絆の刻 1
その晩――といっても、もうすぐ明けそうだったけれど――は少しでも眠っておいた方がいいだろうということで、各人部屋に戻って寝直した。そういえば、おじいちゃんは私たちが寝ている間、何をしているんだろう? 宿にいた時みたいに人を驚かしているわけでもないだろうし。ちょっと疑問だ。
翌朝はもうちょっと寝ていたかったけれど、重いまぶたをこすりつつ、普段通りに起きていつも通り用事をこなした。そしてお昼ご飯を食べてお茶を飲み、暫し寛いだ後、「そろそろ参りましょうか」と告げたスターの言葉にコクリと頷きを返した。
昨夜は皆がついてきてくれると言っていた。でも実際問題、ユヴェーレンをぞろぞろ引き連れてというのも目立ってしょうがない。髪の色を誤魔化せるとはいえ、スターとピジョンは容姿だけでも充分目立つのだ。
誰についてきてもらうかと話し合った結果、人当たりがソフトなスターの方が色々と都合がよさそうだということになった。同性の人がついていてくれた方が心強かったりするしね。まあ、姿は今日も男性だったりするんだけれど。
あぶれたピジョンはぶつくさ文句を言っていた。でもピジョンだと何かの時に喧嘩腰になりそうだよなあ、と危惧の念を抱いてしまったのは、ちょっと失礼かもしれないから秘密だ。なんにしろ、私のことを考えてくれるのは凄く嬉しい。
ちなみに、周りの背景が身体越しに透けて見えるおじいちゃんには遠慮してもらった。いくら見えなくなることができるといっても、目に入った女の人にでもちょっかいだされたら問題だしな。
「それでは桜、私の傍へ来てください」
ううう、いよいよ会いにいくんだ。動悸は鳴り止まないし、手の平に汗が滲んでくる。まだ姿も見ていないのに、早くも緊張してきてしまったぞ。
弾む心臓を宥めて素直にスターへ近寄っていくと、何故かひょいと抱えられてしまい、それに驚いて気を取られた分だけ肩の強ばりが抜けていった。いや、その点はありがたいんだけどさ。
どうして抱えられるんだろう? ただ重いだけだと思うんだけれど。
「スター? 別にくっついてなくても移動ってできるんだよね?」
以前に波真太比の洞窟へ向かう時も、スターは私に触ることなく移動させてくれた。イヴもホープもそうだったし。
「少し確かめたいことがあるのです。嫌でなければ我慢してくださいませんか?」
「嫌じゃないけど……重くない?」
幸か不幸か、今までに抱えられる機会が多かったせいですっかり慣れてしまっている。荷物みたいに運ばれることに慣れるだなんて、いささか微妙な心境ではあるけれど……。だからスターの行為自体よりも、自分の体重が負担になっているんじゃないかという不安感の方がよっぽど気になるのだ。
本来は清楚という言葉がピッタリの女の人であるスター。それでも身体の性別が変わったら、やっぱり筋肉量とかも変わるのかな? 布越しに伝わる感触は、細身だけれど堅くて力強かったりする。
「重いなどとは思いませんよ。軽いですね、桜」
なんて邪気のない笑顔で言われてしまったら、だったらまあいいかと納得するしかない。真偽の程は分からないものの、軽いと言ってもらったんだから喜んでおこう。気を使われている可能性が果てしなく高い、という事実は敢えて無視することにした。
「ところでさ、確かめたいことって何?」
私が質問をすると、スターは「少し反応を――」と呟いた後にフフフと微笑した。スターがこういう表情をする時は妙に怪しい。何か企んでいるんじゃないかって気がする。はぐらかされた感があるとはいえ、どうせ訊いたって答えてもらえないんだろうな。
「それでは桜、アステルバード殿の姿を思い浮かべてください。あなたの思い描く方の元へ移動しますから」
あ、懐かしい。イヴもそんな風に言っていたよね。
んん? ということは、どこに着くのか分からないってことになる。そして私は今、アフロカツラを被っていない。スターの髪は茶色く見えるんだろうからいいけれど、もし大勢人がいる場所に出てしまったら、ちょっと厄介かも。
「スター、私カツラ取ってくる」
「大丈夫ですよ。いざという時はちゃんと対処します」
降りようとすると、そうスターが請け負ってくれたのでちょっと安心してしまった。いくらアステルにアフロ姿を見られたことがあるとはいえ、やっぱりあの髪型を晒すことには躊躇してしまうのが乙女心というものだ。それに旅の恥はかき捨てろと言うけれど、地元で奇人変人扱いを受けるという境遇はなるべく避けたい。
「じゃあ行ってくるね、おじいちゃん、ピジョン」
スターに抱えられた状態で、二人に向かって手を振る。
『おお、よろしくな』
「しっかり口説いてきてくれよ」
二人とも手を振り返してくれた。それはいいんだけれど、ピジョン……。言葉に含みを感じるのは気のせいか?
