魔術 1
――――……桜。
声が聞こえる。
私を呼ぶ声。
――――桜。
ほら、また。
誰が呼んでいるんだろう?
私、今どこにいるんだっけ?
……? あ、そうか。
確か、いきなりアージュアに喚ばれて、ローズランドへ行くことになったんだ。
馬車の中で眠っちゃったのかな。じゃあ、この声は。
――桜。
うん、今起きるよ。
「……アステル? ――うびゃあっ!!」
『何を寝惚けておる。なんじゃ、その素っ頓狂な声は?』
そりゃあ、誰でもびっくりするって!
眠りから覚めた目に飛び込んできたのは私の真上、足を天井に向けた逆さ状態で宙に留まり、顔を覗き込んでいる幽霊じいちゃんのどアップだった。
半透明のおじいちゃんを透かして、一目で見渡せるほどに狭い部屋の天井が見えている。どうやって付いたのか分からない、丸い形のシミまで判別できた。
寝起きに刺激がキツすぎる。心臓が驚きを主張して踊り狂ってるよ。幸せな夢を見ていたような気がするのに、夢の余韻も、ついでに眠気も吹っ飛んでしまった。
「おじいちゃん、起こしてくれるのはありがたいいんだけど、もうちょっと穏やかにお願い……」
『お前さんが何度呼んでも起きんからじゃ』
うーん、ずっと呼んでいたのはおじいちゃんらしい。
それにしても。
「おじいちゃん、私はお年頃なんだよ? 寝顔をこんな間近に見ないでよ」
いくらお年寄り相手だからって、大和撫子は恥ずかしがり屋なんだぞ。
口を尖らせて私が申し渡すと、おじいちゃんは逆さまだった身体――身体といっていいのかどうかは分からないんだけれど――をくるりと戻して言った。
『お年頃のう……。よだれが垂れとったぞ』
「嘘!」
それは寝顔がどうこう以前の恥ずかしさだ! 私は慌てて口元を、手でゴシゴシ拭った。
「濡れてないよ!」
『冗談じゃ』
なんて失礼な冗談を言うんだ!
私が頬を膨らませてジロッとガンを飛ばしているのを余所に、おじいちゃんはベッドの脇へと着地した。といっても、床からは数センチ浮いている状態だから、着地という言葉が正しいのかどうかは分からないんだけれど。
『儂にちゃんと身体があったらのう……。お前さんに添い寝して、腕枕のひとつでもしてやるんじゃが』
「遠慮しとくよ……」
ニヤリと笑いながら言うおじいちゃんに、身体が無くてよかったと安堵する。
もしあったら、第一級の危険人物にめでたくも認定だ。目が覚めたらおじいちゃんに抱き込まれているなんてそんな状況、断固として拒否するぞ。
それにしても、おじいちゃんとの会話は終始こんな感じだ。会話の中に、常に口説く言葉を差し挟もうとする。というか、セクハラ発言。
そんな態度を鑑みて、おじいちゃんと話をすればするほど疑問が深まってきた。
「ねえおじいちゃん、おじいちゃんを身体に戻すのって、本当にキスしなきゃ駄目なの?」
『またその話か? 昨日、理由もちゃんと話したじゃろうが。まだ言っとるのか』
「だってさ……」
ミアデル街道の手前で会ったお兄さんは、そんなことを考えると罰が当たるなんて言っていたけれど。こうやって実際に会ったおじいちゃんの言動を聞くにつけ、見るにつけ、どうにもただの女好きなんじゃないの? という不審の念が積もっていくのだ。
「大体さ、なんでおじいちゃんは女の人の部屋にしか出ようとしなかったの?」
『うん? あー、それはのう……』
私が疑問をぶつけると、おじいちゃんは一瞬ピクリと肩を揺らし、目を泳がしながら言葉を濁した。いかにも不味いことを聞かれて上手い理由を考えています、といった風情だ。物凄く怪しいぞ。
「それは、何?」
徹底的に追求してやる。
私はあわよくば、キスをするという約束がおじゃんになったらいいなどと、腹黒いことを考えていた。
『桜を捜しておったんじゃよ。桜の性別は女じゃ。何もおかしいことはないじゃろ?』
「おじいちゃんがここの宿に姿を見せ始めたのは九十年前からなんでしょ? その頃私はアージュアに来てないし、まだ生まれてもないんだけど?」
おかしいことだらけじゃないか。その理由はさすがに苦しいぞ、おじいちゃん。
さあどう出る!?
私が勝ち誇って見てやると、おじいちゃんは更に苦し気な言い訳を続ける。
『何を言っとる。儂はユヴェーレンじゃぞ? この漲る魔力で予知をしたんじゃ!』
「ふーん、そうなんだ。じゃあ、イヴに聞いてみるよ? 本当にユヴェーレンが予知なんてできるのかどうか」
確かに、魔力だとかユヴェーレンだとかの単語を出されてしまうとなんだか信憑性があって、思わず信じてしまいそうになる。魔力なんてこれっぽっちも無い私には、それでどんなことができるかなんて、実際のところが分からないからだ。
ユヴェーレンについても同じ。今までホープとイヴという、二人のユヴェーレンと接したことがあるけれど、その実体とか詳しい内面なんてほとんど知らないに等しい。
そういえば私、イヴがどんな所に住んでいるのかも知らないや。ま、それはともかく。
私にはそのイヴという、おじいちゃんと同じくユヴェーレンである強い味方がついているのだ!
