帰る場所 4
その日は何日か降り続いていた雨も止み、爽やかによく晴れていた。今の季節らしく太陽の光が燦々と降り注ぐ外は暑く、熱線の届かない室内は涼しいという過ごしやすく気持ちのいい一日で、もうそろそろ日も沈んでしまおうかと思っているんだろうな、という刻限だった。
私は晩ご飯を食べ終え、大いに満足したお腹をさすりながらヘンリー父さんの執務室へ向かった。アステルとヘンリー父さんは用事があるとかで夕食の席には現れず、まだ終わらないのかな、と様子を見にいったのだ。
目的の場所へ着くと、ちょうど使用人さんが扉を開けて廊下へ出てきたところだった。
使用人さんは私がこの部屋に用があると判断したらしく、一礼した後に閉めかけた扉を再び開けて、どうぞと手振りで示してくれる。
私もありがとうという意味を込めて一礼し、扉に近付いた。そこで、ヘンリー父さんの声が聞こえてきた。アステルと何か会話しているみたいだ。
何を話しているんだろう?
行儀悪いかな、と思いながらもなんとはなしに耳をそばだててみると、とんでもない内容が飛び込んできた。
「アステル、ハーストン家から結婚を打診されている件だが……」
「結婚ってどういうこと!?」
思わず大声を出して会話に割り込んでしまった。
アステルとヘンリー父さん、虚を突かれたといった風な二組の目が私に向けられる。
でもそれも一瞬のことで、アステルは落ち着いた口調で私の質問に答えた。
「どういうことと言われましても……。言葉通りの意味ですよ?」
「ティナさんと結婚するの?」
「桜、そういうわけでは――」
「ティナと、かどうかは分かりませんが、候補は幾つかあります。俺ももうとうに身を固めなければならない歳ですから」
ヘンリー父さんが何か言いかけていたけれど、それを遮るように断じるアステルの言葉しか耳に入らなかった。
結婚なんて、今までそんなことは全然言っていなかったのに……。
そこまで思ってハッとした。多分、これまでは私の耳に入らないように注意してくれていたんだ。気にしないようにって。
でも今のアステルにそんなことは関係ない。
私は、縋る思いでアステルを見つめた。
「本当に? 本当に誰かと結婚しちゃうの?」
信じたくない。結婚なんてされてしまったら、もしいつかアステルの記憶が蘇ったとしても、もうどうしようもなくなってしまう。
それなのに、アステルは優雅な声で、厳しい現実を耳へ流し込もうとする。
「桜……、俺は貴女に大切な家族として親愛の情は感じていますし、何故か必要以上に心配もさせられてしまいます。ですがそれ以上の感情は持てません。それに俺はこの家の跡取りとして家を繋いでいく義務があります。そのために有力な家と婚姻関係を結ぶことは、俺の意志です。以前にも言いましたよね。桜の気持ちは嬉しいんですが――応えることはできません」
キッパリずっぱり、理路整然と述べられてしまった。目の前、漆黒の闇状態。
嘘だ。嘘だ。こんなの大嘘だ。
心は否定したがっているのに、頭は凍った湖面のような冷静さでこの残酷な事態を受け止めている。今って多分、これ以上ないくらいにフラれている状態だ。
でも、アステルは前に私のことを好きだって言ってくれたじゃない。認めたくないよ。
アステルの意志。これは私だけじゃなく、ヘンリー父さんにも向けられた言葉だと思う。ホープに望みを述べたことを語ってくれた際に、アステルは同じようなことを話していた。政略結婚をするのが当たり前だって。
私を好きだと告げてくれた時は、願ったことはただのきっかけに過ぎないと言っていた。でも今は、ホープに出会った事実すら覚えていないわけで。
頭の中で、マイクで補強したみたいにワンワンと言葉が響いている。アステルが、私を否定する言葉。
以前のアステルと今のアステル?
それって何?
何が違うっていうの?
無意識に、かぶりを振った。
――いや。諦めたくない。
こんな、ただ記憶が無いというだけで、大好きな人が他の女の人の元へ行ってしまうだなんて!
