魔術 5
小さく、細かく。薄く、淡く。
莫大な数の私。
広く、遠く。音もなく突き進んでいく。
とんでもない速さだ。静止しているかと錯覚するほどに。
無数の私が幾千万の場所へ。
どこまでも、どこまでも拡がっていく。
かつてあった過去。中今を行く現在。確たる定まりのない未来。
流れるように連綿と続いていく時間。
その枠を越え、突き抜けて。
抱育する土の律動。揺蕩う清き水の流れ。
揺らめき立つ火の熱り。滞り無き風の息吹。
遍く腕に全てを宿す天。ふうわり靡く木の葉。生を営む這いずる虫。
――私。
皆、同じ。
なんて一体感。なんて充足感。なんて安心感。
そういうことなんだ。
私は……
――?
――私……?
私って……だれだっけ……?
わ……たし……? な……に……?
『こりゃ、しっかりせい! 戻ってこんか、桜!!』
不意に、頭へ響いてきた大喝するようなおじいちゃんの声で、ハッと我に返った。
どこまでも無限に拡がっていた意識が急速に縮んでいく。さっきの統合感、何も不足している物はない、満たされているという感覚は霧散していた。
私が『私』に戻っている。それを認識した途端、私を包んでくれていた安心感は、寒々しい孤独感とバトンタッチしてしまった。
どうしてこんな、何かに取り残されたような気になってしまうんだろう? なんとなく、薬で高揚感を味わった人が正気に戻るとこんな感じなのかな、と思ってしまった。
とりあえずはその気分を払いのけるために、拳を作って自分でぐりぐりとこめかみを押しておく。
……痛い。
眼下の川では、怪鳥が大きな身体を横たえて真っ黒焦げになっており、その一部分は水中に浸っていた。さっきまでの不気味な姿が頭にあるせいで、間違っても焼き鳥が出来ている! などと喜ぼうとは思えない。
怪鳥の前では、体勢を変えたのか尻餅を突いた男の人が、呆然といった様子で座り込んでいる。真正面の怪鳥から目を離せないでいるみたいだ。
いつの間に?
「これって、おじいちゃんが倒したの?」
姿の見えない、身体の中にいるはずのおじいちゃんに話しかける。私の意識がぼーっとどこかへ行っている間に、おじいちゃんが魔術でも使ってやっつけたんだろうか? あれは一瞬の出来事だったようにも感じられるし、かなりの時間が経っているようにも思えた。
『お前さんが魔術を使ったんじゃぞ。覚えとらんのか?』
「私が!?」
そこで思い当たった。
「えっ? もしかしてさっきの変な感覚って、魔術を使ってたの!?」
『そうじゃ。正確に言うと、お前さんの身体を媒体にして、儂が魔術を発動したんじゃがの』
「なんで? 私、魔力が無いんでしょ? 魔術なんて使えないんじゃないの?」
『今の儂は存在そのものが魔力の塊みたいなもんじゃからな。これは魔力のないお前さんの身体だから可能な芸当なんじゃ。できるかどうかは賭けじゃったが、どうやら成功したようでよかったわい。やっぱり肉体があるとないとでは魔術の威力も使いやすさも全く変わってくるな。とはいえ他人の身体。やはりアメジストの幻と同じようにはいかんらしい。ま、威力と言っても八分の一程度といったところかのう』
八分の一って……。余裕で倒せているじゃないか。充分だよ。
でもでも、そんなことよりも私、魔術を使っちゃったんだ! 凄いよ!!
じわじわと、身体の芯から興奮とも感動ともつかない何かがむくむく沸き起こってきた。
「じゃあさ、おじいちゃんが身体の中に入ってる間って、魔道具も使えるの!?」
「おお、使い放題じゃ」
やたっ! 使ってみたい魔道具がいっぱいあるのだ!
まずはファーミル。今度こそ、寿限無でペトラの色を変えてみたい。それから魔道具の灯りを点けたり消したりして、更には――うわあ、夢が膨らむなあ!
今まで当然みたいに魔道具を使っている人たちを横目に、悔しい思いをしてきたのだ。昔日の鬱憤を晴らしてやる!
あ、でも駄目だ……。突然私は気付いてしまった。
以前は周りに魔道具が溢れていたけれど、私自身が使えなかった。今はその逆で、扱うことができても肝心の魔道具が無いのだ!
