漂う紫水晶 1
アージュアと呼ばれる平面の世界。
この世界の大陸は名を『ブランテーラ』という。その形状は円を描き、世界の中央にどどんと据えられている。
私はこれを初めて聞いた時、日の丸を思い出してしまった。平面の真ん中に置かれている丸となると、日本人の悲しい性なのか、どうしても国旗を想像してしまうのだ。もちろん、平面は海の青色、丸い部分は大地の緑と茶色という風に、色合いは全然違うんだけれど。
大陸の周りには小さな島国が散らばり、その島々が連なった群島国家なんてものも存在している。
ブランテーラを治めているのは主に四つの大国だ。大陸北部から中央に座する、最も国土が広く安定しているベルディア王国。ベルディアとは友好関係にある西のバルトロメ王国。それからベルディアとは山脈を隔てた南部に位置するエルネット王国。王を戴かず、各地方の代表から構成された議会が統べている、東のレスト共和国。
意外なことに、アージュアでは国同士の戦争というのが殆ど起こらないらしい。各国がそれぞれに兵団を擁しているけれど、それらは魔物の討伐や内乱の鎮圧、時には災害救助なんかの時に活躍しているみたいだ。
長い歴史の中で、当然国と国との間柄が悪化したことは幾度となくあったらしい。不幸にも、それで滅びてしまった国もある。けれど大部分が不思議なことに、いつの間にかその緊張感が緩和されているのだという。
以前に受けていた授業の中で、ユヴェーレンが介入しているのかもしれないと先生が推測して、何故そう思うかを長々と説明してくれたことがあった。国同士の諍いなんて厄介で難しそうなことはよく分からないので、この部分は適当に聞き流しておいたんだけどね。
でも、本当にユヴェーレンがそんな役割まで持っているのだとしたら、アージュアの平定者としてとんでもなく重要な存在なんだな、と改めて感心する思いだ。
……その一方で、国同士を和解させるなんてことがあのイヴにできるんだろうか、と疑問に思ってしまう。いや、イヴだってユヴェーレンに選ばれたほどの人なんだから、あらゆる意味で優れているんだろうと思うんだけれど……。そういう場所でも梔子を通して喋っているんだろうか? なんて不安な想像が頭をよぎってしまうのだ。ホープだったら上手にこなしそうだけど。あの説得力のある雰囲気に、わけが分からないまま納得させられてしまいそう。
まあ、私がそんなことを考えたってどうしようもないか。
グレアム家を離れ、エルネットへ行きたい私はまず、バルトロメへ入るべく進路を西南に取った。ベルディアからそのままエルネットへ入ることができればいいのだけれど、間にそびえ立つ険しいトーリア山脈を越えるという、無謀な真似はさすがにできそうにない。
トーリア山脈といえば、温暖な地方にある山なのに、万年雪に覆われている。標高、海流、吹き上げる風なんかが影響しているらしい。
生い茂る夏の植物や暑い日射しの下を、棒を携えて歩きつつ、遠目にも白い綿帽子を被っている壮麗な山を眺めるのは、ここにいながらにして別の世界を透かし見ているようで、不思議な高揚感が胸に迫ってくる。
家から少し離れただけで、知らない景色が広がっているのだ。世界は本当に広い。
私は存分にこの旅を楽しんでいた。
アフロカツラを被っている私を見た人々の反応は様々だ。一番多いのは二度見をした後に目を逸らす人。
何気なく私を見て顔を戻したと思ったら、すぐに、なんだあれは! という顔をしてぼわぼわ頭を凝視する。それから私の視線に気付くと、不味い物を見てしまったという趣で、目線を地面に固定してしまうのだ。
後は子供に多いんだけれど、妙にワクワクと目を輝かせながら見てくる人。最初は、珍しい髪型を面白がっているのかなと思いながらも、憧憬とも取れる眼差しを訝しんでいた。
でもある時謎が解けた。
走り寄ってきた子供に、「何か面白いことしてよ」と言われてしまったのだ。
どうやら大道芸人と間違えられていたみたいで……。
