喚びし者 其は高輝なる 3
「そうそう。記憶と言えば、今まで話したことについて、あなたにも全て忘れてもらうわ」
「え、なんで私の記憶まで?」
「あらだって、このままだとあなたは、帰るために公爵家の息子を無理矢理好きになってしまいそうだもの。人を好きになるって打算じゃないでしょう?」
この言葉には目が点になってしまった。
そして腸が煮えくりかえってくる。怒髪天だ!
「よくもまあぬけぬけと! 結局、ホープに弄ばれているだけじゃないか!!」
「まあ、酷いことを言うのね。そんなわけないじゃない」
ねえ? とわざとらしく、ホープは素知らぬ顔で鬱金の方を見た。
同意を求められた鬱金は、ホープを苛めるなら只じゃおかん! という勢いで私を睨み、唸っている。
いや、苛められているのは私の方でしょうが。理不尽な状況を嘆きつつも鬱金に目で訴えながら、食べられたら嫌なので後ずさっておいた。
も、もう駄目だ。腹が立ちすぎて、突き抜けてしまった。自分から怒りという空気がプシュー、と音を立てて抜け出ているような気がする。
私はすっかり脱力してしまった。
「続けていいかしら?」
もう勝手にして。
応える元気もなく肩を落としていると、それを了解の合図だと都合よく解釈したホープが、さっさと話を進めていく。
「あなたがここで見聞きした一切の記憶は封じさせてもらうけれど、ある条件を満たした時、それも解除するわ」
「一つは、私に大切な人ができた場合ってこと?」
「ええ、その通り。これについてはさっきから話している通りだから、説明の必要はないわね。後もう一つ条件があるの。それは、あなたがあらゆる要因で死を迎える瞬間」
「死ぬ時?」
やけに不吉なことを言ってくれる。
「そうよ。あなたに大切な人ができるとしても、一日や二日じゃきかないでしょう? 年単位で考えた方がいいわ。その間に、もしかしたら事故に遭うかもしれないし、病気になるかもしれない。そうやって死が差し迫った瞬間――その時に迎えにいくわ」
まるで死のお迎えのようだ。駄目だ……。ホープが、まるで冥界から来た闇の使者、死神に見えてきた。
私は頭に浮かんできた不吉な想像を、頭をブンブンと横に激しく振って、急いで否定した。
違う違う。間違えちゃいけない。この子は死神じゃなくて悪魔だよ、悪魔。
「私が、死んでしまう前に来てくれるってこと?」
「そう。さすがにこの世界であなたを死なせてしまうのは可哀想だしね。そして、いずれの条件を満たした場合でも、あなたが元の世界へ戻った時は、この世界のことは全て忘れてもらう」
「せっかく思い出したのに忘れなきゃいけないの?」
「アージュアへそのまま留まるようなら別だけれど、元の世界へ戻った時に、ここでの記憶なんて邪魔なだけでしょう?」
「でもさ、それだったら死ぬ前に記憶を戻すなんてこと、わざわざする必要はないんじゃないの? どうせそのまま帰してもらえるんでしょ?」
「それについての説明はもうちょっと後でね。――それから、帰る時点であなたが幾つになっていたとしても、今のあなたと同じ年齢に戻させてもらうわね。つまり、桜がもとの世界へ帰った時は、アージュアに存在したという記憶もないし、歳も取っていない。何も無かったのと変わらないということよ」
何も無かったと同じ……。思わず考え込んでしまった。
それはどう思えばいいんだろう? 例え大切な人ができていたとしても私が帰ることを選んでしまったら、お互いからその記憶が消えてしまい、自分たちが想い合った事実なんか無かったことになってしまうんだ。
そんな感情は始めから存在しなかったように……。
とても都合のよいことのように思えるし、寂しいことのようにも感じられる。
今の私には、まだ判断がつかなかった。――まあいいか。分からないことは考えないでおこう。
「そしてさっきの質問の答えなんだけれど、あなたの時間を巻き戻すというのは、記憶をいじっている状態ではできないことなのよ。脳にかかる負担が大きすぎる。まあ、どうしても思い出さないままで帰りたくて、廃人になっても構わないと言うのなら、そうさせてもらうんだけれど」
誰がそんなものになりたいはずがあるか!
どうする? と可愛らしく訊いてくるホープに、私は首を左右に激しく振って否定しておいた。
「死ぬ前にホープが来てくれるっていうのは分かった。でも、大切な人ができたって場合はどうなるの? やっぱり迎えにきてくれるの?」
「その場合は……そうね、連絡手段を渡しておくわ。ついでにお守りも」
そう言ってホープは、懐から親指の爪くらいの大きさの、半透明の石を取り出す。なんだかデコボコしている。
私が見つめていることに気付くと、ホープはダイヤの原石よ、と説明してくれた。
「これをまず五片に分ける」
ホープの凜とした声が響く。
石は滑るように空中を進んでいき、私とホープの中間で一度止まった。そして私の目線よりも上まで昇っていく。
ぼんやり光り始めたと思ったら、どんどん光が強くなっていった。とうとう目を開けていられないほど眩しくなって、私は目を閉じた。
――しばらくするとまぶたに光を感じなくなったので、目を開けた。
半透明だった一つの石は五つに分かれ、それぞれが透明な楕円形の石になっていた。
「まずは抗魔力」
一つの石の内部から、何かが染み出してくる。
点のようだったそれはじわじわと広がっていき、石全体に行き渡る頃には、鮮やかな緑色に輝く宝石になっていた。
そしてホープの声は続く。
「次に翻訳機能」
さっきと同じ。点から染み出して、青い宝石に変わった。
「追尾機能」ピンク色の宝石。
「連絡機能」紫色の宝石。
次々に宝石の色が変わっていく。
それはとても幻想的な光景で……。
今までホープの話を聞いてきて、私はこの世界が魔術の存在する物語のような世界だと、段々受け入れられるようになってきていた。実際、その魔術で私はこの世界へ連れてこられたわけだしね。
でもこの夢のような眺めを目の当たりにして、初めて魔術という不思議な力を実感したような気がする。
「隠蔽機能」
歌うようなホープの声。最後は黄色い宝石だった。
彩りを加えられた五つの宝石は、その場で円を描くように、緩やかに回っている。
「手を出して」
一連の光景にぼーっと見惚れていた私は、ホープの声で我に返り、慌てて言われた通りに手を差し出した。
手の平に、羽が舞い降りるような速度で宝石が落ちてくる。五つの宝石は、それぞれが組み合わさって花を形作っていた。楕円の一つ一つが花びらのようだった。
宝石が、手の中でキラリと瞬く。
「綺麗……」
さっきの光景と照らし合わせて、思わず溜息が漏れた。
「それじゃあその石の説明をするわね」
感動している私を余所に、淡白な声でホープが説明を始める。




