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空を映す海の色  作者: せおりめ
第2章
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帰る場所 1

 突然両肩を掴まれ、抱きついていた胸からベリッと引き剥がされた。

 くそうっ、あわよくばこのまま既成事実を作ってしまえっ! とか思っていたのに。

 仰ぎ見ると、そこには困惑したようなアステルの顔がある。深く青い目に映るのは、見知らぬ誰かといった風情だ。さっきまで目の中に宿っていた熱さだとか、くるみ込んでくれるような気配は霧散してしまっていた。

 分かっていたこととはいえ、簡単には拭えそうにないほどのショックを受けた。

 ――実際目の当たりにすると……かなりへこむな、これは。


「……? 貴女は一体……。天海の彩!?」


 私が天海の彩だと認識した途端、アステルが咄嗟に礼を取ろうとする。


「ちょ、ちょっと待って! ユヴェーレンじゃないから!」


 慌てて手振りで押し留めた。


「しかし、貴女はティア・ダイヤモンドでは?」

「え? もしかして、ティア・ダイヤモンドに会ったことも忘れてるの?」

「忘れている……?」


 ホープは私の存在だけじゃなくて、自分と出会った過去についてもアステルの記憶を封じているんだ……。

 とりあえず私は、アステルに忘れられていることで胸に迫ってくる鷲掴みにされるような感情と、ホープに対する憤懣やるかたない気持ちをひとまずどこかへ追いやって、アステルに事情を説明することにした。

 私が子供の頃、ホープに間違って喚ばれてしまい、別の世界から訪れたこと。それから、グレアム家で家族の一員として過ごしてきたこと。他にも色々。

 アステルは時に質問を差し挟み、時に怪訝そうな視線を寄越しながらも、真剣に私の話を聞いてくれた。

 ただし私は、ホープが記憶を封じてしまったという事実については告げなかった。自分の記憶が誰かに操作されたなんていい気持ちはしないだろうし、私が原因の一端を担っているということが、なんとも後ろめたくあったのだ。

 それからアステルがホープに願ったことや、私を好きになってくれたということについても言わなかった。というよりは、言えなかった。

 個人の好き嫌いは、人に説明されて腑に落ちるものでもないだろう。それにその事実を伝えたとして、そんな馬鹿なとアステルに否定されるのが怖かった。


 アステルは私の説明を聞き終えると、一つ息を吐いた。

 私たちは今、低いテーブルを挟んで向かい合ったソファにそれぞれ腰掛けている。

 間に出来た距離が、今の私たちの状態を表しているような気がした。


「――にわかには信じ難い話ですが、実際に天海の彩である貴女が目の前にいるという事実を考えると、出鱈目だと断じることはできませんね」


 私が嘘を吐いているとまでは思ってなさそうだけれど、今イチ信用し切れてはないみたいだ。結構疑り深いな。

 でも当たり前か……。アステルにとっては、見知らぬも同然な女――自分で考えといて傷つく!――が、突然自分のシャツを着て目の前に現れて、突飛な話をし出したのだ。おいそれと信じられないのも、無理はないんだろうな。

 前の時はホープに願い事をしたという記憶があったし、印璽付きという、身元確かな手紙でちゃんと説明されていたんだしね。


「私がこの世界へ来て四年が経つけど、アステルはこの四年間の記憶がないわけじゃないんでしょ?」


 ちょっと疑問なのだ。アステルの中で、私に関する部分の記憶はどう認識されているんだろう?


「ええ、ちゃんとありますよ。生活や仕事内容、遭った出来事なども覚えていますし、ローズランドへ帰った記憶もあります。ただ、そこに貴女がいたかどうかは……」

「じゃあ去年の静寂の祭りは覚えてる?」

「はい、覚えています」

「何して過ごしてた?」


 少し緊張してアステルの返答を待った。あの日私は、天地がひっくり返るほど混乱させられたのだ。あの時あった出来事は、今のアステルにはどう処理されているんだろう?

 アステルは思い出すように虚空を眺めた後、それが確かな事実だ、という調子で告げた。


「確か終日、本を読んでいたと思いますが」


 書き換えられている!

 残酷なアステルの答えに、周りの全てが希薄に感じるほど打ちのめされてしまった。

 ――私は今、本当に存在している……?

 何かで聞いたことがある。人間は、自分の都合のいいように記憶を改竄するのだと。アステルは、抜け落ちた私に関する事柄を別の物事で埋め、記憶の整合性を保っているんだ。

 そこに私の思い出なんて、入り込む余地もない……。

 頭のどこかで、金物を打ちつけているみたいにガンガンうるさい音がしている。

 こんなの嘘だ。現実じゃないんだと思いたいのに、その痛みを伴うほどの不快な響きが、これは今実際に起こっていることなんだと強引に突きつけてくる。

 ここまできて、ようやく実感を持ってしまった。

 どうしよう、私、本当に忘れられているんだ……。

 ガガンとショックを受けて、茫然自失状態の私に、遠慮がちな声が話しかけてくる。


「――貴女は、別の世界から来たと言っていましたが……」

「何?」


 半ば、上の空で返事をした。


「元の世界へ帰る方法はないんですか?」

「あるよ。私もさっきまで忘れてたけど、思い出したの」


 何か嫌な予感がする。今からアステルが口に出す言葉を聞きたくない、と思いながら答えた。


「では、帰りたいとは思わないんですか?」


 抉られた! 今私、ザックリ抉られた!

 記憶がないから仕方がないとはいえ、あんまりじゃない? つい、アステルに向ける目つきが鋭くなる。


「何それ。帰れって言いたいの?」


 声はドスがきいたように低くなってしまった。乙女心に深く傷がついてしまったぞ?

