ベルディア王城 10
私は、不意を衝かれて速くなってしまった鼓動をなんとか宥めた。
極力、何事もありませんという風情を演じる。
「何かって? 別に何もないけど」
今日の出来事はこれからずっと言うつもりはないし、口に出したくもない。大袈裟なんだけれど、あれは墓場まで持っていく秘密だ。今決めた。
アステルは髪を拭く手を止めて、私の首筋に手を当てる。王太子に吸われた場所だ。
身体が正直にギクリと強張ってしまった。
「じゃあ、この痕はどうしたんですか?」
おとなしく慎み深い私としてはありえないことに、口汚い罵りの言葉が出てきそうだった。
やっぱりあの王太子、殴っとくべきだった!
「痕なんか付いてるの? さあ、虫に噛まれたのかも」
うん、ある意味質の悪い虫だったけどね。私は不思議だな、と装うために首を傾ける。
今はアステルが立っている状態だから、視線が合わなくて助かった。目を見られていたら、とてもじゃないけどこんなにスラスラ取り繕う言葉は出てこない。
――と思ったらアステルが膝を着き、私の目を覗き込んできた。視界が揺れる。途端に胸がざわついて落ち着かない気分になってしまう。
咄嗟に目を逸らしてしまった。マズッ。正直に何かあったって言っているようなもんだ。
「泣いていたんですか?」
「なんで?」
目線を外したまま問いかける。
どうして分かるの? ちゃんと顔も洗ったのに。
「腫れています」
まぶたにそっと触れながら言われた。
ヤバイ。また泣きそうだ。我慢するために、血が出そうなほど強く唇を噛み締めた。
「泣いてない!」
顔をブンブン横に振って、アステルの手を振り払う。そのまま顔を明後日に背けた。
「俺の……」
え?
「俺の知らない所で泣かないでください。慰められません」
とんでもない言葉に、思わず背けていた顔をアステルの方へ戻してしまった。
目前の顔が、切なげに瞳を揺らして見つめてくる。そんな表情をするなんて反則だ。
「――なんでそんな風に言うの?」
言葉が口を突いて勝手に出てきた。何故か無性に腹が立ってくる。
私は苛立ちをぶつけるように、アステルを睨みつけた。
「どうしていっつもそんな風に甘やかすようなことばっかり言うわけ? それもティア・ダイアモンドに頼まれたから?」
『言うな。言っちゃ駄目だ』
頭のどこかで警鐘が鳴っている。
でも言いたい。どんどん言葉が溢れ出てきて止められそうにない。
「アステルがそんなだから私が勘違いしちゃうんじゃない。もしかしたらアステルの隣にいていいのかもって!」
あの王太子も言っていたように、能力的にも、この世界における所謂家柄というものを念頭に置いても、私がアステルに釣り合うとはとても思えない。
それなのに、いつもアステルは私を過保護に構おうとする。
『それ以上は――』
ああもう警鐘うるさい! 引っ込んでてよ!
アステルは、道端を歩いていたら急に大岩が転がってきたというような、予期せぬ事態に対する驚愕を顔へ貼りつけている。その何も知らないと言いたげな表情を見て、私の激高はピークに達した。
「そんなだから! 好きに……なってしまったんだ…………」
勢いが命じるままに最後の一言を告げた途端、それまでうるさいほどに鳴っていた警鐘がピタリと止んだ。
叫んでいるうちに気が済んでしまったのか、のぼせ頭が冷え、途中でハッと我に返ったものの、惰性でお終いまで言葉が続いてしまったのだ。
ソファに座りながらも、ハア、ハア、と肩で息をする私のこめかみを、冷や汗が伝う。
私、今、何言った……?
血の気が引く思いで恐る恐る窺うと、アステルは片手で顔を覆って俯いていた。
これはもしかして、困っている? どうしようとか思っているんだろうか?
私の方こそどうしよう!? この場から、脱兎の如くに逃げ出したくなった。
やっぱり、なんちゃって嘘でした! とでも言って、大笑いしながら訂正した方がいいのかもしれない。なんて、頭が冷えた割には煮えたようなことを考える。
声をかけようか、どうしようか。アステルの肩を叩こうとする腕を、持ち上げたり下げたりしていた。すると当の本人が顔から手を離し、ようやくこちらを向く。
うわっ、珍しい。アステルの顔が赤くなっている。こんなの初めて見た!
「すみません。ここまで嬉しいとは思わなかったので」
「へ? 嬉しいって」
何が? と思っていると、アステルは私の片手を取り、両手で挟み込むように握りしめた。
真摯な眼差しに熱を込めて、真っ直ぐに私を見つめてくる。落ち着かなくて、空いている方の手を胸に持っていき、硬いペンダントの感触を確かめた。
「俺のことを好きだと言ったんですね?」
「う、うん……」
僅かに顎を引き、肯定を示す。
繰り返されるのは恥ずかしいんだけれど。
「本当に?」
くどい!
