ローズランド公爵領 1
馬車の中は、予想以上に広かった。
焦げ茶色の外見に反して中は明るい色合いで、床には足を柔らかく受け止めてくれるフカフカの絨毯が敷かれてある。寝転ぶこともできそうな備えつけのソファには、白いレースのカバーをかけたクッションが置かれてあった。この内装だけでも、向こうの世界にある私の部屋よりよほど豪華。
壁にはランプも掛かっていて、振動で割れたりしないの? と不思議に思ったけれど、問題無いのだと教えてもらった。窓は外から見えなくすることもできるし、ドア部分に収納して、屋根を畳むこともできるというのにはビックリしてしまった。オープンカーみたいなものかな。
アステルに手を支えられて――これは大袈裟だと思う――乗り込み、クッションの上に座ると、エレーヌが背中にもクッションを当ててくれた。
隣に座ったアステルの方を向くと、向こう側に剣を立てかけている。
身を乗り出してよく見てみる。長さ一メートルは優にありそうで、鍔(と言うのかな)の部分に八角形の、宝石みたいに綺麗な紺色の石がはめ込まれている。無骨な造りで、装飾はその一点だけだ。物語によく出てくるアイテムなんだけど、実物なんて初めて見る。素材がよく分からない明るい茶色の鞘には無数の細かい傷が刻まれていて、全体の汚れ具合だとか、確かに実用しているものだと感じられる。
オモチャじゃないんだ。
剣から迫力のようなものが滲み出ている気がして、ちょっと怖じてしまった。
アステルの横に置かれてあるということは、当然アステルの剣なんだろうけれど……。
「もしかしてアステル、剣なんて使えるの?」
失礼な訊き方だったかな? でもとっても意外だったのだ。顔は全然関係ないんだろうけれど、こんなに綺麗な容姿で、物腰だって柔らかなアステルが剣を使っている所なんて想像できないよ。
アステルが剣の柄に手を乗せ、ちょっと笑いながら答える。
「まあ人並みには扱えますよ。王太子殿下の側仕えなどというものをしていると、お守りするためにも使えないことには話にならないので」
アステルは人並みにはと言ったけれど、その人並みの基準がわからない。大体、王子様を守るというのは、やっぱり腕が立つ人がするものなんじゃない? ということは、結構強いのかも。
それを訊いてみると、アステルには「俺なんかまだまだです」と謙遜されてしまった。
それにしても王子様かぁ。そりゃあお城があるんなら、王様も王子様もいるんだろうけれど、女の子としては王子様という響きに憧れてしまう。
「ねえねえ、王子様ってどんな人なの?」
ついつい、近所でよく見かける、おばさん同士の井戸端会議といった勢いを出して訊いてしまった。
少し笑って、興味がありますか? と逆に尋ねてくるアステルに、こくりと頷き返す。そりゃあ、ありますとも。
「ここ、ベルディア王国の王太子は、御名をレジナルド殿下と仰せられます。燃えるような赤い髪に、透き通るような水色の目をお持ちで、ご自分の立場と責任をよく理解されていらっしゃる有能なお方です。時期王としての期待も高く、殿下がいらっしゃればベルディアも安泰だと評価されていますし、事実そうでしょう」
「ふえー。なんだか雲の上の人みたいだね」
「ええ。努力を惜しまない、素晴らしいお方です」
アステルはその王子様をかなり敬っているみたいだ。
語っている時の眼差し、それに言葉の端々からそう感じ取れる。
どんな人なんだろう? アステルが側近を務めているのなら、いつか私にも見ることくらいなら、出来る日がくるのかもしれない。
そんな話をしながら、馬車は順調に街道を走り抜けていく。
揺れは思ったよりも少なくて、これなら全然辛くない。
