帰る場所 2
「それで、一体何がどうなっておりますの?」
部屋に着くまで終始無言だったリディは、扉を閉めるなり掴みかかりそうな勢いで詰め寄ってきた。
「近い、近いってリディ。ちょっと落ち着いてよ」
少し興奮気味なリディを宥めておく。
ちなみにリディの部屋は、アステルの部屋よりも華やかな色合いで装飾品も多く、女の子の部屋だなって感じがする。質のよい拵えなのは、変わらないんだけれどね。
「なんかね、アステルに忘れられちゃったみたい」
「どうして!?」
「さあ、どうしてなんだろうねえ? それよりリディ、着替え貸して?」
ホープの記憶操作については、誰にも教えずばっくれることにした。
でも黙っているのも妙に気が咎める感じがするので、これ以上深く突っ込まれないように服の催促をしておく。
リディは暫しの間私をじっと見詰めた後、そんな私の気持ちを察してくれたのか何も言わずに踵を返し、着替えを取りにいってくれた。
貸してくれたのは、薄い桃色のワンピース。
私に手渡しながら、リディが口を開く。
「桜はお兄様のことが好きなんですの?」
うわあ、直球だよ。ズバリと訊かれてしまった。
でも不思議と狼狽えるような感情は湧いてこず、服を受け取りながら素直に頷いておいた。
「でもね、さっきも言ったけど忘れられちゃったんだよ。気持ちは受け取れないって拒否されたし……」
あのことを口に出すのは辛い。はっきり言うことができず、語尾が消え入りそうになってしまった。なんだかイヴを思い出してしまう。
エメラルドの目を見開いて驚愕! といった表情を浮かべているリディになんとなく笑いかけ、私は身につけた物を脱ぎ始めた。
アステルの香りが残るシャツを脱ぐと、いやに寒々しく、覚束ないような気分になる。
驚きから覚め、そんな私の様子をじっと見ていたリディが突然ポツリと言葉を落とした。
「――桜……、私もね、小さい頃からお兄様のことが大好きなんですのよ」
それはもう、森羅万象三千世界の大真理。犬が西向きゃ尾は東、のごとくに理解している。
今さら何言っているの? と思いながらも着替えに袖を通しつつ、相づちを打った。
「だからずっとお兄様と結婚するんだと決めていましたの」
その気持ちは解るよ。実は私も、小さい頃は蒼兄ちゃんのお嫁さんになるんだって思っていたのだ。
「でも兄妹で結婚はできないと知って……」
ショックだったんだろうなあ。
ちなみに私の場合、実の兄妹ではないとはいえそれを知る前に、蒼兄ちゃんから苛めという名の愛情表現を受けるようになり、滞りなく夢から覚めることができた。
アステルは優しいし、最高のお兄ちゃんだったんだろうな、と推測できる。私は幼いリディの心境を慮って、内心で労っておいた。
「それだったらせめて、私の大好きな幼馴染みとお兄様が結婚すればいいと思いましたの」
「それってティナさんのこと?」
「ええ。ティナだったら祝福できますもの」
ううむ、リディも王太子と同じように思っていたのか。
でもちょっと、それをリディの口から聞いてしまうと……。なんというか……。
胸に去来する、寄る辺ない孤独感のようなものを努めて気にしないようにしながら、服のボタンを留めてもらうため、リディに背を向けた。このワンピースは首回りが高い作りになっていて、そこから背中まで並んだボタンを留める作りになっているのだ。
リディは特に何も言わないけれど、もしかしたら私の首にある痕を隠すために、このデザインを選んでくれたのかもしれない。
「あなたが初めて城へやって来た時、腹が立ちましたわ。私が認めたのはティナだけでしたのに、当然のようにお兄様の隣にいるんですもの」
リディがボタンを留めてくれながら不穏な言葉を続ける。もしかしたらこのまま首を絞められるんじゃないかと、私の心中は穏やかではなかった。
「でも、あなたといらっしゃる時のお兄様は……。私が見たこともないほど幸せそうで――」
できましたわ、と途中で言葉を切って、リディが私の背中をポンと叩く。
私はありがとうとお礼を言った。
しかしどうでもいいけれどこの服……。胸は余っているし、袖は長いし、ウエストはちょっとキツイし、裾は長いしで、やけに挫折感を味合わせてくれる。ソフィアに服をもらった時の虚しい気分が再発してしまった。
私が叩きのめされている間にも、リディは話を続けていく。
「だからお兄様がお望みになるなら、相手があなたでもいいかと思い始めていたんですのよ」
え? と思ってリディを見ると、意外な程思いやりを込めた眼差しで微笑んでいた。
予想外の言葉だ。まさかリディが私を認めてくれているなんて思いもよらなかった。
凄く嬉しい。
王太子に邪魔者扱いされてから、周囲は皆私のことをアステルには似つかわしくないと思っているだろうな、という、ひどく卑屈な気分にさせられていたのだ。
でも――。
「リディがそんな風に言ってくれるなんてビックリしたよ。すっごくありがたいんだけど……今のアステルは私のことなんてなんとも思ってないよ」
自分で言っていてグサグサくる。気持ちは受け取れないと告げられてしまったんだもの。いくらリディが認めてくれていても、本人の感情が伴っていないのならどうしようもない。
ほんと、へこむなあ……。
けれど、リディは私の言葉にかぶりを振る。
「――そうは思いませんわ」
なんで?
