ベルディア王城 4
「緊張した~~~」
「お疲れ様でした」
廊下に出ると一気に脱力してしまった。
抱えてくれているアステルの肩にもたれかかると、労うようによしよしと頭を撫でてくれる。
「私、ちゃんとご挨拶できてたかな? あれでよかったのかな?」
「立派なものでしたよ。あれで充分です」
アステルが笑顔と共にそう言ってくれて、私はホッと息を吐いた。重い荷物を降ろした気分だ。
撫でていた頭から手を外し、アステルが私を抱え直す。
「それでは気分転換に屋上へ行きますか?」
「うん、行きたい!」
コクリと勢いよく頷いた。
一刻も早く外に出て、一仕事終えたサラリーマンのように疲れた心を、自然の爽やかな風と心安らぐ景色に癒してもらいたい。
私が手渡されたヴェールを被ると、アステルは屋上へ向かうべく歩きだした。
「空中庭園だ!」
屋上に出た途端、内から湧き出る欲求のままに叫んでしまった。
目の前に広がっていたのは、まさしく『庭園』だった。
ちょっとした散歩もできそうなほど広い屋上には、まだ雨でしっとりと湿った土が敷き詰められている。つやつやと光る草の間からは色とりどりの花が顔を覗かせ、天を目指すように生えている木々は大小様々。木の実を付ける樹には鳥が留まり、可憐な花が咲き誇る樹からは零れる花びらが、屋上を縫うように流れる小川に降り注いでいた。
今は私たち以外に誰の姿も見えないので、鬱陶しいヴェールは外してしまっている。
私は言葉もなく首を巡らせた。
アステルが『屋上の庭園』と言ったのを普通に聞き流していたけれど、見ると聞くとじゃ大違いだ。
頭上に輝く太陽。
雨上がりの青く澄んだ空。
白く薄い綿のような雲。
時折強く吹き抜けていく風。
どこを見渡しても、屋上を囲む壁越しには遮る物が何もない。
世界の果てまで広がって行きそうな胸打たれる光景には、地上を想起させる要素がさっぱり含まれず、まるで庭園が空中に浮かんでいるかのようだった。
一緒に景色を堪能していたアステルが、眼前の緑から私の方へ視線を移す気配がした。私はまだ庭園に心を奪われたままで、アステルに目を向けることができない。
「どうですか? 見事でしょう」
「うん……。本当に……」
私はまともな感想の言葉すら出ないほど、感動してしまっていた。
打ち震える心のまま景色に見惚れていると、アステルが私の額やこめかみ、それから目尻、頬に啄むようなキスを落としてくる。唇のすぐ下に口づけられたところで感動から引き戻され、慌てて仰け反った。
危うく落ちそうになったところを背中に回った手が支え、抱え直される。あ、危なかった。
狼狽しつつも、転落しては嫌なのでアステルの腕をしっかりと掴み、抗議の目を向ける。
「ちょっ、何してるの!?」
「すみません。あんまりかわいかったものですから」
かわいいって! その一言に、うぐっと息が詰まってしまった。
言葉通りのすみませんって様子じゃ全然なくて、まごつく私の反応すら楽しいという感じの輝く笑顔で、しれっと言い放つ。
油断も隙もあったもんじゃない。
「私、降りる!」
顔から火が出そうな行為と言葉で一気に心拍数が上がり、激しく動揺してしまった自分が悔しくて、私はじたばた暴れた。
私が必死の抵抗を示しているにも関わらず、まるで機嫌の悪いペットか何かを相手にしているように変わらない表情で対処するアステルは、一応という調子で宥めてくる。
「まあまあ、謝りますから動かないでください」
「もうしない?」
本当に? と念を押した。
「それは分かりませんが……」
そういう邪悪な台詞を、一点の曇りもない光を反射する鏡のような笑顔で言わないように!