窓の外を眺めると、道はこんなに大きな馬車でも充分通れるくらい広く、街道沿いに並んでいるお店からは窓越しにも賑やかな声が聞こえてくる。活気があるなあ。
あ、あそこで兄妹みたいな子供たちがケンカしている。
その子たちを見た時に、頭に浮かんだ情景は、つい何日か前までは当たり前のように過ごしてきた日々だ。
……蒼兄ちゃんを思い出して、またもや切なくなってしまった。
町を抜けてしばらく走り、森が見えてきたところで休憩を取ることになった。馬車から降りて、ウーンと身体を伸ばす。空は澄み渡っていて、そよ風は柔らかな花の香りを運んでくる。それが段々と食べ物のいい匂いに変わってきて……お腹空いたなあ。朝にあんなに食べたのに。
見渡すと、使用人の人たちが忙しく立ち働いている。食べ物の匂いがしているのも、ご飯の用意をしてくれているためだった。私も手伝いに行きたいものの、皆が困ってしまうからダメだ、とあらかじめアステルに釘を刺されている。
こういう場面ではどうしても、自分だけ働かなくて申し訳ないような気分になってしまうのは、私自身が今現在、何の役にも立っていないせいなのかもしれない。ここでこれから暮らしていく以上はこれにも慣れるしかないんだろうか。
でもこういうことに関しては、慣れてしまうのも自分が変わってしまいそうで怖い。せめて感謝の念は忘れないようにしよう、と心に決めておくことにした。
「桜様、お食事の用意が整いました。よく晴れていますし、暖かいので外で召し上がりませんか?」
エレーヌが呼びにきてくれた。頭を切り換えよう。
「うん。ピクニックみたいで楽しいね。お腹空いちゃった」
少し気分が沈んでいたものの、食べ物を前にすると、しっかりお腹はその存在を主張してくる。ご飯を食べ終える頃には、私はすっかり浮上していた。
皆の食事が済んで、充分に休憩を取った後に再び馬車に乗り込み、森の中へと入っていった。
森の中ではもう一度休憩を取った。そして再び馬車に乗り込み、夕暮の気配が漂い始める時間帯、本格的に暗くなってしまう前に夜営の準備に入ろうかという頃に異変が起きた。
その時私は、アステルと地球の電話について話をしていたのだ。
「私の世界にはね、電話っていうのがあって、遠く離れた人とそのまま話ができるんだよ」
「ファーミルみたいな物ですか?」
「ファーミルは相手の返事がくるのを待たなきゃいけないでしょ? 電話は相手と直接しゃべることが――」
続きの言葉はアステルが唇に人差し指を当てて、「しぃっ」という仕草をしたことで遮られた。
何? と首を傾げると、次の瞬間、アステルが突然覆い被さってきた。
なんなのいきなりっ!?
でも仰天する間もなく、馬の嘶きと共に車輪のきしむ音が耳に飛び込んでくる。激しい振動と共に、身体が前に引っ張られようとする感覚が襲ってきた。
森に入ってからは、張り出した木の根や転がっている小石なんかで、時々大きく揺れることもあったけれど、今回のは規模が違う。多分、アステルが抑えてくれていなかったら、馬車の中を宇宙遊泳よろしく跳ね回っている。
しばらく目を瞑って身体を縮こまらせ、暴力的な感覚に耐えていた。それも治まると、アステルが立ち上がって私をきちんと座らせてくれる。
顔を覗き込まれ、「大丈夫ですか?」と気遣われた。アステルが庇ってくれたのだから怪我なんてするはずもなく、平気と答えると安堵したような表情をされた。
続いてエレーヌとソフィアの様子も確認する。二人とも少し身体を打ったけれど、受け身を取ったので大丈夫と答えるのを聞いて、私も一息吐いた。
馬車は幸い、横倒しになった様子もなくて、壁に掛かっているランプも割れることなく無事みたいだった。
でもどうしてあんな風に乱暴に、急停車したんだろう?
