ベルディア王城 7
目の色に相応しい、冷ややかな声が紡ぐ言葉の意味が、脳に届くまで少し時間がかかった。
取り入る?
私が?
「それは……どういう意味でございましょうか?」
王太子殿下を見据えたまま、緊張して低く掠れそうになる声をなんとか押し出す。
「お前のようにどこの者とも分からぬ娘が、公爵家に入り込み何を企んでいるのかと聞いているのだ。素直に答えろ」
素直にって言われても!
「何かを企むなどと、そのようなつもりは毛頭ございません。グレアム家の家族は身寄りのない私を引き取り、育ててくれました。恩義の他に何を感じることができましょうか?」
なんとか誤解を払拭しようと必死に言い募った。
それでも殿下の声と表情が纏う酷薄さは変わらない。そして形のいい唇が、嘲笑の形に吊り上げられる。
「家族だと? お前があの一族に相応しいとでも思っているのか?」
ギクリとする。冷や水を浴びせかけられた気分だった。
それは私が以前から少なからず思っていて、あまり考えないようにしてきたこと。自分で認識しているつもりでも、他人の口から聞くと掻き毟られるように痛い。
「グレアム家の者は皆才気に溢れている。ヘンリーは今でさえ領地で隠居しているが、その昔はこの場所で辣腕を振るっていたものだ。バドは私が王位を継いだ暁には右腕となり、政務の手助けしてくれるだろう。リディもセシリアの護衛として高い能力を示している。お前についての報告は色々と入ってきているが――。お前には何か私に差し出せるような才があるとでも言うのか?」
投げつけられた台詞に脳を直接殴られたように、目前の顔がグラグラと揺れた。目眩がする。
そんなもの、あるはずがない……。
これ以上聞きたくない。歯を食いしばり、手が耳を塞ぐために動こうとするのを、懸命に押し止めた。
「一応貴族の娘だと名乗ってはいるようだが、ハノーヴ家などという名前は聞いたことがない。ある程度以上の家名であれば隣国の内情とはいえ、私の耳に入っているはずだ」
知られている名前じゃ逆に嘘を吐いていることが分かってしまうから、わざと家格を低く取り決めておいたんだけれど。それが裏目に出てしまったんだろうか?
なんにしろ、家族以外に私の素性を知られるわけにはいかないんだよ。
「人を魅了するほどの美しさも世に役立つ高い知性も、また家柄もなく、天海の彩という物珍しさしか取り柄のないお前のように凡庸な娘が、あの一族の傍でのうのうと暮らしていいとでも思っているのか?」
「……っ!」
あんまりだと思った。反論しようと口を開きかけるけれど、沢山の言葉が、まるで満員電車の出口に人が殺到するみたいに我先に、と喉の奥でつかえてしまい、逆に声が出なかった。殿下を見上げる目線だけが、痛いほどに何かを訴えようとする。
なんらかの才能がないと家族をやっちゃいけないのか。相応しくないと近くに寄ることもできないのか。
声に出して、思い切り叫んでやりたい。
私だって出ていこうと思ったよ。でもやっぱりあの人たちの傍にいたいんだもの!
――急に、激していた心が冷静さを取り戻した。静かに見下ろす氷のような眼差しから目を逸らす。
この人が投げかけてくる言葉は辛辣だとはいえ、確かにその通りだ。
私が小手先だけでなにかを言い返しても、正論の刃で切り伏せられるだけ。頭の中の傍観的な自分がそう囁く。さっき言葉が出なかった原因も、詰まるところはそういうことなんだろう。
反論できる要素を持っていない自分が惨めだった。
無力感を噛み締めて俯いていると、髪に触れられる感覚がした。束の間の後、纏めていた髪がハラリと落ちてくる。次いで、指を顎にかけられ無理矢理上を向かされた。
寒気が走るほど人情味の薄い水色が私を見据える。一瞬、競りに出された家畜とはこういう気分なんじゃないかと考えた。
「バドはお前のことを気に入っているようだが……。何がいいのか理解できんな」
それはティア・ダイヤモンドに頼まれたからで……。
唐突に、気づかされてしまった。
今まで何度も考えてきたそのことが、私をまっ黒に塗りつぶしながら別の意味を顕してくる。そして悲しくなってきた。
だって、それだけがアステルと私を繋いでいるものなのだと解ってしまったから。
「私やバドの幼馴染みに、クリスティーナというリディと同じ歳の娘がいる。ティナは幼い頃からバドに恋心を抱いていた。お前など、足元にも及ばぬほどに美しい娘だ。」
リディが言っていたティナさん? 恋心、と聞いて胸が不安にざわついてくる。それを覆い隠すため、目尻に力を入れて見返した。
要するに何が言いたいんだ。また私を馬鹿にしたいだけなのか?