「さっきのお兄様、いつもと変わらずあなたの心配をしていらっしゃいましたもの。あれで記憶が無いだなんて、説明されなければ分かりませんわ」
「あれは確かに私も驚いたんだけど、でもさ――」
「――それに」
否定しようとした言葉を遮られてしまった。
「それに、カツラのこと、気付いておりまして?」
「なんのこと?」
「あのカツラを見た人は大抵驚くでしょう? これで髪の色を変えるのかって」
あっ!
確かにそうだ。あの時アステルは、これは私の物かって訊いて普通に手渡してくれたんだ。それがあんまり普段通りで自然だったから、逆に不自然なことだとは思い当たらなかった。
「あなたのことを忘れていらっしゃるのかもしれませんけれど、無意識にちゃんと憶えておいでの部分もあるんですわ。このままあなたが諦めてしまったら、いつかお兄様が思い出された時に後悔してしまいます。だから、お兄様のためにも……くじけないで」
くじけるなってその言葉、昔イヴにも言われたことがある。イヴも同じような意味で言ってくれたんだろうか?
ホープが話していた。記憶は何かをきっかけに蘇るものだって。そういえば、私もペンダントを眺めていてホープを思い出しそうになったことがあったんだ。あの時はまだ条件を満たしていないから、とホープに封じ直されてしまったけれど、多分アステルにはそういう制限はないんだと思う。
――もしかしたらまた、思い出してもらえるのかもしれない。
「分かったよリディ。私、頑張ってみる!」
人間……というか、私って単純だ。さっきまでは鬱々と、萎れた植物に水分を分けてあげたいほどに湿っぽく落ち込んでいたのに、ちょっと希望が見えてきただけで浮かび上がってしまった。自分でも馬鹿みたいに、未来が明るく開けているように感じられる。
「励ましてくれてありがとう、リディ」
こんな風に上向きになれたのはリディが力づけてくれたおかげだ。感謝のキスを贈ってもいいくらいだぞ。リディには嫌がられるだろうけれど。
「勘違いしないでいただきたいんですけれど……。あくまでお兄様のためですわ。あなたのためというわけではないんですのよ」
プイッとそっぽを向かれてしまった。こういう反応を目にすると、リディだな、と思わず笑ってしまう。それを横目で見たリディに、なんですの? と凄まれてしまった。
本当にありがとう、リディ。
「それでは着替えも終わりましたし、馬車の所まで行きましょうか。多分もう待っていると思いますわ」
「うん」
私は笑顔で返事をし、送ってくれるというリディと一緒に、外へ向かうことにした。
――スッと湧いて出てきた疑問。
ホープが、私に関するアステルの記憶を封じてしまった理由。
子供の頃の私は、ただ意地悪なだけだと思っていた。けれど、本当にそれだけなんだろうか?
ホープは、真朱を助けてもらった恩に報いるために、アステルの望みを叶えたいと言っていた。短い時間しか接していないけれど、ホープがどんなに家族と呼ぶ魔物たちのことを愛しているかは、そりゃあもう、嫌というほど身を以て思い知らされた。
それなのに、わざわざその望みを実現させておいて無効にするという、恩を仇で返すような真似をするものなんだろうか?