「一体何があったの……?」
不安なままに、誰に訊くでもなく呟いた。
「外の様子を見てきます。絶対に外へ出てはいけませんよ。窓から様子を窺うような真似もしないでくださいね」
アステルは剣を掴み、私の頭を撫でてからそう言い置いて、馬車を降りていった。
窓の外を見てはいけないと注意されてしまったけれど……。
そりゃあやっぱり気になっちゃうでしょう。後で怒られるだろうけどかまうもんかと思い、エレーヌたちが止めるのも聞かずに窓を開ける。そこから顔を出してみると、馬車の周りは、手に手に武器を持った柄の悪そうな男の人たちにぐるりと取り囲まれていた。
その人相の悪いことといったら、テレビに出てくる悪役なんて目じゃないね。
ざっと見ても確実に十人以上はいる。簡単な鎧を纏っている人もいれば、普通の服装の人もいたり、剣を構えている人もいれば、槍を持っている人という風に、なんとも様々。格好も武器もバラバラだけれど、皆一様に、嬉しそうにニヤニヤ笑っている。まるでここが何かのお祭りの場といったような、状況にそぐわない表情が不気味で怖かった。
多勢の中に、一人だけ馬に乗っている大柄な人がいる。隣の人が掲げる松明の炎を、その大きくて長い腕が持つ、幅の広い刀が反射して赤く染まっているのがやけに威圧的だ。他の人よりも迫ってくるような貫禄がある。ついでに一際顔がおっかない。この人が多分、リーダーなんだろう。
でも……。これは今本当に起こっている出来事なの? 向こうの世界は、少なくとも私の住んでいた地域は平凡で、平和な所だった。だから、こんな光景は映画でしか見たことがない。武器なんて持っていたら、普通は通報されて即、警察に捕まってしまうだろうし。
どこか夢の中の出来事のように感じていると、ん? と新たな何かを発見したという感じで、リーダーが私に気づいた。
その途端、私の身体が勝手にビクリと震えた。刺し貫かれそうに鋭い吊り上がった目、顔に沢山ついている生々しい傷跡。一体、あの何倍の苦しみを他の人に刻んできたんだろう? それを想像してしまい、現実が実感を持って襲ってくる。
そのままへたり込んでしまいそうな恐怖感が湧き出てきて、窓から引っこむこともできなかった。
「おっ、そんな所に若い娘がいるじゃねえか。見たところ、貴族だな? これは来た早々幸先がいいな」
私を見据えたまま、大きなダミ声で喜びを表すその人は、嬉しさを抑えきれない様子で吠えるように笑っている。
鳥肌が立ってきて、思わず腕をさすってしまう。怖さで頭の中が混乱しているのか、「喜んでもらえてどうも」とか、「私って貴族に見えるんだ」とかどうでもいい馬鹿な考えまで浮かんできた。
その時、この馬車からリーダーの方へ向かって歩いていたアステルが、足を止めてこちらを振り向いた。
「だから窓から顔を出してはいけないと忠告したでしょう。後で説教しますからね、覚悟しておいてください」
なんて、全然緊張感のない、少し呆れた素振りで。でもいつもの調子で話しかけてくる。
たちまち恐怖心が蒸発して、全身から抜け出ていくような気がした。
少し心が落ち着いてくると同時に、注意されていたのは外を窺ってはいけないということであって、顔を出してはいけないということではないもんと弁明しておく。後が怖いからもちろん声には出さないけれど。
アステルはまたリーダーに向き直ると、左の手で黙って鞘から剣を抜いた。アステルは左利きなのかな。滑らかで、とても慣れた動作だと感じた。
それを目にして、リーダーが驚く。
「そのやたらに綺麗な顔に、不釣り合いな剣……。お前もしかして、音に聞くフリューゲルの使い手か!?」
あ、やっぱりみんな似合わないって思うんだ。
「この道に盗賊が出るとは聞いていなかったんですが……。大方、王太子殿下に捕まりそうになって慌てて逃げてきたというところなんでしょう。ここは公爵領に続く街道ですよ? 俺のことを知っているんだったら、グレアムの家紋も覚えておいてください。全く、怖がらせてくれましたね」
心底うんざりした調子でアステルが言う。それを聞いて盗賊の人たちは明らかに怯んでいるようだった。顔を見合わせ、戸惑いを露わにしてリーダーを窺っている。
「すまなかった、あんたの所の馬車とは気付かなかったんだ。このまま退くから頼む、見逃してくれ!」
さっきまでの優越感に溢れた態度とは大違い。打って変わって、わたわたと焦った声でリーダーがわめいている。
その滑稽ともいえる反応を見たら、ちょっとだけ可哀想になってきた。
それにしてもここまでリーダーが豹変するなんて、アステルはそんなにも有名で、しかも恐れられているんだろうか。やっぱり強いのかな?