魔道具なんて高価な物を買うお金は持ち合わせてない……。
膨らんだ夢がみるみる萎んでいく……。儚かったなあ……。
私は暫し落ち込んでしまった。
まあそれはともかく。
「魔術が使えるってのは凄いんだけどさ、使う度にあんな感覚になっちゃうの?」
『どんな感覚じゃった?』
「どんなって言われても……」
どうやって説明したらいいんだろう?
なんというか、私という個の意識が表面的……なものでしかないというか……。何もかもの中に私がいる? じゃなくてその逆? 時間も場所も越えて全ての意識は繋がっていて、全ての根源は同じものというか……。
ああ、もどかしい! 自分でこの感覚を纏めようとしたって、陳腐な言葉の羅列になってしまうだけだ。
「なんか、とにかく全てのことが解ったような気がする。でも今は全部忘れちゃった」
一体、私は何が言いたいんだ?
でもそうなのだ。そういう感覚を味わったってことは覚えているけれど、実感を伴っては思い出せない。
ただ、おじいちゃんはそれでいいと思っているみたいだった。
『ま、そういうもんじゃ。じゃが、得も言われぬ幸福感じゃったろ?』
「うん。凄く気持ちよかった。でも……」
『でも?』
「自分が自分でなくなるのは嫌だな。私は<私>でいたいよ」
それにあの孤独感。魔術を使った後にいつもあの感覚に陥いってしまうのなら、今後はなるべく遠慮したい。
私のその言葉を聞くと、おじいちゃんはしばらく愉快そうに笑っているみたいだった。
『そうかそうか。よしよし。あれの虜になって戻ってこなくなる者もいるんじゃがの。自分で歯止めをかけられるのなら大丈夫。今回は初めてで、しかもいきなりじゃったからな。ちょっと引き摺られてしまっただけじゃ。次からは要領も分かって自分を見失うこともなくなるじゃろ』
それならよかった。
さっきの、全て理解した! という感覚は忘れてしまったけれど、一つ分かったことがある。以前、女魔術師と相対した時、イヴと魔術の使い方が違うと疑問に思ったことがあった。
こういうことだったのか。
あの魔術師は、『現象』の意味を理解しないまま、ただ力のある言葉に魔力を乗せて魔術を使っていたんだ。無理矢理従わせるために、言霊の力が必要だったんだろう。
でもイヴやおじいちゃんは、何もかもが解っている。命令はしないし、従属させる必要もない。
おじいちゃんの望むことは、その『現象』の望むこと。何故ならば、両者は同じモノだから。
これがユヴェーレンの魔術。
うーん、ただの女好きなおじいちゃんだとばかり思っていたけれど、そう考えてみるとなんだか凄い人に思えてくる。ちょっと見直したぞ、おじいちゃん!
『ところで桜、あやつを放っといていいのか?』
あやつ、と言われて川でへたり込んでいる男の人の存在を思い出した。怪我もしているし、様子を見にいかないと。
私は慌てて斜面を滑り降り、男の人へと駆けていった。
近くで見ると、怪鳥はより一層大きく見えた。消し炭状態でもう危険はないと分かっていても、生々しい迫力に一瞬身が竦む。
よし、なるべく直視しないでおこう!
