紫の賢者
大陸南部の国といえばエルネット王国を指す。
エルネットは北部の国境、その大部分を友好国バルトロメ、残る東の一部分をベルディアと接している。
しかしベルディアとの国境沿いには万年雪に覆われたトーリア山脈が横たわっており、わざわざ危険な山越えをして二つの国を行き来しようという物好きは少ない。いるとすれば、制覇欲に燃える登山家、よほど日程に余裕の無い商人、もしくは心に後ろ暗いものを抱えている犯罪者などであろうか。
大半の者はバルトロメを経由してエルネットに入る方法を選ぶ。
そして森や平原に隔てられた両国間を繋ぐ、主要街道は三ルート存在する。
その中で旅人たちに最も利用されているのが、他二つの中央に位置し、観光都市リタズマへと続くミアデル街道である。
今でこそ整備も為され、常に屈強な男たちが巡回をする一番安全とされるミアデル街道ではあるが、それもここ二・三十年のこと。それまでは道の中央に大穴が空き、周囲に広がるのは呪われているが如き澱んだ沼。草の隙間を徘徊する四つ足の獣、その上空には屍肉のお零れに預かろうとする怪鳥が飛び交うという、人よりも魔物や獣の方が多い、荒れ果てた街道であった。
遡ること九十年前。
リタズマは街道の終点として四つの宿を擁し、国外からは珍しい品々や文化が入り込み、それを求めてやって来る人々でそれなりに栄えている町だった。
最初にそれが現れたのはどの宿だったのか。
今となっては判然としないが、ある一つの宿で騒ぎが起こった。
幽霊が出るというのだ。
目撃した女性客の話によると、灯りを消して横になり、うとうとしかけたところで何かの気配を感じたという。
彼女は連れが起きたのかと思い、眠い目をこすりつつまぶたを開ける。すると、寝台の脇にぼんやりと紫色に光る老人が、床から数センチ離れた中空に無表情でふわふわ立っているのを見た。その老人は彼女と目が合うと、不気味にニタリと嗤ってからスッと消えてしまった。
恐怖に駆られた女性客は闇を切り裂く悲鳴を上げ、連れと、それからついでに宿中の人間をそのつんざくような声で叩き起こした。喚き散らしながら、自らの戦慄体験を集まってきた者たちに訴える。
その時は寝入りばなでもあり、幻覚でも見たのだろうということで決着がついた。女性客もしぶしぶながら納得した。
しかし翌晩、今度は別の宿でまたもや紫色の幽霊が出たのだった。
その後も幽霊は、今日はこちらの宿、次の日はあちらの宿という風に、ふらふらと気ままに出没した。その日、どこの宿、どこの部屋に出現するかは幽霊の気分次第らしく、その場所を予想するのは難しい。同じ宿に三日続けて現れたと思ったら、一つの宿には十日の間姿を見せないということもあった。
そしてリタズマの宿に紫の幽霊が出るという噂は瞬く間に広がる。
七十五パーセントの可能性をかけて選んだ宿で、その不気味な老人に遭遇してしまうと、旅人は残り二十五パーセントを引き当てた我が身の不幸を嘆きつつ、金切り声を上げた。
そうこうしているうちに、規則性の掴めない幽霊の行動に一つだけ決まりがあるのを発見する。
何故か幽霊は男性客だけの部屋には決して現れようとはしないのだ。必ず女性客の滞在する部屋を選ぼうとしていた。
しかしこの気味が悪い事実が伝わると、当然のように女性客は激減する。そうなると女性を客とする商人も減っていき、それに付随して、というように、リタズマを訪れる人間は徐々に減少していった。
初めは鷹揚に構えていた町の者たちも、ここまでくると死活問題だと慌て始めた。幽霊には早々にしかるべき場所へ旅立っていただく――つまり成仏してもらおうと、祓師を雇った。
すっかり女性客の来なくなった宿の一つへ、自ら志願した勇敢な町の女を泊まらせ、女好きの幽霊をおびき寄せた。作戦通り幽霊はのこのこと現れ、そこに颯爽と現れた祓師が秘術を以て幽霊を昇天させた――はずだったが、紫の老人は平然としている。