必死の懇願を受けても、アステルは承知する気がないみたいだった。
「俺も……そうしたいのはやまやまなんですが、後で殿下に小言を頂戴するのは嫌ですからね。残念ですが聞けません」
「俺も」の後に挟まれた「面倒なので」という言葉は私の聞き間違いだとは思うんだけれど……。
「この、王太子の腰巾着が!」
「否定はしませんよ」
悔し紛れにリーダーが叫ぶと、静かに返す声。
それ以上はもう話をするつもりはないみたいで、アステルは剣を構えた。リーダーは明らかに怯んでいる。
「フリューゲル、お願いします」
アステルが剣に囁きかけると、石が応えるように煌めく。見ている内に、剣の刀身が石と同じ紺に染まっていく。
目を瞠ってしまった。どうしてか、大分前にやったリトマス試験紙の実験を思い出してしまった。
次の瞬間、アステルは素早く足を踏み込み、躊躇なく地面を蹴った。まだ心構えもできず、オロオロしている盗賊の群れに、滑るように突っ込んでいく。
――違う。本当に滑っているんだ。地面から少し離れた宙を。思わず、あんぐりと口が開いてしまった。
まるで重力がかかっていないかのように、一蹴りで槍を持ったまま唖然としている人の前まで辿り着くと、そのままの勢いで体当たりをする。それを受けた人は吹き飛んで、後ろにある木に激突した。衝撃で跳ね返った後、ドサリと落ちて動かなくなる。
私が口を閉じることも忘れてその光景を見ている間にも、アステルは縦横無尽に、時には緩急をつけて右に左に動き回り、次々に盗賊たちをねじ伏せていく。
ただただ、凄いとしか表現しようがない。そこで人が吹き飛ばされたと思ったら、瞬きした後にはもう別の場所で誰かが倒れている。視線が追いつく暇もない、かなり早い動きだった。
アステルがふと木を仰ぎ見て軽く跳躍したかと思うと、枝の上で弓を構えている人をフリューゲルで払い落とした。多分、落とされた人は呆気に取られていたんじゃないのかな。あの人が乗っていた枝は、決して人間が普通にジャンプして届く高さじゃなかったから。
護衛の人たちも加わり、戦闘は間もなく終了した。後には信じられないといった、衝撃を露わにした表情を晒しているリーダーが残っているだけ。そりゃあ、あんなに人数で勝っていたのに、あっという間に負けてしまったんだから驚くしかないだろう。
「後は貴方だけです。おとなしく投降していただけますか?」
アステルがリーダーに近寄りながら、囁くように呼びかける。優しげにさえ聞こえる声音で。
ぼんやりしていたリーダーは、それを聞いて忌々しそうに顔を歪めた。情けをかけられて、屈辱だと捉えてしまったのか。
次には震えだしてしまったから、もしかして泣いちゃったの? と訝しんでいたら……。
「うるせえ!!」
叫び声を上げ、馬を走らせてアステルに突進していった。
危ない! と全身が縮み上がりそうになるのに、私は声を出すことすらできない。
心配で両手を握り締め、焦れる私を余所に、アステルは悠然と立っていた。
馬に蹴られてしまうと目を覆いかけた瞬間、アステルの姿が消える。
え?
私が仰天する間に、リーダーの頭上に跳躍し、フリューゲルを掲げたアステルが鋭い一撃を肩に叩き込む。
アステルは静かに着地し、リーダーは重い音を立てて馬から崩れ落ちた。