ベルディア王城 8
バカヤロウ! ちくしょう! くそったれ!!
陰険男! 嫌み王子の悪代官!
立場なんて気にせずに思いっきり罵倒して、必殺の右でも喰らわしてやればよかったんだ!
年頃の娘さんにあるまじき言葉がどんどん溢れてくる。同時に喉の奥から嗚咽が漏れそうになり、止めていた涙まで噴き出しそうになってきた。
まだ駄目だ。こんなところで泣きたくない。
根性見せろ、私の涙腺!
迷路を抜けることも考えずに下を向いて、何かに追い立てられているかのように走って走って、とにかくがむしゃらに走り続けた。
息が切れ、汗が額から玉になって頬を滑り落ち、喉はカラカラに乾いていた。脇腹の痛みに耐えきれなくなり、足が悲鳴を上げ始めてへたり込みたくなった頃、ふと顔を上げるといつの間にか視界が開けていた。
その光景をただ、呆然と見つめる。
信じられない。無茶苦茶に走っていただけなのに、迷路の出口に着いたんだ……。
目の前に飛び込んできた眺めは、緑、緑、緑色で染め上げられていた。
私は誘い込まれるように、フラフラと歩み寄っていった。
地面は短い草や苔で埋め尽くされているし、石や木の幹までビッシリ苔むしている。新緑の木々に覆われたこの場所はさほどの広さもなく、奥の方は崖の底みたいに行き詰まっていた。そのどん詰まりには、円を描き、噴水のように水が湧き出している泉が横たわっている。樹の葉っぱを鏡のように映し出していて、水面がやっぱり若葉色に揺れていた。
泉の水はどこかへ流れ込んでいる様子もないのに、溢れることもなく一定の水位を保っている。
迷路を抜けた先の景色を楽しみにしていた身としては、少しがっかりしてしまった。今までさんざん生け垣の緑を目にしていたんだから、もうちょっと目にも綾なす光景を期待していたのだ。
でも――と周りの木々を見渡して考え直す。
よく見たら、ここには紅葉する種類の樹が結構混じっている。もしかしたら、この場所は秋の風景を楽しむために造られたんじゃないだろうか?
というわけで、私は秋の風景を想像してみた。
地面を覆う緑の絨毯に次々と舞い落ちてくる紅や黄色の彩り。見上げても、頭上を覆う常緑樹の緑と紅葉の対比が鮮やかなんだろうな。そこには空の青さも加わり、泉の水はそれら全てを映し出している。天を仰いでも、地を見下ろしても同じ色彩を見ることができるんだ。
きっと息を呑むような美しさにちがいない。今が秋ならよかったのに。
それが迷路を抜けた者へのご褒美だったのかな? この迷路を造った王様は本当に酔狂な、それでいて典雅な趣味人だったのかもしれない。
そんな情景を頭に思い巡らせながら、すっかり疲れた足をひきずりつつ泉に近づき、膝が折れる勢いそのままにしゃがみこんだ。この場所には、ぽつねんと座り込んでいる私以外誰の姿もない。風のそよぐ音と、鳥の鳴き声が響き渡っているだけだ。
飲めそうなほど澄んだ泉に映った私の髪は、走ったせいかボサボサで、顔は情けなく歪んでいる
なんて惨めで不甲斐ない表情なんだろう?
思わず水面に映った顔に手を伸ばすと、触れた途端に揺らいで見えなくなってしまった。
喉の奥が熱くなる。
突然迷路を抜けたことによる驚きと、脳内に妄想の風景を描き出すことで一時どこかへ消え去っていた激情が、また舞い戻ってきてしまった。
そのまま迷路で迷子にでもなっててくれればよかったのに! ヤケクソ気味に無茶なことを思う。
目に盛り上がってきた涙のせいで、痛くなってしまった目を閉じた。同時に、波立った心を少しでも落ち着けるために深呼吸を繰り返す。それでも、吸って吐く息はどうしようもなく震えてしまう。雫はまぶたの隙を縫ってポタポタ落ちてくる。そのおかげで気分は沈静化するどころか、ますますぐちゃぐちゃに荒れ狂ってきた。
爪の間に入ることも気にせずに、手元の土をグシャリと握りつぶす。
……もういい。誰もいないここなら思いっきり泣ける。憚るものは、なにもない。
私は、折れたワイヤーのように口元を思いっきりねじ曲げた。
泣いてやる! 涙が涸れて泉の嵩が増えるほどに泣き尽くしてやる!!