まあ何はともあれ、私の感情は別にしても、波真太比については承諾してもらえるようにお願いしなきゃならない。ピジョンには、はははと乾いた笑いで返答をし、二人に喧嘩しちゃだめだよと言い置いたところで視界がブレた。
クリアになった視界へ真っ先に飛び込んできたのは、夏の強い日射しの下に広がる混じり気のない蒼穹だった。見える範囲を飛び越えてもなお続いていくだろう鮮やかな青さが、目にも眩しい。少し視線を下に持っていくと、白っぽい石で出来た壁が見える。
以前に来た時は春から初夏へ移り変わる頃だった。今は盛夏の濃い緑や彩色のハッキリした花々が、さあ心ゆくまで鑑賞して美しさを褒め称えろ! とばかりにそこら中に咲き誇っていた。合間を縫って流れる小川はいかにも冷たくて気持ちよさそうで、足を浸したくなってくる。
スターもこの景色には驚いた様子で、周囲を見渡しては感嘆していた。
「これは見事ですね。空中庭園ですか」
「そうそう。凄く眺めがいいでしょ? 私も初めてきた時はビックリしちゃったよ。――ここは王城みたいだけど、アステルはどこにいるのかな?」
首をぐるりと巡らした限りでは、私たち以外に人は見当たらない。ひとまずは天海の彩のことを気にしなくてよさそうだった。
とりあえず、太陽に近い分地上よりも直射日光が激しさを増している。避けるために、手近な木陰へ入った。幾分か涼しい空気に土の匂いが混じっていて、ホッと息を吐く。
「ああ、あちらにいらっしゃるようですね」
手うちわでパタパタ顔を扇いでいた私は、声を上げたスターの視線を追った。
私たちのいる所から少し離れた先、並んだ木々に遮られた小径から人影が現れる。
キラキラ光る金色の髪だとか、垣間見ただけでも分かる相変わらずの端正な顔だとか、長い手足だとか、もう飛び込んできたその姿全体に釘付けされてしまった。
「……」
喉の奥から「あ」とも「は」とも判断のつかない、空気が漏れたみたいな音が出る。もっとよく見ようとして、身体が勝手に目線の先へ向かって乗り出してしまう。スターが「落ちますよ」と支えてくれたのも、自分には全く関係ない出来事のようにしか感じられなかった。
あそこで、本当に動いている。
無意識に、わななく片手が口元を覆う。スターの肩へ回したもう片方の手に力が入って、服をギュッと握り締めた。その指が震え出すのを止められない。
足の先から頭の天辺まで、身体の隅々から我慢できない衝動が湧き出してくる。――抑えたくない。思いっきり名前を叫んで、突き動かされるまま一息に走り寄って飛びついてしまいたい!
