帰る場所 6
執務室に入ると、ヘンリー父さんの他にアステルもいた。そういえば、二人はここのところよく話し合っている。なんか、忙しいみたいだ。
「お父様、今いいかな?」
「…………いつかの日を思い出してしまうな。なんだい?」
少し何かを考えた後に、緩く笑ったヘンリー父さんが答える。なかなか勘が鋭いでないの、と私もちょっと笑った。
ローズランドではないけれど、あの日と同じ、ヘンリー父さんの執務室。
そして私は、あの日と同じ内容を伝えるためにここへ来た。
「話があるのなら、俺は席を外していましょうか?」
「あ、待って。アステルにも聞いてほしい」
部屋を出ていこうとしたアステルを留める。ちょうどいいから、一緒に済ましておこう。
「単刀直入に言うね。ここを出ていきたいと思っています」
あの時は緊張に震えそうな声で言った台詞。
でも今は、自分でもおかしく思えるほどに落ち着いた声が出ている。
「どうしても?」
「うん。どうしても」
「……」
ヘンリー父さんはじっと私の顔を眺めた後、「決心は変わらないようだな……」と呟き、一つ息を吐いた。表情は変わらないのに寂しげに見える。……勝手でごめんなさい。
「――何を考えているんです?」
次はアステルか。ちょっと難儀だぞ。
苛ついている、とも取れそうな声を発した当人に顔を向けると、薄目になって怒気も露わな表情でこちらを見据えていた。ここまで怒りの感情を表に出しているなんて、またもや怖い笑顔の段階を通り越しているみたいだ。
でも相変わらず私の心は凪いでいる。
凄い、さっきから私、どうしちゃったの? 遂に何かを会得して、成長でもしてしまったんだろうか!?
などと自画自賛している場合ではない。
「エルネットへ行ってみたいなと思って。もちろん一人でね」
「それを俺が許可できるとでも思っているんですか?」
「簡単に許してもらえるとは思ってないけど……許可して?」
かわいく小首を傾げて言ってみる。
「駄目です」
にべもなく断られてしまった。
無垢な少女が一途にお願いしているのに、それが通じないなんて相変わらず頑固一徹だ。とはいえここで説得を成功させておかないと、話は前に進まない。
私は決心の言葉を紡ぐために、深く息を吸い込んだ。
「アステル、自分のせいで私がアージュアへ残ることになってしまったなんて、責任を感じなくてもいいんだよ? 私は帰ることもできたけど、自分の意志でここにいるんだから。そんなに心配してくれなくても大丈夫だって」
違う。アステルにだって分かっている。私のことを心配してくれるのは、責任なんかじゃない。アステルの心の底に、刻み込まれてしまっているんだ。
記憶を失ってもなお気にかけさせるほどに、いかに今まで私がアステルに気を配ってもらっていたかと思うと、情けないような申し訳ないような気持ちにもなってしまう。
アステルは結局、どこまでも私の保護者なんだろうな。
でも、いつまでもそれじゃお互いのためにならない。ふった相手のことなんて気にしないで、さっさと切り捨てなきゃいけない。
だから、責任という言葉で誤魔化されてほしい。
「アステルは覚えていないだろうけど、私は元々この家を出て独り立ちしたいって言ってたんだよ。あの時は反対されて有耶無耶になっちゃったけど、今回はもう認めてほしいな」
静寂の祭りの日と同じ。絶対に譲らないぞという表情のアステル。でも、やっぱり違う。喪ってしまった今だからこそよく解る。
あの時、その目に映していた私にどんな種類の気持ちを寄せてくれていたのかが。
今はただ心配だというだけで阻止しようとしている。そんな人には私だって譲らない。引き留められてなんかやらない。子離れの時だぞ、アステル。
「ちゃんと一人で生活できるように色々習ったし、一人旅が危ないって言うんなら大丈夫。ティア・ペリドットの守護を受けてるから」
早速頼らせてね、イヴ。
「ティア・ペリドットが? いつの間に?」