思いながらも、今度ははっきりコクリと頷く。そうすると、本当に嬉しそうな、心を丸ごと奪われてしまうような笑顔を向けられてしまった。
眼前の顔から目が離せない。否応なしに惹きつけられる。
でも――
「なんで?」
「はい?」
「なんでそんな嬉しそうな顔するの?」
「なんでと言われても。嬉しかったので」
言葉通り、アステルの声も表情も、発光しそうなほど明るい。
私には、それが分からない。
「もしかして、私のこと好きなの?」
「今更それを訊きますか?」
目元に呆れを滲まされてしまった。
「や、なんとなくそうかなと思うことはあったような気もするけど……」
「俺は結構態度に出してきたつもりだったんですが?」
いや、確かに思い返してみてもかなり露骨だったとは思う。でも私が子供の頃からそうだったし、文化の違いやアステルの性格的なものからくるのだろう、と片付けていたのだ。
「そんなの、ちゃんと言ってもらわないと自信なんて持てないよ……。――でもなんで?」
これじゃ堂々巡りだ。
だって本当に分からない。どうして自分が好かれているのかが、さっぱりなのだ。
「私のどこがいいの? 自分で言うのもなんだけど、アステルに好かれるような部分があるとは思えないんだけど」
「どこ……ですか。挙げようと思えばいくらでも挙げられますが……。では、桜は俺のどこを好きになってくれたんですか?」
逆に問われてしまった。
うーん、としかめっ面で考えるものの。
「一杯ありすぎて分かんない……」
優しい所も、笑ってくれる顔も、仕草とかも全部好きなんだけれど、ここだという決定的な所は、うまく言えそうにない。
私が答えると、アステルはそうだろう、というように頷いた。
「俺もそうです。理由は幾つでも思いつけますが、どこを挙げても何かが違います。それに、何度言っても一人で行動しようとするなど改めてほしい点もありますが、それですら好意を持っているというだけで、慈しむべき要素の一つに転じてしまう。――理由なんてただの辻褄合わせでしかありませんよ」
確かに、アステルが頑固で口うるさくなくなってしまったら、逆に寂しくなってしまうかもしれない。
うん?
「でもアステル、出会った最初の頃から受け入れてくれてたよね? いくらティア・ダイヤモンドに頼まれたからって、あそこまでできるもんなの?」
「それは……」
アステルはそのまま顔を伏せて黙ってしまった。繋がる手から、僅かに震えが伝わってくる。
そこで口を閉ざされるとは思わなかったのだ。何か悪いことでも訊いてしまったんだろうか?
不安で、私は胸に当てている手をぎゅっと握り締めた。
「――これを聞いて、俺のことを嫌いにならないでくださいね」
顔を上げたと思ったら、困ったような顔でそんなことを言う。
一体なんなんだ?
「桜がアージュアに喚ばれてしまったのは……、俺のせいなんです」
「え?」
何それ、どういう意味? と私は目を瞠った。
「聞いてください。――十五歳の時にティア・ダイヤモンドにお会いしたと話したことがありましたよね。俺は幼い頃から公爵家の跡取りとして育てられ、また、それなりに好かれる容姿をしていることもあり、周囲に人が集まってくるのが当たり前でした」
そこでアステルが一旦言葉を切る。薄く笑ってから、おかげで家名を目当てに寄ってくる人を捌くのが上手くなりました、と言った。
「父は愛する母と結ばれたこともあり、俺やリディには常々、結婚相手は好きに選べばいいと言ってくれていました。しかし俺は家名を存続させるためにも、名家のご令嬢と結婚するのが当たり前だと思っていたんです。――そんな折りにティア・ダイヤモンドから望みはないか、と告げられました。ほんの思いつきだったのかもしれません。本心では父が言う通りの、自由な結婚をするということに興味があったのかもしれません……。理由ははっきりしませんが、気がつけば俺は、花嫁が欲しいと口に出していました。立場も何もしがらみのない花嫁を……と」
「もしかして私が呼ばれた理由って……」
「桜が思っている通りです。ただ、それから一向に音沙汰がなかったので、正直、本気にはしていませんでした。しかしそれから二年後のあの日、桜が目の前に現れました」
「ちょっと待って。でもさ、いくら自分が望んだからって、今まで全然知らなかった相手と結婚なんてできるもの?」
「俺たちの世界は政略結婚が当たり前ですからね。むしろそちらの方が自然なんです。それに俺は、大抵の人間と上手く付き合っていく自信はありますから。問題はありませんでした」
「じゃあ、私のことを好きになってくれたのは、そういう理由があったから?」
それはちょっと……どころかかなり寂しいかも。
と、地面にめり込む気分で落ちこむそばから、首を横に振ってあっさり否定された。