「あれは性質も、頭もいい。必要な時に見せる芯の強さもある。この先、バドに寄り添い支えていくだろう」
パーフェクトじゃんか。やさぐれた気分になって、心中で呟き落とした。
「妹のように愛でてきたティナが、お前ごとき娘のために涙を飲むところなど見たくもない。娘、父も仰っていたが、私の後宮に入れ」
…………何を言っているの、この人は? 全く代わり映えのない表情を前に、用いるべき言葉を間違っているのではないか? と私は口を開け、間抜けともいえる素の表情を晒してしまった。
私のことを気に入ったというのはありえないだろうし、天海の彩をありがたがるはずもない。
それとも、その口で凡庸だと断言した私がティナさんの邪魔になるから、側室にしてしまおうとでも言うのか? ついでにアステルたちの傍からも離せるから一石二鳥?
「媚びへつらってみろ。態度次第ではかわいがってやらんでもないぞ」
私の髪を指先で梳きながら紡ぐ言葉は艶を含み、睦言のように甘く響いた。
けれど極限まで整っている目は非情な色を宿したままだ。
その目を見て、どこの誰が承知する?
「恐れ多いことにございます。私などが後宮へ入りましても、殿下の恥となるだけでしょう」
錆びついてしまったのではないか、と思えるほど自由にならなかった声が、口を突いてするすると出てくる。
「そうでもない。お前自身になんの取り柄がなくとも、天海の彩というだけで付加価値が加わる。『希有』という価値がな」
私のこめかみに、ボコッ、と特大の青筋が浮き出たような気がした。
いちいち人の神経を逆なでするようなことを言ってくれる人だ。そんな申し込み方で女性を口説けると思ったら大間違いだ。
「卑しく凡庸なるこの身に余るほどのお申し出ではございますが……お断り申し上げます」
今ほど笑顔の練習をしといてよかったと思ったことはない。胡散臭い笑顔を存分に浮かべて断ってやった。
最後は少しきっぱり言いすぎたけれど、今まで散々馬鹿にされてきたのだ。少しぐらいかまうもんか。こういう申し出は断ってもいいとアステルにも言われている。
「そうか」
王太子殿下が呟き、意味深に口元を歪める。ちょっと溜飲が下がったと満足していた矢先で、なんとなく禍々しいものを感じていたら、不意に頭の後ろを掴まれ――いきなり唇を塞がれた。
唇を重ねられたまま呆然として殿下を見ると、甘さの欠片もない目で見返してくる。ムカムカと、怒りが込み上げてきた。
ここまでするのか? ふざけんな!
手に持っていたカツラを投げ捨てた。渾身の力を込めてなんとか押し戻そうとするけれど、意外と厚い胸板はビクともしない。それでも拳を作って叩いたり、なんとか逃れようと必死であがき回った。離せ、離せ!
そんな私の抵抗を煩わしく思ったのか、王太子――もうこんな奴を敬称なんかで呼んであげる必要はない――は口付けたまま、生け垣の壁に私の身体を押しつけた。後頭部の手が離れたかと思うと大きな手に両腕を取られ、頭の上で難なく縫い止められる。解こうとする私の抵抗をものともせず、両手首を片手だけで押さえつけられた。
外そうとしても外れない!
「っ!?」
息継ぎしようとしたところで口の中に熱くて柔らかい何かが割入ってくる。
信じられない……。私は目を見開いた。
愕然とする間にうなじへ手が回り、舌を絡め取られ、角度を変えて口づけをどんどん深められていく。
悔しい悔しい! こんな理不尽極まる仕打ちに抵抗できないなんて! 目前の対象物が近すぎて焦点が合わないせいでなく、強すぎる怒りのせいで、視界が霞んだ。
この人は目的のために手段を選ばないんだ。心を折り取られる私の気持ちなんて、これっぽっちも考えていない。これは、ただ言うことを聞かせるためだけの行為だ。
これでもし私がなびけば、それはそれで都合のいいことなんだろう。
誰が屈してやるもんか!
