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空を映す海の色  作者: せおりめ
第3章
83/105

間話 隙間の時間

 ベルディア王城。

 アステルはベルナールと共に城内を歩いていた。

 ふと廊下の先を見ると、友人と談笑している少女たちの後ろ姿が目に入る。彼はその中の一人に目を留めた。瀟洒なドレスに身を包み、髪も形よく纏め上げられている。小振りな髪飾りを散らしたその黒い髪の色から、目が離せなかった。

 こんな所にいるはずがない。

 一度は否定した。

 しかし後ろから見た年格好は似ている。恐らくは髪の長さも同じくらい。そこまで考えると、後は勝手に身体が動いていた。


「おい?」


 訝しげなベルナールの声も耳に届いてはいたが、アステルの行動を止めるほどの力は持たなかった。


「失礼」


 足早に近寄り少女の腕を掴む。驚いて振り向いた両の目を見て、表情へ出さずにアステルは落胆した。それと同時に当たり前ではないかと自嘲する。

 彼を見て真っ赤になった少女とその友人たちに非礼を詫び、追いついてきたベルナールにも謝って再び歩き出した。


「どうしたんだ」

「……なんでもありません。知り合いに似ていると思ったんです」

「――サクラ殿か?」


 正面を向いて歩いていたアステルは、隣を歩くベルナールへ視線を移した。しかしすぐに元へ戻す。


「分かりますか?」


 一瞬否定しようかとも思ったが、それも意味がないと考え直して言った。

 ベルナールがその問いかけには答えず、更なる質問を投げかける。


「サクラ殿は屋敷を出たらしいが、よくお前が手放したな」

「俺はそこまで桜を大切にしているように見えましたか?」

「まあ、見えたな」


 迷路の庭で桜に出会った日、ベルナールは彼女を抱き上げた。その姿を見たアステルの、常には柔らかな色が宿る両の目には、明らかな苛立ちが刻まれていた。ベルナールに対する敵意といってもいい。

 それは直ぐさま笑顔に覆い隠されたが、滲み出る威圧感が消えるわけでもなく。異様な空気は腕の中にいる娘も感じ取っていたようで、怯えた桜がしがみついてきた時、ベルナールは思わず無実だと弁解したくなった。更に重圧感が増したのは言うまでもない。

 ベルナールはこのいつも冷静な護衛仲間が、あのようにあからさまな感情をぶつけてくる所を目の当たりにしたことはない。彼の手から桜を奪い返し、わざわざ自らの上着を被せた理由も、他の男が身につけていた衣服を触れさせたくなかったのだろう。

 そのアステルが桜を手放したと聞いた時、どうにも解せないと首を捻ったものだった。


「俺には、引き止められませんでした」


 淡々と言うアステルにこれ以上尋ねることも憚られ、それ以後目的の部屋に着くまで二人は終始無言だった。



「これにサインをお願いします」


 ドサリと机に置かれた書類を見て、レジーは嘆息した。次期王として、彼の担う役割は大きい。次から次へと仕事は湧いてくる。いっそ不思議なほどだ。積まれた紙片をパラパラと捲りながら零した。


「やけに数が多いな。全てお前が片付けた物か?」

「まさか。俺の分もありますが、各部署から預かってきた物が大半です。目は通してありますよ。問題はありませんでした」

「城内の警備案件に……左翼棟の補修要項? なんだ、嘆願書までか? 雑用に持ってこさせればいいだろう」

「ついでだったので」

「そんなついでがあるんだったら、屋敷に帰ったらどうだ?」

「ちゃんと帰っていますよ」

「せいぜい三日に一度帰ればいい方だろう。わざわざ雑用まで引き受けて、暇な時は剣を取って兵の相手までしているそうじゃないか。ちゃんと休め」

「城の自室で休んでいます」


 それでも屋敷へ帰った方がよほど寛げるだろうという言葉を呑み込み、レジーは気になっていた疑問をぶつけた。


「屋敷へ帰りたくない理由でもあるのか?」

「そういうわけではありませんが……」


 言葉は否定を返しているが、表情はその通りだと言っている。最近のアステルは、仕事や何かの用事をしている時は通常通りだが、それ以外の時間は自らの考えに沈んでいることが多かった。


「そういえば、ティナとの結婚話を断ったらしいな。お前個人の感情は別にしても、ハーストン家と縁戚関係を持つのは悪いことじゃないだろう。どうして断った?」

「ハーストン家以上に有力な家は他にもあります。それにティナの気持ちを考えると……。俺には応えてやれる自信がありません。夫婦になったところで、義務感しか持てないでしょうから」