その後、どんな技を施しても老人の動揺すら誘うことはできなかった。しばらくはその場で付き合っていた幽霊も、やがては飽きてしまったのか、祓師を小馬鹿にするように欠伸をし出す。そしてその場にいた囮の女にニタリと笑いかけると、煙のように消えてしまった。
祓師の技が効かないとなると、これはもう悪鬼悪霊の類に違いない。協議の末に、町の者たちは魔術師を呼ぶことにした。もう成仏させようなどという悠長な手段はとらず、消滅してもらおうという狙いである。
今回も立候補を申し出てくれた、前回とは別の女に囮となってもらい、しつこく居座る色惚け老人をおびき寄せた。
件の幽霊老人はまたもやのほほんと現れる。
魔術師は立ち所に退治して見せようぞ、と威厳に満ちた仕草で詠唱を開始し、炎を呼び寄せた。宿の主人からは室内で火を使うことについて既に了承を得ている。そんなことよりも、幽霊を立ち退かせる方が重要らしい。
老人は炎にまかれ、瞬く間に蒸発した――はずだったが相変わらず涼しい顔でその場に浮いている。まるで心地好いそよ風に吹かれたかの風情である。
憤った魔術師はここが室内であるということも忘れ、宿の全てを破壊し尽くそうという勢いで、次々と爆炎を巻き起こした。囮の女はとっくに避難している。
それでも幽霊はそよともなびかない。更には不思議なことに、これだけの火災に苛まれながらも部屋は無傷なまま、絨毯に焦げ目の一つさえ付いていなかった。魔術師は周囲を気遣う余裕など持ち合わせていなかった。この幽霊の仕業としか思えない。
――完敗だ。
渾身の魔術を防がれた上に、建物まで守ってみせた老人の行動に敬意さえ覚え、魔術師は潔く負けを認める。受け取っていた前金を町に返し、清々しい思いを胸に去っていった。
町の者はそれを唖然と見送るばかりである。
頼みの綱であった魔術師まで撃退されてしまった。一度、やけになった町の若者が、果敢にも鍬を構えて幽霊に立ち向かった。が、斬っても叩いても素通りするだけである。幽霊は若者の無謀ともいえる行動を讃えるかのようにニタリと嗤うと、いつもの如く消えてしまった。
もう対処の仕様がない。
街道を往来する人影は途絶え、いつの間にか『悪霊の住む町』、と不吉な評判の立ったリタズマを訪れる酔狂な旅人はおらず、宿も一軒を残し、他は全て閉まってしまった。町を去る者も後を絶たないが、それを引き留める術はない。
リタズマも、ミアデル街道も見る間に荒廃していった。
しかしある時転機が訪れる。
傭兵崩れの無頼集団が、『悪霊の住む町』の噂を聞きつけ、見事退治して名を上げようとやってきたのだ。
名目は幽霊討伐でも、やることは質の悪い盗賊団と変わらない。ただでさえ貧困に喘ぐ町で、無頼集団は暴虐の限りを尽くした。
土足で家に押し入り、金品や食糧、家畜を奪い、更には隠れていた娘たちまで攫っていった。それを止めようとした家族は容赦無く斬り伏せられ、人々は町が踏みにじられていくさまを、無力感と共に息を潜めて堪え忍ぶことしかできなかった。
無頼者たちは町で一番広い町長の家を占拠した。奪ってきた戦利品を集め、これから狂宴を繰り広げようというのである。下っ端たちが準備をしている中、頭格の男は拐かしてきた娘たちの内で最も見目麗しい者を選び出した。泣き叫ぶ娘を殴りつけて黙らせ、組み敷いていざことに及ぼうとする。
その時、紫色の影がよぎった。
決して宿以外には姿を見せようとしなかった幽霊が、突如現れたのだ。
頭格の男は慄然としながらも、得物を掲げて斬りかかった。しかし当然のことながら、武器は幽霊をすり抜け、虚しく空を切るだけだった。元々幽霊討伐とは名目だけのことで、力の無い町に略奪を行いにきただけなのである。幽霊を退ける方法など持ち得ようはずもない。
そこで愕然とする男たちに向かって、幽霊が不気味にニタリと嗤う。
つと、男たちの内一人が悲鳴を上げた。皆の視線を一身に浴びたその男は、突然燃え出した自分の服を、なんとかしようと躍起になっている。それを呆然と見ていた彼らの衣にも、次々と火の手が上がっていった。
