由を訊くのはティナさんに対して失礼な気がしたからだ。アステルだって言いたくないかもしれないし。
「するかもしれませんが、当分は考えないことにしました。同い歳である王太子殿下もまだなさってはいませんし、何も必要に迫られているというわけでもありませんから」
それって、それって!
私にもまだチャンスがあるってこと?
正面切ってそう問い質せる勇気がない分、なんとか表情から読み取ってみようと、つい食い入るようにアステルの顔を見つめてしまう。……読めなかったけれど。
でも、胸にキラキラと輝く希望の明かりが灯った。
喜んでいるなんて、ティナさんには本当に申し訳ない。ううん、既に振られてしまっているのは私だって同じだ。でも、まだアステルに決まった人がいないんだったら、諦めてしまわなくてもいいよね。しつこいって思われるかもしれないけれど、そんなのはこの際知らんぷりしておこう。
さっきまでとは別の意味で踊り出す心臓と、それに連動している心が、意地でも鎮まるもんかと騒ぎ立てている。
「だから、帰ってきてくれませんか?」
うん帰る!
現金にも二つ返事で承諾するべく勢いよく首を縦に振ろうとした所で、どういうわけかその動作がピタリと止まってしまった。ふんぬと意志の力を総動員してなんとか頭を動かそうとしても、つっかえ棒で邪魔されているみたいに固まってしまう。
――ここで、私が帰ってしまったらおじいちゃんはどうなる?
アステルはまだスターから頼まれた依頼の答えを出していない。私が屋敷へ戻ると決めて、尚かつアステルが波真太比を傷つけることはできないと結論付けてしまったら?
恋愛感情はなくても、アステルの心配性は健在だ。さっきだって怪我はないかと確認してきたし、帰ってこいと言ってくれるのもそのためなんだろう。
だったら、もしスターたちがおじいちゃんの身体を戻すために強硬手段を取るよう決意しても、私は協力させてもらえなくなるんじゃないか? 私が自分で波真太比は凶暴だったって言ってしまったもの。アステルは危険だと判断した物事を、決して私に近付けさせようとしない。もしかしたら相手がユヴェーレンだとしても、その主義を崩そうとはしないかもしれない。
おじいちゃんたちだって、凄く優しい。無理する必要はないって許してくれていた。私が家に帰れることを喜んで、もう協力しなくていいと、次の機会を待つことに決めてしまうかもしれない。
ただ単に甘い見通しなのかも。全部私の自惚れなのかもしれない。
けれど、そうなるという可能性をどうしても否定しきれなかった。
おじいちゃんはアージュアのために身体へ戻らなきゃと思っている。でも私は遠い未来の世界のことよりも、夜も眠れず、ご飯も食べられないおじいちゃんのために、身体を取り戻してあげたい。
駄目だ……。くっそう、どうしても頷けない。恨むぞ皆。なんで私にあそこまで親切にしてくれちゃうんだよ。そうじゃなかったらこんな選択しなかったのに。
断腸の思い! イメージ的に、今私は血の涙を流している!
うぐぐ、いつの間にこんな……。
私は自分の恋心を、それを育む可能性と引き替えても仕方ないと思えるほど、おじいちゃんたちのことが大事になっているみたいだった。
一度大きく深呼吸をしてから笑顔を作る。今の考えを悟られてしまったら、アステルの出す答えにも影響してしまうかもしれない。
それは避けたい。
「心配してくれてありがとう。でもやっぱりまだ帰らない」
「…………そうですか」
落胆を映した目を僅かだけ伏せて、アステルが返事をした。それを見て罪悪感がもたげてくる。
「大丈夫だって。私の傍にはユヴェーレンが三人もいるんだからさ。ある意味安全を保証されてる生活を送ってるんだよ?」
こう言っておけば、一応の気休めにはなるかもしれない。でもアステルはその発言には特に反応を示さず、姿勢を正してまた机の方を向く元の体勢に戻った。
そして何事もなかったように、全然別の内容を口にする。
「俺の話はこれで終わりです。桜はさっき何を言いかけていたんですか?」
帰らない理由を訊かれたらちょっと困るなと思っていたから、内心でホッとしていたけれど、問われないのもそれはそれで寂しいとか思ってしまった。私、面倒臭い性格してるな。
「うん。そろそろお屋敷へ帰りたいなと思って」
「ああ、そうですね。少し待っていただけますか、一緒に帰りましょう」
「え? でもいいの?」
窓の外はまだ明るい。夏場の日は沈むのが遅いとはいえ、アステルが帰るには早い時間だ。
「せっかく桜が帰ってきたんですから、少しでも長く一緒にいたいので。殿下に挨拶をしてきます」
へ……? 少しでも長く……?
柔らかい笑顔を向けられ、頭を撫でながら述べられた台詞に暫し放心する。その間に、「寛いでいてください」という言葉を残してアステルは部屋を出ていった。
浅く腰掛けていたソファからズルズル腰が落ちてしまい、床にペタンと尻餅をついてしまう。
久し振りに文句を言いたくなってくる。
本当に、記憶は戻ってないの?