その子が向けてくる、無垢でキラキラした期待の目を裏切りたくはないんだけれど、残念ながら私は披露できる芸を持っていない。棒の演舞なんてこの髪型でやって見せても、肩すかしを食らわせるだけだろうしな。その虚しい事実を伝えるために口を開こうとすると、その子は走り寄ってきたお母さんらしい人に「関わるんじゃありません!」と抱えられて行ってしまった。
お母さんの反応にはちょっと傷付いてしまった。ま、まあこれは想定内だからよしとしよう。でもまさか芸を要求される羽目に陥るとは思わなかった。
何か、身につけといた方がいいんだろうか? なんて妙な義務感が芽生えてしまう。
思わぬ反応も返されるアフロカツラには、基本的に人は寄りついてこない。それが寂しくもある。けれどおかげで当初の狙い通り、異性関係のトラブルには遭わずに済んでいる。
ま、メリットもあればデメリットもあるってことで。
そしてそのデメリット部分に困ってしまったのが、バルトロメとの国境に辿り着いた時だった。
国境には検問所なんかが設置されている。
友好関係にある両国間のことだから、ほとんど有名無実なものだ。
木材を組み立てて造りましたというような、装飾も施されていなければ色も塗られていない、ただの木枠でしょうという風情の簡素な門。
その前には一応係りの人と衛兵さんが立っていて、行き交う人々を欠伸混じりに見守っている。そしてすぐ近くにある詰め所では、交代らしき男の人たちが頭を付き合わせてゲームに興じていて、のんびりとした雰囲気が漂っていた。
大部分の人たちが、一時も足を止めずに通り過ぎることができる場所なのだ。
それなのに私は呼び止められてしまう。風体が怪し過ぎるという理由で……。日頃の訓練の賜なのか、私を見たとたんにゆるい空気を遠くへ飛ばし、衛兵さんの目が険しさを帯びた。さすがに一般人とは違うんだな。
だからといって人を見かけで判断するなんて、そんな狭い了見では出世できないぞ!
とは思いつつも、ここに来るまでのアフロカツラに対する反応を考えると、衛兵さんたちが新手の魔物か狂人でも現れたんじゃないのか? と未知の髪型に脅威を覚えるのも無理はないのかもしれない。
それにしてもさすがに、ここまで危険視されるとまでは思わなかった。
結局、この時は土下座をする勢いで言葉を尽くした。私は人間で狂ってもいないし、ついでにこの髪は病気なわけでもなくてなんら害はありません、ということを強調した。ついでに袖の下をコッソリ渡して、なんとか通らせてもらえたのだ。冷や汗ものだ。
いっそのこと、私は大道芸人なんです! と開き直るのもいいかなとも思ったけれど、それなら芸を所望するなんて言われてしまったら目も当てられない。
こんな調子で今度はエルネットの国境を越えられるんだろうか。かなり心配になってしまった。
でもそれはその時に考えればいいか。
季節は夏の勢いを増している上に南下しているもんだから、歩を進める毎に気温は高くなってくる。それでも吹き抜ける風は乾いていて、不快な感じはしなかった。
比較的人通りの多い道を選んで歩き、急ぐ旅でもないので無理もせず、慎重に地図を確かめながら進んでいる。おかげで、危険な魔物や怖い人たちにはまだ遭遇していない。イヴも呼ばずに済んでいる。
守ってくれるとは言っていたけれど、なるべくだったらイヴの手を患わせたくはなかった。とはいえ、私が気付かない内に背後に忍び寄る影を排除してくれている、ということも充分に考えられるわけではあるのだけれど。
そんな調子で旅は比較的順調に進み、ミアデル街道の入口に辿り着いた頃には、家を出てもう一ヶ月以上が経とうとしていた。
街道の入口にはそんなに大きくない宿が一軒、それから飲食店や日用雑貨のお店が数軒あるだけだ。もう太陽は傾きかけていて、夕方になろうかというのに街道へはどんどん人が吸い込まれていく。
皆夜通し歩くのかな? 夜になったら危険じゃないのかな? それに、街道の始まりと終わりには大きな街があると思ったんだけれど……。
人通りは結構多い。それなのに宿が一軒だけでこと足りるんだろうか?
まあ宿の人に訊いてみればいいか。
私は今夜の寝床を確保すべく、宿へ入っていった。