 アステルの返答に、レジーは形の良い眉を怪訝そうに顰めた。


「そんなことはティナだって百も承知だろう。今さら何を言っているんだ? それに義務感だけで終わるとは限らないだろう。一緒に過ごす内に情も湧いてくる」

「それはそうかもしれませんが……。もう終わった話です。それにまだ結婚するつもりはありませんよ」

「そうなのか? そのためにあの娘は出ていったんだろう?」

「レジーも知っていたんですか?」

「知っているも何も、城内で噂になっているぞ。グレアム家の天海の彩を持つ娘が家を出たとな。まあその理由までは流出していないようだが。あの娘を通じてお前の家と縁続きになろうとしていた求婚者たちも、さぞかし嘆いていることだろうよ」


 桜の元にも縁談はかなりの数が舞い込んでいた。

 アステルは覚えていないが、王との謁見に臨んだ際や、城へ遊びに行った時も桜は天海の彩であるという事実を必要な場所以外では隠していた。しかし人の口に戸は立てられない。一部の者しか知らぬはずの情報は瞬く間に城内を駆け巡り、桜の存在は暇な宮廷雀たちの注目を集めていた。

 いずれにせよ、本人の行方が知れない上にいつ帰ってくるかも定かでない現状では、求婚者たちにも諦めてもらうしかない。


「俺はあなたが正妃を迎えるまで結婚するつもりはありませんよ」

「……どうだかな。口実にしているだけじゃないのか?」

「何の口実です?」


 レジーは書類にサインしながら、予想はついている癖にわざとらしく訊いてくるアステルに「さあな」と短く返した。

 従兄弟の様子が変わったのはいつからだったか。

 それまで、一日に一度は鬱陶しく話題にしていた桜という単語を全く口に出さなくなった。彼女が王都へ来てからは夜遊びにも付き合わなくなり、まめまめしく屋敷へ帰っていたというのに、レジーが桜と迷路で会った日から様子が変わったのだ。

 初めはレジーも、彼が揺さぶりをかけたことで二人の間がぎくしゃくし始めたのかと思ったが、どうも違うようだ。桜の話題を持ちかけても、よく知らない誰かの話をしているかのように反応が薄い。おかしいと思った矢先、桜が屋敷を出たと聞いた。

 あの娘がグレアム家から、また、アステルの興味からも離れるようなら、レジーにとってはこの上ない朗報である。しかし皮肉にも、桜が出ていったことでアステルに何某かの自覚をもたらしたようだった。

 ティナに対する態度への決定的な結論に影響を及ぼし、アステルにとってもその存在がないと気が休まらないというなら、これはもう認めざるを得ない。

 桜は天海の彩という点を除けば取り立てて優れた点の見えない娘だった。レジーが意図して険しい態度で接し、その反応で見極めようとしてもやはり稚拙な部分ばかりが目立つ。これでは価値なしと、睦言の真似をしてどう切り抜けるのかを試してもみた。この程度で駄目になるならその程度の間柄だろう。

 レジーは自らの身分と容姿の威力、そしてその使い処を熟知している。

 ――少しでも気を移す素振りを見せれば、強制的に後宮へ放り込んだものを……。

 嫌悪に顔を歪めながらも、ひたすら彼を睨みつけてくる眼差しを思い出した。あの平凡な娘が大事な幼馴染みの隣に並ぶのは不本意だが、負けん気の強さだけは評価してやってもよかった。

 レジーは心持ちおかしく思う。彼にとっては妹のようなティナよりも、従兄弟であるアステルの幸福を願う気持ちの方が強いらしい。

 さしあたって今、レジーの役目は。


「最近のお前は用も無いのに働きすぎだ。今日はもういいからさっさと屋敷へ帰って休め」

「まだ昼過ぎですよ?」

「しばらく帰っていないのだから丁度いい。兄に無理をさせるなとリディに恨まれたくないしな。屋敷に帰りたくないなら女の所へでも行ってきたらどうだ? まあどちらにせよ命令だ。――帰れ」


 レジーは手振りで追い払う仕草をした。

 命令だと言われればアステルにはそれ以上なにも言えない。彼には滅多に命令することのない主がこの言葉を持ち出した時は、それ故に絶対だった。



 出迎えてくれた屋敷の者に挨拶を返し、中へ入る。自室へ向かう途中でリディに出くわした。どうやら休みだったらしい。


「お兄様? お帰りなさいませ」


 突然帰宅した兄に驚きながらも、嬉しそうに顔を綻ばせている。


「ただいま帰りました。――リディ、相変わらず桜から連絡はありませんか?」

「はい……。全く、あの子ったら手紙を寄越しなさいと言っておきましたのに。なんの音沙汰もありませんわ。もう二月近くにもなりますのよ。今頃どこで何をしておりますのかしら!」