「あの、大丈夫ですか?」
茫然。といった体で放心している男の人に声をかけると、ビクリと肩を震わされてしまった。
無理もないか。とても怖い目に遭ったんだもんね。
でもそれにしたって、恐怖体験の後にこんなかわいらしい声を聞いたんだから、もっと安心した様子を見せてくれてもいいのに。
などと図々しいことを考えながら、更に話しかける。今度は極力、優しく気遣う調子の声音で。
「怪我の具合はどうですか?」
その声に懐柔されたのか、男の人は恐る恐る、といった感じでゆっくりと私に視線を移した。まるで、少しでも目を離したら怪鳥が動き出してしまうんじゃないかと心配しているみたいだ。なんとなく、その気持ちはわかる。
間近に見た男の人は、なんというか平凡そのもの。着ている服も容姿も、どこにでもいるザ・村人といったところ。
そして私を見た男の人は、ぎょっと目を剥いて固まってしまった。
なんだろう? 不気味な怪鳥から目を転じれば、その場にそぐわないほどに可憐な私が存在して、びっくりしたってわけでもなさそうだし。
思わず首を傾げていると、若干呆れたようなおじいちゃんの声が響いた。
『……お前さんの頭に驚いているんじゃと思うぞ』
あっ、そうか。アフロのことをすっかり忘れていた。この人が私を見た時は、間の斜面で少し距離が開いていたからこの髪型までは分からなかったんだろう。
男の人にとっては、魔物に襲われてやっと助かったと思ったら、次はわけの分からない奇抜な格好をした人間が現れたのだ。混乱の極みなんだろうな。
でもどうしようか? 怯えられているんだろうけれど、このまま放っておくわけにもいかないし。かといって、カツラを取ってユヴェーレンだと勘違いされても困るし。いや、おじいちゃんが中に入っているんだから、あながち間違いってわけでもないけどさ。
うーむ。思案していると、男の人が口を開いた。
「もしかして、あなたは魔術師様ですか?」
うむむ。なんて答えようか? 魔術を使ったのは私でもあるとはいえ、実際に魔術師なのは私じゃないし。
『ややこしいからそうだと言っといたらどうじゃ?』
そう言ったおじいちゃんの提案を受けて、私は男の人へ厳かにうむと頷いて見せた。きっと男の人が見た今の私からは、後光が射しているに違いない。
どことなく、眩しい物を見るような目つきになっているし。
男の人は私たちが向かおうとしていた村に住んでいるらしく、川へ魚を捕りにきたら怪鳥に遭遇してしまったということだった。森の奥地に住んでいる魔物は何十年かに一度、あんな風に彷徨い出てくる時があるみたいで、それにちょうど当たってしまった男の人は不運だとしか言いようがない。
あ、でも折良く私たちが通りかかったんだから、どちらかと言えば運がいいのかな。
背中の傷は幸い軽かったみたい。村まで歩くくらいなら問題無いようだった。
おじいちゃんに傷を治してあげられないかどうか訊いてみたけれど、もっと重傷ならともかく、この程度だったら手出しは必要ないと言われてしまった。さっき言っていた通り、なるべくは関わらないという方針らしかった。助けてくれただけでもおじいちゃんとしては譲歩してくれた方なんだろう。
男の人に村へ一緒に連れていってもらった私は、迎え入れてくれた村の人たちに髪型で驚愕されながらも、お偉い魔術師様というよく分からない理由で納得されてしまった。そして男の人を救った恩人ということで、大いに歓迎された。
傷の手当てが終わった男の人に具合を尋ねると、もう全然平気だと笑っていた。あながち強がりでもないらしく、平気で動き回っている。丈夫な人だな。
この村は森の恵みが豊かなのか、そんなに貧しそうな印象は受けない。それでも男の人の家で出してもらったご馳走は、かなり奮発して用意された物だろうという想像はついた。
その下にも置かないといった歓待振りを、逆に申し訳ないなと思ってしまう。それでもせっかく男の人とその奥さんに整えてもらった心尽くしの数々だ。感謝して、ありがたく頂いた。
それは、数日間携帯食に耐えた私のお腹と心の隅々に温かく染み渡った。
――要するに、美味しかった、ご馳走様でした!
心配していた今夜の寝床も、男の人の厚意で納屋どころか母屋に泊まることができた。ただし、寝室を明け渡すからそこで寝てください、という言葉は謹んで固辞させてもらった。さすがに家のご主人たちを板の間に追いやるなんてできないでしょう。
『遠慮なく寝させてもらったらどうじゃ?』というおじいちゃんの言葉は黙殺しておいた。
「おじいちゃん、助けてくれてありがとうね」
『何じゃ改まって。惚れ直したか?』
うん。元々惚れてはいないんだけどね。
これには否定の言葉を返しておいた。
「御馳走食べられたのも、家の中で寝られるのもおじいちゃんのおかげだなと思って」
『そうかそうか。遠慮なく儂の魅力に参るとよいぞ』
うん。だからそれはないって。
これにも否定の言葉を返し、おやすみと言ってその晩は眠りについた。
翌朝早く、一宿二飯の恩――朝ご飯までご馳走になってしまった――と、命を救ってもらったことについて双方礼を述べ合い、村の人たちに見送られながら私とおじいちゃんは出発した。
美味しいご飯と暖かい布団のおかげで私の足取りは羽が生えたように軽い。順調に森を抜け、そこから山に続く坂道を登った。
そして途中で休憩と野宿を挟み、後もう少しで双子のユヴェーレンが住む村に到着する、という所で私は最大の難所に行き当たってしまった。
「……おじいちゃん、本当にここ通るの?」
『これを抜けんと辿り着けんぞ』
「だって、ちょっと風が吹いただけでキイキイいってるよ!?」
『まあ、吊り橋じゃからのう』
今、立ちすくむ私の目前には、音を立てながら右に左に揺れている吊り橋が架かっている。人一人がやっと通れる幅で、素材は多分ロープと木の板だけ。しかもその板は所々が腐って抜け落ちている。
端的にいうと、かなりボロい……。もっと複雑にいうと、生命の危機を感じるほどボロい!