それに、おじいちゃんの挙動からはどこかコソコソとした後ろ暗い所を感じる。まるで悪戯している現場を見付けられた子供といった体だ。老人だけど。
怪しさ倍増だぞ。
勝機は見えた! と、勝ちを確信していた私がフフンと不敵な笑みを浮かべつつ、ベッドの上から身を乗り出しておじいちゃんに詰め寄ると、悲しみを讃えた薄紫の双眸とぶつかってしまった。
思わず身を引っ込める。
『悲しいのう。昨日は桜が約束をしてくれて、これでやっと身体に戻れると安堵しておったんじゃが……。こんなに早く反故にされるとは……』
うぐっ。泣き落としでこられた! 悪戯坊主から哀れみを乞う老人に作戦変更か?
『桜のために黒弧虫も退治したんじゃがのう……』
更には止めの一撃。
これを引き合いに出されてしまったら何も言えない。これから先もあの恐ろしい凶悪生物と遭遇するかもしれないのだ。私は昨日体験した身の毛がよだつ時間を思い出して、戦慄してしまった。
そういえば、今までGなんて見たことがなかった。ずっと過ごしていたローズランドは夏が短くて、Gが棲む環境には適さなかったのかもしれない。王都にいたのも本格的に暑くなる前だったから、見なくて済んでいたのかも。
実をいうと昨日目の当たりにするまで、この世界にはGがいないのかもしれないと密かに喜んでいたのだ。ということは、私の理想郷はローズランドにこそあったのかもしれない。あの、Gに煩わされることがなかった日々を懐かしく感じるなあ。
ううっ、南になんて来なきゃよかった。
「分かったよ。おじいちゃんを信じる……」
『そうか、そうか』
喜ぶおじいちゃんを横目に、私は愁いに満ちた溜息を一つ吐いた。
ここまできたら引き下がるしかない。大人しく負けを認めよう。何か釈然としないけれど。
『それからのう桜。イヴは多分、お前さんが危険に陥らん限り、呼んでも出てこんと思うぞ』
「なんで?」
『儂がおるからじゃ』
「……」
おじいちゃんが堂々と放った最後の一言にこの上なく納得しながら、更にもう一つ、今度は諦めの溜息がこぼれてしまった。
『さて、相互理解を深めたところで早く起きるんじゃ。町を出る前にも色々とやることがあるじゃろう』
「うん分かった。あ、そうそう。おはよう、おじいちゃん」
おはよう。
おやすみ。
夜寝る時や朝に起きる時、挨拶するなんて久し振りだ。もちろん、宿の人に声をかけたりはするけれど、そういうのとはまた違う。
『ああ、おはよう。よく眠れたかの?』
不特定多数への社交辞令な言葉じゃなくて、決まった人と交わし合う定期的な挨拶が、こんなに嬉しいなんて思わなかった。おじいちゃんの返事を聞いて、思わず頬が緩んでしまう。
……例えおはようの挨拶の相手が朝に似つかわしくない、半透明で床からフワフワ浮いている幽霊でもだ。
「うん。ぐっすり」
『……そうか。それは何よりじゃ』
なんだろう? おじいちゃんは私の言葉に一人でうんうん頷いている。――まあいいか。
ベッドから起き上がった私は身支度を調えるために、おじいちゃんにはしばらく出ていってもらった。
タンクトップみたいなアンダーシャツの上にチュニックを着て、下のパジャマみたいなズボンを履き替える。
向こうの世界ではキャミソールやタンクトップ姿でも平気でうろうろしていたけれど、こっちではかなりはしたない格好とされてしまう。この四年で私もそれにすっかり慣れてしまった。だからそんな姿をおじいちゃんに見られるのも抵抗はある。でも相手はお年寄りだし幽霊みたいなもんだしで、割り切ることにした。
言動は色々と気にかかるけれど。
「――あ」
四年……じゃない。いつの間にかもうとっくに五年が経っているんだ。私はさっき自分で考えたことに思考を奪われ、動きを止めた。私がこの世界へ初めてやってきたのは春だ。季節は既に夏へと移り変わっている。
私は桜という名前には不似合いな夏生まれだ。お父さんとお母さんは、何を考えてこんな季節感を無視した名前を付けてくれたんだろう? 我が親ながらどうかと思う。
でも単純に、サクラの樹が好きだったのかもしれない。なんだかんだで私もこの名前を気に入っていたりするからいいんだけどね。
向こうとこちらの暦はほとんど同じなんだと思う。アージュアへ来たばかりの時も、季節は変わらなかった。だからこちらの暦で大体この辺だろうなという見当をつけて誕生日を定めた。
こちらに来て既に六年目に突入している。もうすぐ六回目の誕生日。どちらの世界でも、家族が必ず傍にいてお祝いをしてくれた。
今年は、初めて一人で迎える誕生日になるのかもしれない。
そう思ったら鳩尾の辺りがもやもやしてきて、なんとなく両手を振って気持ちを誤魔化した。十八歳はアージュアでの成人年齢。大人の仲間入りだ。いつまでもこんなことで寂しがっていては情けないぞ!
自分を叱咤激励しておくものの、よく考えたらその時にはおじいちゃんがまだ傍にいるのかもしれないと思い直す。それに喜んでいることに気付き、自分に呆れてしまった。
髪を整え、昨日のうちに洗って干しておいた着替えを紙に包んで荷物に詰め込む。斜めがけタイプの丈夫なバッグだ。ちなみにこの紙は水を弾いてくれるから、雨に濡れても大丈夫。
顔を洗って朝ご飯を食べるべく、私は扉へと向かった。