グラリとよろけそうになる身体をなんとか踏みとどまらせ、何か言い募ろうと、言葉を探して視線を彷徨わせた。
まず目に入ってきたのは開け放たれた窓。これを見て、もういい加減に閉めないと虫が入ってきちゃうんじゃないの? とか全然関係ないことを考える。
次は心配そうに私を見るヘンリー父さん。なんでそんな顔をしているの?
そして視線を降ろした先の目に留まったのは、机の上に置いてある、とぼけた顔の鳥。私が買った置物だ。ヘンリー父さん、わざわざこっちへも持ってきてくれたんだ。
胸が、どんどん苦しくなっていく。
想いは溢れかえっているのに、それがどうしても単語にならない。言うべきことは沢山あるはずなのに、何も言葉が浮かんでこなかった。
もういっそ、泣き叫んでしまおうか? 手がつけられないほど暴れて、滅茶苦茶にわめき立てれば私の気持ちが伝わるんじゃないか?
胸の中で、抑えようのない狂った固まりがはしゃぎ回り、そして勝手気ままに感情を煽り立てる。私は操られたように凶暴な気分へ駆り立てられ、奥歯を噛み締めた。
この世界へ喚びつけたのはアステルじゃないか! 腰の横で、両手を強く握り締める。
忘れたからって、無責任に放り捨てるような真似はさせない!
でも平衡を乱すその醜い歪みを、受けてきた教育という網が包み込んでしまった。
『貴婦人はどのような場合でも、人前で感情露わに取り乱し、他人を悪し様に罵ってはなりません』
突然割り込んできて私の胸に釘を刺す、マナーの先生の言葉。
――うるさい! 貴婦人なんかじゃない。普通の一般市民だ。
理性の忠告を否定した後、最後にアステルへと視線を留めた。
視界にあるのは、心苦しそうな顔。――意外……。もっと、平然とした顔をしているのかと思っていたのに。
胸に刺さったままの釘から、疼きが起こった。
アステルの身になってみれば、いつまでも甘えて我が儘を言うなって怒り出してもいいくらいだ。それなのに、こんな時でも優しい。私を傷つけたと思って案じてくれている。
私、二人を困らせている? アステルにもヘンリー父さんにもそんな表情をしてもらいたいわけじゃないのに。いつもみたいな柔らかい笑顔が見たいのに。
そこまで思って、さすがにこんな場面で笑顔は無理かと自嘲した。
一瞬、ほんの刹那だけ、さっき考えたようにこのまま駄々をこね続けていたら、何か状況が変わるんじゃないかと。そう自分勝手な期待を抱いてしまった。なんだかんだでアステルは私に甘い。
でもアステルの目。深く青いその色を覗いたら、そんな考えは叩き伏せられてしまった。
表情とは違って、全然揺らいでいない。
まるで、海底の厳しい自然。ルールを弁えてさえいれば誰でも寛大に受け入れる。でも必要以上に踏み込もうとすると、留まることさえ許されない。
これ以上しつこくすれば、私は嫌悪の対象になってしまう。例えそこまでいかなくても、忌避されてしまうかもしれない。
せめて、嫌われたくはない……。
急速に頭が冷えていった。絡め取られた狂気がみるみる萎んでいく。
ごめん、嘘吐いた。
アステルに、というより私自身に対して律儀に謝った。捨てられるとか、アステルのせいで喚びつけられただなんて全然思ってない。
ただ記憶が無いだけ。でもそれは、こんなにも影響色濃く人の感情を左右してしまうんだ。これ以上食い下がったって、アステルの考え方は変わらない。
ギブアップ、ゲームオーバー。
諦めるしかない、か。
「――分かった。……困らせてごめんね」
取り戻した矜持が笑った顔を作った。そしてなるべく明るい声を出した。
例の胡散臭い笑顔。これ、本当に役立つな。教育を施してくれたヘンリー父さんに感謝。
涙は見せない。ただでさえ憂慮させているんだもの、絶対に泣くもんか。女の意地ってやつだ。