でも次の瞬間。
アステルに続いた人の姿が目に入った途端、さっきまでの爆発しそうな勢いが嘘みたいに萎んでしまった。
月の光を彷彿とさせる儚い銀色の髪をした、人間とは思えないほど綺麗な人。ティナさんが寄り添うようにして一緒に歩いている。日除けのために持っているレースの傘を掲げ、アステルの向こう側に並んでいるティナさんは、何かを話しながら楽しそうに笑っていた。ティナさんの方を向いてしまったアステルの表情は見えない。
――それにしても、依然として魂を抜かれそうな笑顔だ。あの日傘で白くて滑らかな肌を維持しているのかもしれない。あやかって私も持とうかな。
などと全然関係ないことを考えて、ぐらぐらする心をなんとか鎮めようと頑張った。
予想はできていたはずだぞ、私。今からこんな風じゃ話なんてできなくなってしまう。もうちょっと落ち着いて。
目を閉じ深く息を吸って、ゆっくり吐き出す。何度かくり返して、スターが宥めるみたいに背中をさすってくれたのも手伝って、ブンブン振り回されたような頭の中もなんとか凪いできた。
「あの方がアステルバード殿ですか。――桜は面喰いでしたか?」
「違うって……」
ちょっとでも気を紛らわせようとしてくれた……のかは分からないけれど、アステルを見て感心したみたいに訊いてくるスターには、脱力しながら否定を返しておいた。
い、いや、ちょっとは顔も理由に含まれていることは認めるんだけどさ。それだけじゃないはずだ。うん、熱弁を振るって断言してやるぞ!
「対にして飾り立てたくなるほど美しいお二人ですね。この素晴らしい庭にも勝る景観です」
「抉りたいの、スター?」
二人に視線を投げながらしみじみと絶賛するスター。
そりゃあその意見に私も異存はないんだけどさ。もうちょっと私の心境を考慮してほしいというか、余計なことを言うくらいなら黙っていてほしいというか。
いっそその口を縫いつけてやろうか。
物騒なことを考えていると、またもやあやすように背中を撫でられた。
「目にしたままの感想を述べたまでです。それ以上でも以下でもありません。それに外から眺めただけで、本当の所は見えないでしょう?」
「――? それってどういう意味?」
「心の内は当人のみが知っているという話です。どれほど僅かな可能性でも、事実を突きつけられるまでは無視しない方が賢明です」
?? なんだか煙に巻くような言い方をしてくれるでないの。ますます理解できない。どういうことを考えているかは当人にしか分からないなんて、当たり前じゃないか。スターは何を言いたいんだろう?
ニコニコしているスターに、更に尋ねようとしたところで先に口を開かれた。
「おや、お二人ともこちらに気付かれたようですよ。私たちも行きましょうか」
木陰を抜けてさっさと歩き出したスターの言葉に再び二人の方を向くと、足を止めてこちらを見つめていた。アステルの、その目が私と交わると、信じられない者を前にしているという感じで大きく見開かれる。
ここにいるはずのない人間が現れたんだもん、当然だよね。ちょっと驚かせたことで、してやったりの気分になったりもした。咄嗟に手で髪を撫でつけたのが、自分でも女の子だよなあと思った。
スターが足を動かす度に、アステルたちへ近付いていく。佇む姿がくっきり見て取れるようになってくる。
変わらない。さっき仰いだ空よりも、鮮明に強い輝きを持つ深く青い目。その目が私を捉えて離さない。どれだけこの眼差しを見たかっただろう。以前、もっと長い間会えなかったこともあったのに、その時よりもずっとずっと懐かしい気がする。
アステルの視界に入っているという事実も、どこかぼーっとした頭では中々実感できなかった。
二人を目の前にして、スターの足が止まる。
「桜……? 何故ここに……?」
――この声だ。
耳に届いた途端身体の芯から痺れが走り、ゾクリと震えた。
力が端から抜けていく。スターの腕から滑り落ちそうになり、抱え直されてしまった。
呆然と呟かれた私の名前。どうして涙が出てこないのかが不思議でたまらない。
やっと、会えた。