大きく息を吸い込み、次いでわめくように、私はとにかく号泣した。座ったまま泉の縁に手を突いて、出せる限りの声を上げ、よよと泣き崩れてやった。
抵抗できなかった悔しさも、言い返せなかった歯痒さも、自分を認めさせることが叶わなかった哀しさも。その他諸々込み上げてきたありとあらゆる負の感情を、涙と一緒に全部まとめて押し流した。
私が零した涙と、湧き出てくる水が作る波紋同士がぶつかり合って相殺されていく。
きっと、この声を聞いたら天も悲しくなって落涙するに違いない。
でも今雨を降らされたら困るから、それは遠慮しておくぞ!
どれほどの時間そうして泣いていたのか――
とりあえず泣き喚くのに飽きてしまった私は、ヒックヒックとしゃくり上げながら、泉に映った顔に改めて目を向けてみた。
「げっ!」
思わず品のない呻きが漏れてしまうぐらい、そこには半壊状態となった顔が映っていた。まぶたは赤く腫れて目は半分になっているし、せっかく丁寧に施してもらった化粧も涙と汗で剥がれ落ち、特殊メイクの様相を呈している。
――これは自分でも引く……。思わず身を引き、自分で自分の顔から少しでも離れたくなってしまった。
我が顔のことながら今誰かに見られたら、間違いなく幽霊や物の怪の類に間違えられる自信がある。その人が武器を持っていたら成敗されるかもしれない。
討伐した魔物の頭数に入れられるのは嫌なので、私は泉に顔を突っ込んだ。そのまま顔面をゴシゴシこする。
髪や服も多少濡れるけれど、そんなこと今はどうでも構わない。帰り道でまた迷っている内に乾くだろうし、今日は暖かいから風邪を引く心配もなさそうだ。
一度顔を上げて息継ぎをし、再び水面に突っ伏した。今度は喉を潤しておく。カラカラだったのを思い出したのだ。冷たい泉の水は気持ちよくて、気分もさっぱりしてきた。
なんだか楽しくなってきて、そのまま水遊びをするかのようにバシャバシャ戯れていた私は、人の接近に全く気がつかなかった。
「何をしている!?」
怒っているとも驚愕しているとも判断のつかない絶叫が、突然鼓膜に突き刺さる。次いで猫の子を摘み上げるかのように襟元を引っ張られ、水際から乱暴に離された。
私はその拍子に当然のごとく首を服で圧迫され、うぐぅ、というなんとも苦しげでお間抜けな声を出す羽目になってしまった。蹲りながらむせ込むと、さっきやっとのことで引っ込んだ涙まで滲んでくる始末だ。
か弱い少女に無体を働くとはどこの無礼者だ? と苦しい息を抱えながら、傍に突っ立っている狼藉者に精一杯の威厳を以て目を向ける。すると、凄まじくおっかないひまわり色の目に睨み返されてしまった。
その瞬間、ひぇっ、と私の威厳と怒りは空の彼方へ吹っ飛んでいく。
――うん? この目には見覚えがあるような。
「王城の敷地内で入水自殺を図るなど、一族郎党罪に問われても仕方のない愚行だぞ?」
厳しい声音で詰問してくるのは、ここの風景を溶かし込んだような濃い緑の髪に、聡明そうなひまわり色の目。
真面目そうな雰囲気を湛えたベルナールさんだった。
「ベルナールさん!?」
立ち上がりながら叫ぶと、ベルナールさんの険しい目は怪訝そうに変わり、それから二度瞬いた後に、納得がいったように柔らかくなった。
「ああ、あなたは天海の彩の……。確か、サクラ殿と言われたか」
「はい。その節はどうもありがとうございました」
「私はあなたに礼を述べられるようなことを、何かしただろうか?」
私の言葉を聞いて、ベルナールさんがまた訝しそうな表情になる。あれ? アステルに聞いていないのかな?
「一月ほど前に、城下町で人攫いの男に襲われていたところを、助けていただきました」
私が告げた内容を理解した途端、ベルナールさんの目が驚愕に見開かれた。
「あの時の娘か! ……しかし、髪の色が違うようだが?」
うん。それについて驚かれるのはもういいです。あ、でもそれで思い出した。
カツラを放り投げてきたままだったんだ。帰りに探さなきゃいけないな。うーん、首尾よくあの場所へ辿り着けたらいいんだけど。
これもあの王太子のせいだと心の中でぶうたれながら、ベルナールさんにはカツラのことを適当に説明しておいた。
「アステルは何も話してなかったんですか?」
「ああ。あなたがあの時の娘と同一人物だということは、聞いていなかった」
それにしたって謁見の時はまだ足を怪我していたんだから、連想してもよさそうなもんなんだけれど……と、私は首を傾げるベルナールさんの様子を窺いながら思った。
恐るべきは、髪の色は変えられないないという思い込み。といったところなのかな? アステルはもしかしたら、後でベルナールさんを驚かそうと思っていたのかもしれない。
「ベルナールさんはここで何をしてるんですか?」
ベルナールさんは腰に剣を携え、謁見の時に見かけた護衛の服装をしている。多分勤務中だろうに、どうしてこんなところにいるんだろう?