灯火が誤って触ってしまったなどという、馬鹿なことは決してあり得ない。これは目前で奇怪に嗤っている幽霊の仕業に違いない。
この世のものとは到底思えない存在に震え上がった無頼者たちは、焼けていく服にも構わず先を争いながら部屋を脱出した。
老人は娘たちに笑いかけると、逃げ惑う者たちの後を追うように姿をくらました。
常ならば、恐怖感を煽るだけだったであろう老人の笑い顔が、その時の娘たちには、まるで絶対的な者に守られているかのような安堵感をもたらしたという。
悪夢の一夜が明けた町は惨憺たる有様だった。
家々の壁には、無頼者たちが面白半分に加えていったであろう破壊の爪跡が残り、扉は打ち壊され、畑は無残に荒らされていた。家の中も嵐が通り過ぎて行ったかの如く好き放題に荒らされており、それを目の当たりにした住人たちの顔には色濃い疲労が浮かんでいる。
それでも娘たちは無事に帰ってきたし、怪我人は出たものの、奇跡的に命を奪われた者はいなかった。
娘たちから話を聞いた町の者たちは、いつ無頼者たちが戻ってくるやも知れぬと、初めの内は戦々恐々としていた。が、昼を過ぎる頃になっても何の音沙汰もない。
これはもしやと思い、有志の者同士で街道へ様子を見にいった。
街道には、目を覆いたくなる地獄絵図が広がっていた。
元は無頼者たちであったと思われる肉の塊が、群がる獣や怪鳥の隙間から覗いている。
皆、喰われているのだ。
あまりの光景にその場で嘔吐する者もいたが、無頼者たちがあのまま町に居座っていた場合のことを考えると、憐れに思う者は誰もいなかった。
この一件から、リタズマの住人たちは紫色の幽霊に対する認識を改めだす。
考えてみれば、悪霊だと思っていた老人はただ姿を現すだけで、特に町を害するような真似はしなかった。こちらが出ていかせようと攻撃を仕掛けても反撃ひとつしてこなかった上に、町の危機を救いさえしたのだ。
疫病神かと思っていた悪霊は、実は座敷童の如き福の神だったのではないだろうか?
思い返してみれば、紫色の光に包まれた気高い佇まい。長い年月を経た者だけが携える、計り知れない叡智を感じさせる奥深い眼差し。全てを包み込む、無辺に広がる大地のような笑み。
まるで全ての欲を削ぎ落とした、孤高に生きる賢者の趣ではないか。女の前に現れようとするのは、何か事情があるに違いない。どこをとっても不吉な要素は見当たらない。
自分たちの目は曇っていたのではないか?
尊き者に無礼な振る舞いを行ってきたから、このような目に遭ったのではないか?
町の者たちは悔い改め、老人の幽霊を『紫の賢者』と呼び敬うことにした。
そうなると、『悪霊の住む町』などという、不名誉な呼称は返上しなくてはならない。
そこから町興しが始まった。
まずは魔物や獣が跋扈し、危険地帯と化している街道をなんとかしようという意見が出る。なけなしの金を集めて傭兵を雇おうかという意見が出たが、そこに都合よく、旅の途中だという二人の魔術師が通りかかった。
男女のよく似た風貌を持つその二人は、開店休業状態にある宿に泊まり、悲鳴を上げることなく夜を過ごした。
翌朝、町の者たちは事情を打ち明け、報酬を払うから協力して欲しいと頼んだ。男は何故か大層申し訳なさそうな様子で、女の方はこれまた何故か大層憤った様子で、それでも快諾してくれた。
しかも、町の者たちの志に感動した、報酬は要らないから手伝わせてくれというのだ。
その言葉に、これも『紫の賢者』のおかげだと、町の者たちは大いに沸き返った。
そして、その様子を見た二人の魔術師が複雑そうに顔を見合わせたのには気付かなかった。
街道が整うと、行き来する人々の姿も戻ってくる。
それからはトントン拍子にことが進んだ。
ありがたい『紫の賢者』が住むリタズマの町は、数十年をかけてエルネットでも屈指の観光都市へと発展していった。
十指に余る宿を公平に渡る『紫の賢者』を見た者は、その後の人生を幸福の内に過ごすことができると言われる。
姿を消す際に必ず残していくその笑みを、不気味だと称する者はもうどこにもいなかった。