私が元の世界へ帰りやすいようにとか言っていたけれど、なんとなくそれだけじゃ根拠が薄いような気がする。
私の記憶を封じていたのは、あの時ホープが言っていたように、打算のない状態でアステルのことを好きになるようにさせたかったんじゃないかって思う。
そうじゃないと、私だってアステルのいるこの世界に残りたいだなんて、ここまで混じり気なく、強く想うなんてできなかったかもしれない。や、どうなっていたかは分からないんだけどさ。
でもそうやって私をこの世界に残すように仕向ける一方で、アステルの記憶を消してしまって、私にアージュアへ残るのを諦めさせようとする。
なんだか矛盾していないか?
まあ、これは考え過ぎで、嫌がらせってことも充分考えられるんだけれど……。
なんとなく、気になった。
私がこの世界に残ると決心したこと。これはヘンリー父さんに伝えておかなきゃいけない。
今までは帰る方法が分からなかったのだ。行く当てのない状況で置いてもらうのと、自らここにいたい、という意志があって住まわせてもらうのでは、やっぱり違うと思う。ちゃんと、当主であるヘンリー父さんの許可を頂かねばと思ったのだ。
部屋でお茶を飲みつつ寛いでいるヘンリー父さんを捕まえ、その旨を打ち明けた。
「お父様、私ね、向こうの世界へ帰れるようになったの。でもこっちへ残りたいんだけど、いいかな?」
ヘンリー父さんは飲んでいたお茶を吹き出しはしなかったけれど、意表を突かれた、という感じで目をパチクリさせた。それでもカップをテーブルに置いた後は、目元を和ませてにこやかに笑いかけてくれた。
破顔一笑ってやつだ。
その笑顔を見た瞬間、身体の中から力が抜けていくのが分かった。
これって初めてヘンリー父さんと対面した時に似ている。あの時も、受け入れてもらえるかどうかが不安だった。
「もちろんだ。お前が本当の娘になってくれるという意味なんだろう? 向こうのご家族には申し訳ないが、願ってもないことだよ。――だが、本当にいいのかね?」
「うん。私ね、アステルのことが好きになっちゃったの。これも許してもらえるかな、と思って」
ヘンリー父さんは以前、ローズランドで私たちの関係を後押しするような発言をしていた。だから駄目だと言われることはないだろうと思うんだけれど、ちゃんといいよって許可の言葉が欲しい。リディのように味方になってもらいたい、と虫がいいことを考えてしまう。
「許すも許さないもないな。息子を好きになってくれてありがとう。あの子も喜んだのではないのかな?」
ヘンリー父さんはより一層笑みを深め、優しい声音で言葉を投げかけてくれた。
でもこれを聞いて、ツキンと胸が痛くなってしまった。
確かに喜んでくれたんだけれど、その代わり――。
「うん……。でもね、そのせいでアステルは私のことを忘れてしまったの」
「……」
自分にとって悲しい内容を口に出す時は、どうしても声が震えたり、じわりときそうになってしまう。でも今回の被害者は、どちらかというと記憶を封じられたアステルの方で、私は原因に当たる方なのだ。諸悪の根源はホープなんだけどね。
だからこの件に関して私が泣いてしまうのは、なんだか厚かましいような気がする。
というわけで私はパチパチと瞬きし、悲壮なる決意を以て、零れそうになるものを押し止めた。
そして私は、ヘンリー父さんに事情を訊かれるのを覚悟していた。というより、本当は訊いて欲しかったから、質問を促すような答え方をしたのかもしれない。
アステルが私を忘れてしまった原因。誰にも話さないと決めたつもりだったのに、なんとなくヘンリー父さんには打ち明けてしまいたくなったのだ。これはきっと私の意志が弱いせいじゃなくて、ヘンリー父さんの泰然とした雰囲気がそうさせたんだと信じたい。
でも予想に反して、ヘンリー父さんは詳しい事情を何も訊いてこようとしなかった。
「大丈夫だよ。あの子はお前をとても大事に思っている。それなのに、いつまでも悲しませるような真似はしないさ。忘れたままなんかでいるはずがないだろう?」
うう、もう! ヘンリー父さんはわざわざ私を泣かせたいんじゃないのか? そんな労りに満ちた言葉をかけられてしまうと、せっかく作った涙対策用の強固な堤防が、決壊してしまうじゃないか!
結局、すんでの所でせき止められていた涙が怒濤の勢いで押し寄せてしまい、ぐしぐしとひくつく私を、ヘンリー父さんは慰める羽目になってしまったのだった。