絶対に落ちないと分かっている崖の内側、安全な地面の上からつま先立ちして下を覗いて見ると、結構な幅のある川が、片手の親指と人差し指だけで測れるくらい小さく見える。つまり、落ちたらまず助かりませんよという距離なわけで。
「無理! 絶対無理!! 引き返そうよ、おじいちゃん!」
いくら私が高い所好きだといっても、命を賭けるほどじゃない。浮いているおじいちゃんと違って、私は重力に逆らうことができないのだ。
潔く諦めて、くるりと踵を返して元来た道を戻ろうとした私の頭に、おじいちゃんの声が響く。
『言うのを忘れとったが、この辺には魔物が出るんじゃ』
「それが何? おじいちゃんがいれば大丈夫でしょ?」
なんで今更そんなことを言うんだろう? 大体、あの村から今までも魔物になんて会わなかったのに。
『まあ撃退はできるじゃろうが、お前さんはなるべく遭遇したくないじゃろうと思ってのう』
「それって、どういうこと?」
おじいちゃんが何を言いたいのかがよく分からなくて、私は眉をしかめた。でもなんとなく不安がよぎって、横で浮いているおじいちゃんの様子を窺いながら訊いてみた。
『その魔物は見上げるほどに巨大じゃ。黒光りする殻に覆われとってのう。その下に羽を隠し、節のある長い足を持っておる。偶然にもある虫にそっくりなんじゃ』
「そ、その虫ってもしかして……」
どこかで見たことのある特徴だ。見るどころか、思い出すことにすら恐怖心を伴う、あの黒い凶悪生物を連想させる。
『お前さんもよく知っている、黒――』
「行こう! 早く村に向かおうおじいちゃん!!」
それ以上は言わせないぞと私はまたもや回れ右をし、勇ましく吊り橋に突入した。悪夢の権化たる魔物と出くわすことを考えたら、こんな吊り橋、なんてことはないのだ!
『……お前さんが単純で助かるわい』
「えっ? 何か言った!?」
その時、なるべく下は見ないようにして、足探りで慎重に歩を進めるのに必死だった私は、おじいちゃんの言った言葉が頭の中に入らなかった。おじいちゃんがなんでもないとかぶりを振ったのが、空気に乗って伝わってくる。
なんでもないなら集中力を乱さないで! 落ちたらどうすんだ!
奇跡的に橋も私も落ちず、無事に渡り終えた時は安堵の余り膝を突いた。吐く息が荒くなってしまうのは無理ないと思う。
しかしそんなことよりも私が気になるのは!
「おじいちゃん、渡ったよ! この先の村にその魔物って出るの!? 出ないの!?」
これだけはハッキリさせておかねば!
『魔物?』
一瞬、なんのことを言われたか分からないといった表情をしたおじいちゃんは、次の瞬間合点がいったのか、大きく頷いた。
『ああ、安心するんじゃ。この先には出んよ。と言うよりそんな魔物は――いやなんでもない』
「何、その気のない返事は! 本当に!? 本当だね!?」
『出んというのに』
よかった~~。
『ここまでくれば村はもうすぐそこじゃ。行こうかの』
「うん!」
早く魔物の出ない安全な村に行こう!
そしてリタズマを出て五日目、夕方というにはまだ少し早い時間、遂に私たちは目的の村に到着した。