「子供の頃に知り合ったの。もう何度も助けてもらってるし、私の逃げ足はそりゃあ速いんだからさ。危ないことなんかないって」
そういえば、膝の上に乗せられ始めたのはあの時以降だったっけ。
アステルがこの先、私との思い出を蘇らせることがなくても、私はちゃんと覚えているよ。
「大体、これからは私のことを心配するんじゃなくて、お嫁さんになる人のことを考えなきゃ」
王太子がついている以上、多分ティナさんなんだろうな。
まだまだ胸が締めつけられて苦しかったりもするけどさ。切ない思いもたくさんしたけれど、そんな辛さよりもずっと、優しくて楽しい思い出の方が多かった。
「そんなんじゃ私も諦めきれなくて、嫌な小姑になってお嫁さんをいびっちゃうよ。私だってそんなことしてアステルに嫌われたくないし」
いつかきっと、このやり切れない気持ちも解放されて、なだらかに落ち着いていく。
あの時は辛かったって、笑い飛ばせる日が来るはずだ。
「だからさ、行かせて?」
「結婚については――」
「アステル、行かせてやりなさい」
ずっと何かを言いたそうにしていたアステルが口を開きかけたけれど、それをヘンリー父さんが遮った。
「しかし――」
「確かに桜は以前から自立したいと言っていた。その準備を自分で進めていたのも知っている。行動力のある子だ。例えここで反対したとしても、勝手に出ていってしまうだろう。だったらもう、ちゃんと送り出してやりなさい。お前が自分の意志に沿って進むと言うのであれば、桜の決意も汲んでやるべきだ」
アステルが反論をする前に、ヘンリー父さんが有無を言わさぬ口調で言う。それを聞いたアステルは渋面を作ってしばらくヘンリー父さんを見つめた後、やがてはきつくまぶたを閉じて、何かに耐えるような顔をした。
そして――。
「――分かりました」
押し殺したような、低い声を絞り出した。
それから出発の日までは、なるべくコンパクトに纏めるように工夫をしながら荷物の準備をしたり、お別れを言ったりと少し慌ただしかった。
エレーヌとソフィアは以前、家を出ると告げた時と同じように特別反対する様子もなく、一緒に準備を手伝ってくれた。グアルさんは突然私が家を出るということに面食らった後、かなり心配してくれたけれど、最終的には「頑張っておいで」という言葉をかけてくれた。
リディに話をしに行った時は、少し勇気が必要だった。
「どうしてそういうことになるんですの!!」と、噛みつかれそうな勢いで怒られてしまい、思わずごめんなさい、やっぱ止めますから勘弁してください、と前言を撤回しそうになるところだった。
更にはアステル並みに厄介なことに、絶対に認めないとまで言われてしまった。けれど、私のいじましくも涙ぐましい努力の結果、なんとか「落ち着いたら必ず手紙を書きなさい」というありがたいお言葉を獲得することに成功し、事なきを得たのだった。
出発の前日、ヘンリー父さんに少額硬貨の入った財布を沢山頂戴してしまった。これを、身体の各部に分けて隠し持っておきなさいと言うのだ。
なんか、修学旅行でおばさんに言われたことを思い出してしまう。お金なら自分で貯めた分があるからと遠慮しようとしたけれど、せめてこれくらいはさせてほしいという言葉に何も言えなくなってしまい、素直に感謝しておくことにした。
アステルはあれから気分を切り替えてしまったのか、普段と何ら変わることもなく、時にはこれからの助言までしてくれる。
今までこういう場合には心配しかされてこなかった身としては、態度の変化に新鮮さと、自分勝手なことに少しの寂しさという、なんとも複雑な気分を味わってしまった。
でもグラついてしまうから、引き留められるよりはマシなのかもしれない。
そしてとうとう出発の日。皆には、見送りは止めてほしいと頼んでいた。お別れはもう済ませてあるし、顔を見てしまうと後ろ髪引かれそうだしね。
今日も私の前途を祝福するかのごとき晴天だ。まあ、晴れる日を選んだんだけれど。
さあ、元気に行くぞ!