ちなみに護衛の服装は膝ぐらいまである前開きの長衣で、胸には護衛対象の王族個人を表す紋章が、刺繍で縫い取られている。さらに長衣の色も王族によって違っていて、ベルナールさんは薄い群青色の長衣を身に纏っていた。これが王太子の色になるんだろうな。下に着る物は各人違っているから、個人の自由にしてもいいみたいだ。
「私はレジナルド様を捜していたんだが……。どうやらこの迷路にはいらっしゃらなかったようだ」
いやいや、いましたよ、バッチリ! 私は心の中でだけ、突風が巻き起こりそうな勢いでかぶりを振っておいた。
いたいけな少女に乱暴を働いていました。多分行き違いになっているだけですって!
とはいえ王太子のことなんか話題にも出したくなかったので、それについては黙っておくことにした。
「それにしてもあなたこそ、何故自殺などという愚かしい真似をしていたのか?」
再び厳しい態度に戻り、ベルナールさんが咎めてくる。
冗談じゃない、大いなる勘違いだ。それとも私はそんなにも世を儚んでいるように見えるんだろうか? まあ自分でもか細くて弱々しいとは思っていたけどね。私はうんうんと頷いた。
さしあたっては誤解を解いておこう。ベルナールさんをしっかと見上げる。
「自殺なんかしてませんって。汗をかいて気持ち悪かったから顔を洗っていたんです」
本当は泣いていたからなんだけれど、そんなことは言う必要もないしね。
「この陽気とはいえ、一体何をしていたら顔を洗うほどの汗をかくことになるんだ?」
う、痛い所を突いてくるじゃないか。動揺で、一瞬ぴくりと頬が痙攣してしまった。
そしてその失点を補うように、気合いを入れて言い放つ。
「私は自分がどこまで走れるか、体力の限界に挑戦していたんです! 自分との戦いです!」
うん。実際に限界まで走ったし、これは本当のことだ。
ベルナールさんは最初、私がなんのためにそんなことをしていたのかを測りかねて戸惑っていたようだった。けれどやがては自分の早とちりだということを理解したのか、済まなそうに自分の頭に手をやった。
「それは申し訳ない。私はてっきり……。それにしてもこうして会う時に、まともな姿をしているあなたを見たことがないな」
その言葉に、チュニックの裾を摘み、しげしげと我が身を見下ろす。
私の格好といえば、まずはぐちゃぐちゃになっている髪。その毛先と顔からは泉の水を滴らせ、服も袖口や襟ぐりはびしょびしょに濡れていた。
うむむ。確かに謁見の時を除外して出会うのはまだ二回目とはいえ、その二回ともがどうしようもなくズタボロな格好というのは虚しいものがあるな。
「まずは城内に戻ろう」
言うやいなや、ベルナールさんが身につけていた長衣をおもむろに脱ぎだし、私は卒倒しそうになってしまった。
いきなりどうしてストリップを始める? 花も恥じらう乙女の前で、なんて破廉恥な真似をするのだ!
「うぶっ!」
ほとんど白に近い薄い黄色のシャツ姿になったベルナールさんは、目を剥いて驚いている私に脱いだ長衣を被せ、膝裏と背中に手を回して抱き上げた。連続した驚愕の事態に暗くなった視界の中で固まっていると、「その格好を人目に晒したくはないだろう?」と確認を取られてしまった。
……確かにその通りなんだけどね、と視線を泳がせる。意表を突いた展開に度肝を抜かれてしまったんだよ。
以前もそうだったけれど、ベルナールさんの抱え方は世間で言うところのお姫様抱っこというやつだ。今まで何度もアステルに抱きかかえられてきたとはいえ、実のところこんな抱き方はされたことがなかった。
知らない香りに包まれていることもあり、なんとも勝手が違って調子が狂ってしまう。努めて余計な考えは頭の外から追いやるようにして、とりあえずはバランスを取るために、ベルナールさんの肩に手を回しておいた。
ベルナールさんがクルリと身体の向きを変えたので、そのまま歩き出すんだろうなと予想していたのに、立ち止まったまま一向に進もうとしない。
どうしたんだろう?
そう思っていると、落ち着いたベルナールさんの声が、頭上から降ってきた。
「アステルバードにクリスティーナ殿か」
ベルナールさんが誰に呼びかけたかを認識した途端、私は動揺してビクリと身体を震わせてしまった。それが分かってしまったんだろう。布越しに、私の様子を気にするような気配が伝わってきた。