「そんなものが理由になるはずないでしょう。ただのきっかけに過ぎませんよ。――まさかまだ十二歳の、しかも異世界の少女が喚ばれるとは予想もしていませんでしたが……。しかしそれならそれで受け入れたらいいかとも思いました。ただ、貴女は元の場所へ帰りたがっていたので、帰せる方法があるなら帰してあげたいと思ったのも確かです」
あの時アステルは、保証はできないけれど帰る方法を探してくれると言ってたんだっけ。
「けれど……、桜と過ごしていく内に、もう帰したいとは思えなくなってしまいました」
「どうして?」
私が口を挟むと、アステルは柔らかく目を細める。
「桜のことを好きになってしまったから」
「……」
絶句してしまった。
これは効いた。不意打ちだ。
顔から火が吹き出しそうだった。
アステルは自分が吐きだした台詞の効果を確かめるように、顔を赤くして昇天しかかっている私の様子を存分に眺め、そして言う。
「こちらと向こうの世界。どちらを選ぶかと訊いて困らせたことがありましたが、改めて尋ねてもいいですか?」
――ずっと疑問に思っていた。私がアージュアに呼ばれた理由。
答えはこんなにも身近にあったのか。
この世界へ来たことで、失くしてしまったものは沢山あった。帰りたいと思ったことも数え切れない。
でも、アステルをなじる気持ちは全然湧いてこなかった。だって、失ってしまったものを補って余りある、山ほどのものを与えてもらっている。
私はアステルの問いには答えず、自分の疑問を口にした。
「…………そういえば、こっちに残ってほしいって言ってくれたことなかったよね。どうして?」
「俺がそれを告げることで、桜を余計に悩ませてしまうのは嫌でした。何よりも桜自身に選んで欲しかったんです。訊く度に、キッパリ向こうへ帰ると言われてしまいましたが」
最後の部分を言う時、アステルは苦笑いを漏らした。
私の意志を尊重してくれるのは嬉しいんだけれど、ちゃんと言ってくれていたら、もうちょっと早くアステルのことを好きだって自覚できていたと思うんだけれど……。
少し恨みがましい目でアステルを見ると、微笑み返されてしまった。
「桜が俺と離れたくないからこの世界に残ると言ってくれるなら、そんな嬉しいことは他にありません」
うわわっ。最後の最後で殺し文句を述べてくれる。
心臓がはちきれんばかりに踊り出してしまった。
気持ちが高ぶりきって、自分がどんな表情をしているのかも分からなくて、わざと強張ったような顔を作る。
だって、こんな時って、泣いたらいいのか、笑ったらいいのか!
心が弾んで勝手に身体が動き出してしまいそうだった。なんだかじっとしていられない。もう、アステルには一生敵わないような気がする。
私はアステルの手に空いているもう片方の手を重ね、精一杯微笑みかけた。多分、泣き笑いになっているな。
「――うん決めた。私、アステルを選ぶ。ずっと一緒にいたい」
私がそう告げた途端アステルが顔を傾け、唇同士が重なった。
そういえばこんな風にキスをするのは初めてだったな、とクラクラ目眩がしそうな頭でぼんやり考えた。王太子にされたのとは全然違う。優しくて、芯から痺れそうに甘い。
奪うではなく、与えるための。
胸の奥が熱くなり、どこまでも舞い上がってしまいそう。
うっとりして浸っていると、余韻を残して顔が離れ、強い力で抱きしめられた。ソファから僅かに腰が浮き上がる。鼻先をぎゅうっと押しつけて深く息を吸い込むと、胸の中は大好きな香りでいっぱいいっぱいだ。
五感の全てが満足していて、心も身体も幸福感で満たされていく。こういうのを至福って言うんだ、きっと。
幸せで一杯の頭はもう真っ白。何も考えられなくなってしまった。
――はずなのに……。
一つ。
また一つ。
水底から泡が浮かび上がってくるように、次々と頭をもたげてくるものがある。
膨れあがりそうな勢いでみるみる数を増やし、記憶の中がどんどん埋め尽くされていく。
やがて満杯になり――。
とうとう臨界を越えて――。
――一斉に弾け散った。
唐突に消えてしまったあの警鐘……。
蕩けるような陶酔感は覚め、胸の中に暗雲が垂れ込めてくる。
今まで幸福の絶頂にいたのに、奈落の底に蹴落とされてしまった気分だった。
ホープのやつ! このタイミングだなんて、狙っていたとしか思えない。
頭に浮かんだのは、日本人形のように綺麗な顔立ち。
私がアージュアへ来て初めて出会った人間。
そして私をアージュアへ喚び込んだ張本人。
自分勝手。鬼。悪魔。
魔物を家族と呼ぶ少女。
ユヴェーレン、ダイヤモンド――ホープ。
思い出した。とうとう思い出してしまったんだ。ようやく選ぶことができたのに……。
私は締めつけられる思いでアステルの胸に額を擦り寄せ、この一時を惜しむために目を閉じた。
もう、こんな時間は来ないのかもしれない。
構成の見直しで省いていたアステル視点→http://ncode.syosetu.com/n5708bb/
本当は1章後の幕間に入る話でした。雷鳴の夜にちょっと対応しています。