玄関を出た所で、進行方向に誰かが後ろを向いて立っていることに気付いた。背の高いその人は、私が近付いていくとゆっくりと振り向く。
そしてぎょっと身を引いた。
「――! 桜、その髪は!?」
だから見送りはいらないって言ったのに……。よりによってアステルに見られてしまうなんて……。
私は今、使い途が無いまま仕舞いっ放しにしていた、濃いめの青の、ふわふわもこもこのカツラ。変わった色のブロッコリーを乗っけてるような――
アフロカツラを装着しているのだ!
向こうの世界でもそれなりに奇抜だった。こちらの世界では存在自体があり得ない髪型なので、変な人が寄ってこないようにするにはいいかなと思ったのだ。
なんせ、かよわい娘の一人旅。こんな繊細そうな乙女が歩いていたら、どんな邪な考えを持ったよからぬ人物が近付いてくるとも知れない。でもこの素っ頓狂な格好だったら、そういう教育上宜しからぬトラブルも、避けられるかもしれないと考えたわけだ。
世の中、いつ何が役に立つか分からないもんだ。なんでも捨てずに取っておくものだよなあ。尤も、こっちが怪人物扱いされて、善良な一般市民にまで避けられそうだけれど……。
まあ、そういった人たちにはこちらから話しかけて、私の純真なる人柄を解ってもらおうか、と都合のいいことを考えている。
でも、なるべくなら知り合いや家族には見られたくなかったな……。ましてやアステルになんて特に。もう見られてしまったものは仕方ないんだけどさ。私は内心でひとしきり愚痴をこぼしておいた。
多分、ここは感動のお別れ場面になるはずだったのだ。それがアフロカツラ一つで、なんとも締まらない光景になってしまった。凄い破壊力だな、このカツラ。とりあえずは開き直っておこう。
アステルの質問はスルーだ。
「じゃあ、行ってくるね」
私は状況を、無理矢理軌道修正することにした。
アステルはカツラに目を奪われつつも、結局はその存在を無視することに決めたらしい。
「気をつけて行ってきてください。野宿はなるべくせず、日暮れまでに街道沿いの宿に辿りつくようにしてくださいね。それから決して無理はしないように。定期的に休憩を取りながら進んでいってください。そして――」
「ストーップ! 今までに散々聞いたから大丈夫だって! 街に着いたら地図の情報を確かめなさいって言うんでしょ? 他の注意もちゃんと覚えてるからさ」
「……こんな時に、気の利いた言葉一つ贈ることができなくてすみません」
苦笑しながらアステルが言った。
柔らかなゴールドの髪、いつも優しい眼差しで見守ってくれていた、天の高みを切り抜いたかのような深く青い目。
――これでもう見納め。
「いいよ、最後に会えて嬉しかった。見送りありがとう。元気でね!」
これ以上話していたら未練が募りそうだ。私はアステルの横を通り過ぎ、輝かしき未来へと続く道への第一歩を、勢いよく踏み出した。
と思ったら、途端に後ろから手を引かれてつんのめってしまった。
なんなんだ、危うくズッコケてしまうところだったじゃないか!
恨みがましさを込めて振り向く。当の本人は、自分の行動が信じられないといった面持ちで自らの手を見つめ、「すみません」と謝りながら掴んでいた手を放した。
「――? じゃあね?」
気勢を削がれてしまった……。
私は気を取り直すと再びさよならを告げて、今度こそ歩き出した。
もう後ろは振り返らない。
お別れをした時に、ヘンリー父さんがかけてくれた言葉を思い出す。
「私たちは家族だ。どこにいても、お前の無事と幸せを祈っているよ。辛くなったらいつでもここへ帰っておいで」
子供の頃に突然喚ばれてしまった見知らぬ世界。
そんな所でも優しい人たちに囲まれ、愛情をもらいながら育つことができた。帰ってくるのを待ってくれる『家族』や『家』に恵まれるなんて、私はとても幸福な人間なんだと思う。
そして誰よりも、何よりも大切な存在を見つけた。残念ながら実らずに終わってしまったけれど、一時だけでも感じられたあの至福感は、今でもこの胸を包み込むように温めてくれている。
それはこの先、私を明るく導く、大きな灯火になってくれるんだろう。
大丈夫、どこでだって元気に生きていける。
私にはちゃんと、帰る場所があるのだから。