 情けないことに、我ながら、とても好きな人に向ける態度とは思えない。

 アステルが、気まずそうに目を伏せた。


「いえ、そういうわけではありませんが……。貴女にも、元の世界で家族や大切な人が待っているんではないかと思ったので――」

「そりゃ、会いたいよ。今でも家族に会いたいよ。でも、もっと大切な人ができちゃったんだもの。なんでアステルがそんなことを言うわけ!?」


 言い繕うアステルの言葉を聞きたくなくて、言葉を途中で遮ってしまった。

 こんな不躾な疑問、以前のアステルなら決して口に出さなかったはずだ。


「どうして俺が……とは?」


 アステルが目元に疑問を乗せ、しっかりと私に視線を合わせる。

 現状を突きつけてくるその眼差しが本当に嫌で、思わず立ち上がりながら言い募った。


「ちゃんと思い出してよ! 私が帰りたくない理由っていうのは、大切な人っていうのは――」

「それ以上は言わないでください。以前の俺が貴女にどんな感情を抱いていたのかは知りませんが……。今の俺には受け取れません」


 今度は私の方が最後まで言わせてもらえなかった。アステルは決まり悪げに告げた後、すみませんと呟いた。

 ううう、予想通り、バッサリ切られてしまったのだ。

 焦りすぎた。なんか私、勢いに任せて言って、後悔することばっかりだ。

 いやに重苦しい空気が流れている。返す言葉もなく突っ立っていると、扉をノックする音が聞こえた。


「お兄様、いらっしゃいますか?」


 リディだ!

 アステルが「どうぞ」と答えると、リディが扉を開けて中へ入ってきた。

 リディは私を見て、ホッと安堵の表情を浮かべている。


「よかった。桜もこちらにいらっしゃったんですのね。一度迷路の庭へも探しにいったんですのよ」


 そうだったのか。色々なことが起こりすぎて、リディを気にする余裕が全然なかった。

 私はリディにごめんね、と謝っておいた。

 私たちのやり取りを眺めて、アステルがリディに不思議そうに尋ねる。


「……リディは桜のことを知っているんですか?」


 そうすると、これまた不思議そうにリディが答えた。


「……? 何を言っていらっしゃいますの、お兄様?」

「いえ……、なんでもありません」


 リディの返答を聞いたアステルは、とりあえずは何かに納得したという素振り。

 私はそんな二人の様子を苦い思いで見つめていた。

 私のことを忘れているアステルが、私について誰かに問いかける情景なんて辛すぎる。もっと思い知らされてしまうじゃないか。


「リディ、私もう帰りたいんだけど、着替えとか貸してもらえないかな?」


 この状況を打破するため、咄嗟に口を突いた言葉だったものの、実際に今の格好で帰るわけにはいかない。リディの服じゃサイズは合わないだろうけれど、男物のシャツ姿よりはよっぽどマシだろうしな。


「それはいいのですけれど…………。分かりましたわ、私の部屋にいらっしゃいな」


 いつものリディだったら、多分私がアステルの服を着ているという事実に、おどろおどろしく怒気を漲らせているんじゃないだろうか。もちろん、可憐な笑顔を装備して。

 でも今回はいつもと違う空気を感じ取っているのか、物言いたげな雰囲気を漂わせながらも、余計な質問を挟まず了承してくれた。


「それじゃアステル、先に帰ってるね」


 多分、リディの言葉と態度で私がグレアム家で暮らしているっていうことは、アステルに分かってもらえたんだと思う。だからその確認を取る意味もあって、そう声をかけた。


「……桜はどうやって帰るつもりなんですか?」


 ふと、という感じでアステルが訊いてくる。


「どうやって? 移動手段って意味? 馬で来たけど?」

「リディも一緒に帰るんですか?」


 今度はリディに訊いている。


「いいえ、私はもう少し用事が残っておりますのでまだ帰れませんわ」


 なんだかやけにいつも通り流れている会話だなと思っていると――。


「では、桜は馬車で帰ってください。危ないですから」


 いつも通りな台詞が飛び出してきたので、一瞬ポカンとしてしまった。

 だって、なんだそりゃ?


「――アステル、本当に私のことは覚えてないんだよね?」


 この言葉を聞いてリディが何か言いたげにしていたけれど、目線を以て、後で説明するから今は黙ってて、と訴えた。そうしたら、リディは開きかけた口を閉じてくれた。

 なんか、リディと目で会話するのが当たり前になっているような気がしてきた。

 私の質問に、アステルが頷く。


「はい、残念ながら」

「私、馬に乗れるんだけど……。別に一人で帰れるよ?」

「駄目です、そろそろ日も傾いてきていますから。手配はこちらでしておきます。いいですね?」


 有無を言わさぬ調子で確認されて、思わずはいと返事してしまう。まさか今のアステルにまで、心配されてしまうとは思わなかった。

 さっきザックリ抉られたばかりだというのに、なんでこんないつものような展開になってしまうんだろう? 平常通りすぎて、逆に違和感を持ってしまうじゃないか。これで記憶が無いというのだから、どうにも首を傾げてしまうのを抑えられない。


「それから、これは桜の物ですか?」


 ぶつぶつ考え込んでいると、立ち上がったアステルにカツラを差し出された。これの存在もすっかり忘れていたのだ。ありがとうと言って受け取っておいた。


「それではお兄様、失礼いたします。桜、行きましょうか」

「うん。じゃあね、アステル」

「気をつけて」


 三人でそれぞれお別れの言葉を告げ合って、私とリディは部屋から出たのだった。


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