もがくのを止めてじっと王太子の目を睨んでいると、不意に唇が離れた。酸素を求めて私の呼吸が荒くなる。それすらも、翻弄されているようでムカっ腹が立った。
揶揄するような王太子の綺麗な顔が、言葉を紡ぐ。
「口づけを交わす時に、相手を睨みつける主義か?」
「獣に噛みつかれたと思っておりますので。目を逸らすと屈服したことになってしまいますでしょう?」
「面白い。私を獣呼ばわりする気か」
「申し訳ございません。獣は愛を示す行為を同意の上で行うものでした。確かに失礼でございましたね」
勿論獣さんにですけどね。このくらいの皮肉は言わせてもらう。
「ふん、意外に気が強いな。人形のような娘だと思ったが」
王太子は鼻で笑って言った。
忌々しさに引っ掻いてやりたくなった。全然なんとも思ってなさそうだ。
「後でバドに泣きつくか?」
耳元で囁かれ、舐め上げられる。うなじを押さえていた親指が、肌を滑る。
鳥肌が立つ。気分が悪かった。
「バドはどうすると思う? 私に対して憤るか、それともお前への興味をなくすか」
アステルなら怒ってくれるに決まっている! 侮辱の言葉に、全身が焼き尽くされそうだった。
……でも、どちらにしてもこんなこと、アステルに言えるはずがない。絶対に知られたくない。
濡れた感触が下へ下へと降りてくる。
「助けを求めないのか?」
顎の下に唇を押し当てられたままで言われた。
吐息が触れ、嫌悪感が強まる。私は大きく顔を歪めた。
「御随意に。何があっても心は自らのものです」
抑えた嗤いが伝わってきた後、首の横を強く吸われた。
こういうのって痕になるんじゃなかったっけ?
ここで叫べば、泣いて許しを請えば、所詮その程度の娘だとこの人は私を見限る。
そしてもし人が来てしまったら、例え真実はどうであれ既成事実ができたと見なされてしまう。そうなれば当然のごとく命令するのだ。後宮へ来いと。
手付きになったら逆らえるはずがない。でも……もう嫌だ。
堪えきれない心が出口を求めるように、涙が滲もうとする。それが腹立たしくて、固く目を閉じた。
これ以上触れられたくない。この人が与えてくる全ての感触を、身体が強く拒否している。
触られる度にどんどん心が死んでいくような気がする。
自分でも不思議なくら、この人を受け入れることができない。
――そんなの当たり前だ。
まぶたの裏で、深く青い目が振り返った。
顔に触れる前髪のくすぐったさも、私をまるごと覆い込んでくれる腕の温かさも、優しく落とされる唇の心地よさも、全てこの人のものじゃない。包まれる香りさえ違ってる。
一体いつまで耐えればいいんだろう? 我慢していても、止めてもらえる保証はない。
強制的に自覚させられた。
こんな風に思い知らされるだなんて!
私が触れてほしいのは。
囁いてもらいたいのは――
アステル、助けて!
「――殿下? いらっしゃいますか?」
もう限界だと思ったその時、生け垣の向こうから鈴を振るような、澄んだ呼び声が聞こえてきた。私は弾かれたように目を開いた。
「ティナか……?」
手首を拘束していた力が緩んだ。その隙を逃さず王太子の手を振り解く。力任せに掴まれていたせいで、腕が痺れてジンジンする。
私は敵意を剥き出しに、再び王太子を睨みつけた。
「気分が優れませんので、これで失礼させていただきます」
出てきたのは、硬い声。
「送って行かなくていいのか?」
「せっかくのお心遣いですが、ご遠慮申し上げます。王太子殿下のお手を煩わせるわけには参りませんので」
恥ずかしげもなく言ってのける王太子に噛みついてやりたい気持ちをなんとか宥める。もう一度失礼いたします、と捨て台詞を残して身を翻し、私は聞こえてきた声とは反対の方向へ駆けだした。
身体の向きを変える寸前、目の端に銀色の髪をした女の人の姿が映ったけれど、今は私自身が誰にも姿を見られたくなかった。