 地を晒していることにも気付かず憤慨しているリディを宥め、アステルは自室へ入っていった。

 ソファへ崩れるように座り、溜息を一つ吐く。

 レジーの気遣いはありがたいが、どちらかというと仕事をしている方が気は休まる。何かをしていないと、考える時間があればあるほど同じ思考に絡め取られた。屋敷に戻ると、本来であればここにいるはずの存在がいないということを余計に実感してしまう。さりとてレジーの言う通り、女を抱いて紛らせようとも思えなかった。

 アステルが桜に結婚の話を持ち出したのは、彼のことを諦めてもらうためだった。すぐではないにせよ、どうせ何年後かには嫌でも成さねばならないのだ。傷つけたくはなかったが、早い内に未練を断ってほしかった。家のために少しでも有利な相手と婚姻を結ぶ。昔から決めていたことだ。

 ――それが最近、グラつく。

 屋敷を出ると言った桜に、当てつけなのかと腹が立った。受け入れることはできないが、家族に対する――いや、それにしては度を超えていると己でも可笑しく思えるほどの関心を寄せていた。いつかは離れるとしても、その時がこんなに早く訪れていいはずがない。それが身勝手な考えであることはアステル自身も重々承知している。それでも許したくはなかった。

 しかしユヴェーレンに安全を保証され、当主であるヘンリーの許可を得た桜に対し、それ以上駄目だと言える材料をアステルは持たなかった。

 あの時桜は、この世界へ残ることに責任を感じる必要はないと言ったが。

 元より覚えていない物事に対する責任など、アステルは一欠片も感じていない。選択肢が与えられ、自由に選べるのであれば、それは本人の判断に於いて行われるはずだ。そこに他人の意志など介在するべきではない。

 ――それとも、以前の自分は願ったのだろうか? 桜が残ることを。



 深夜、寝苦しい暑さに目が覚めたアステルは再び眠りに就くことを諦め、身を起こした。じっとりと汗ばんだこめかみに手をやる。

 月明かりで室内は灯りが必要ないほどよく見えた。窓の外には真円間近な月が孤高に浮かんでいる。

 そのまま部屋を出ようとして考え直し、灯りを持っていくことにした。

 月の光が届かない廊下を灯りで照らして進み、目的の部屋に辿り着く。叩いたところでいらえのない扉を暫し見つめ、開けて中へ入った。

 真珠色に輝く煌々とした硬質な光はアステルの部屋と同じく、この部屋をも白く照らしだしている。主人が留守をして久しく、気温の割にどこか寒々しく感じられる部屋は、いつ帰ってきても大丈夫なようにと侍女たちが毎日掃き清めていた。

 灯りを手近な台の上に置き、僅かでも空気を通そうと開け放たれている扉を抜け、寝室に入る。

 寝台に近寄るも、埃よけの布が掛けられた寝台に横たわる姿があるはずもない。それを確認するのも幾度目になるのか。

 重く息を吐き、その上に腰掛ける。服の布地越しにひんやりとした冷たさが伝わり、少しだけ身体に感じる暑さが和らいだ。

 アステルは窓にかかる月を見上げた。

 桜が出発する日、必要ないと本人は言っていたがどうしても気になり、見送りに出た。もう桜が目の届かない所へ行ってしまう事実について納得もし、心の整理もついているはずだった。

 ところがそれとは逆に引き留めるような行動に出た己自身に、動揺を抑えきれなかった。振り向くことなく遠ざかっていった桜を連れ戻すため、走り出そうとする足をなんとか留めた。

 その結果、アステルに残されたのは茫洋たる荒れ地にも似た心持ちだった。かつてそこは色彩に溢れ、確かな温もりを感じていたはずなのに、今は冷たく乾いた風が全てを染め上げている。

 今頃、どうしているのか。

 危ない目に遭っていないか気にはなるが、全てを置いて探しに行くことなどできはしない。また、捜索に人をやることもヘンリーから禁じられている。

 この感情がいかなるものでどこから来たのか。桜を忘れる以前の彼が、せめてこれだけはと足掻き抵抗した爪痕なのか。アステル本人にもよく分からなかった。何か掴めないかとこの部屋へ訪れても、答えを導き出してくれる者はもうここにはいない。

 以前の自分。桜の記憶を持つ自分。

 努力をしようにも、どうすれば思い出せるのか、そもそもの方法が思い当たらない。記憶を取り戻すに越したことはないだろうが、無いなら無いで仕方がないとも思えた。

 以前の己が桜にどんな想いを抱いていたのか、知りはしないしもうどうでもいい。

 ただ、今は。


「――会いたい」


 音になるかならないか。

 微かに落とされた囁きは月の光を震わせ、主不在の空間に溶けて消えた。


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