「やっぱり降りる!」
心臓が保たない!! 私は再び暴れ出した。
それでもアステルは振り回されている私の手足を器用にいなし、ここら辺りが頃合いか、というような風情で懐柔作戦に乗り出す。
「冗談ですよ。それより今度は地上の眺めを見に行きましょうか」
せ、背中をさする手が憎い! 我知らず、怒りに打ち震えてしまった。
真意を探るつもりでじぃっとアステルの瞳を凝視してみれば、ふわふわのスポンジみたいに柔らかい目元に、吸収されるように受け止められてしまった。むむぅ、やっぱりこういうやりとりではアステルの方に一日の長がある。というより、経験的にも技術的にも雲泥の差があるといってもいいんだけれど。
私は潔く負けを認めてプイと目を逸らし、「行く……」と返事した。いつから勝負になっていたのか定かではない。
今イチ信用できないけれど降りるのは止めて、おとなしく連れていってもらことにした。
花の蜜を吸う蜂を指差しながら小径を進み、緩やかに流れる小川に架けられた橋を渡る。それから空を覆うピンク色のかわいい花を見上げてアーチを抜けると、突然視界が開けた。そこでアステルが一度歩みを止める。
下に広がる景色を楽しむためなのか、目の前にある一部分だけ庭園の周りを囲む壁が低くなっていて、そこには青い空の下に、遠く高い山の頂が覗いている。
アステルの肩に手を置いたまま少しだけ身を乗り出し、私はうわぁ、と感嘆の声を漏らした。
「ここから下を覗けるようになってるの?」
振り向いて問いかけると、答える代わりに一度優しく微笑んでから、アステルは壁に近づいていった。壁の高さはアステルのお腹辺り。
「高い所は平気ですか?」
「うん、大丈夫」
平気も何も、好きなくらいだ。なんとかと煙は高い所が好きというけれど、私はそのなんとかじゃないはずだと信じている。
とはいえ抱えられたままで下を覗くというのは何とも不安定なので、しっかりとアステルの首に手を回して地上を見下ろした。
「ひっっろいなぁ」
地上から吹き上げる風が髪を揺らす。
眼下の景色はとにかく広大だった。
片方を見れば、陽光を反射して虹色に輝く、硝子張りの宮殿みたいな温室があるし、その反対を向けば、周囲の景色を映す鏡のような湖に、水鳥が楽しそうに浮かんでいる。花の種類別に分けられているいくつかの庭園に、荘厳な聖堂まで建っていた。
どうやらこちらはお城の裏側に当たるみたいだ。
景色に目を向けたまま質問する。
「一体、敷地はどこまであるの?」
「敷地、と言えば目に見える範囲は全てそうですよ」
「えっ! じゃあ、あの森も?」
驚愕と共にアステルを振り向く。
「はい」
アステルは眼下に目を留めたまま答えた。それにつられるように、驚き覚めやらぬまま、私も再び地上へと視線を移す。
王城の周辺を、取り囲むように大きく森が広がっている。そんなところまでが敷地なんて規模が違い過ぎる。向こうの世界だったら税金が凄い額になりそうだ。あ、でも王様は税を取り立てる方の立場か。
王様って得だよなあ、と考えかけて、でもと思い直した。責任が物凄くて胃に穴が空きそう。うん、やっぱりお気楽な一般人がいいよね。
などと段々思考が明後日の方へ飛びそうになっていると、面白そうな物を見つけた。
そこへ向けて指を差す。
「ねえ、あれって迷路になってるの?」
お城の内外へ出入りできる外壁のない廊下の一部分から、迷路のような生け垣が続いているのだ。結構大きい。
湖の方を見ていたアステルが、その迷路へ目線を移動させる。そして、ああ、と得心したように頷いた。
「数代前の王が行事の折りにお造りになったそうですよ。どのような行事だったのかまでは知りませんが。幼い頃は俺たちもよく遊んでいました」
一体、なんの行事で造ったんだろう? 案外、酔狂な王様だったのかもしれない。
迷路はそれなりに複雑そうで、抜けた先は木々に隠れてここからじゃよく見えない。あそこへは迷路を突破しないと到達できないみたいだった。
既にぴょこんと顔を覗かせていた興味の芽が、アステルの言葉で成長を促され、一気に若木といえるほどの大きさになった。
どんな景色が広がっているんだろう? それに、迷路なんてとってもとっても面白そうだ!
若木はどんどん育っていき、今ではもう立派な大樹となっている。
そこでアステルがチラリと私に視線を投げかける。
「……先に言っておきますが、足が治っても一人で行かないようにしてくださいね」
幹にいきなり斧を打ち込まれた!
「えっ、何で分かったの?」
環境破壊反対! ギクリと肩を揺らしつつも、自然を守ろう運動におけるリーダーの心持ちでアステルを見上げる。
「どうして分からないと思ったのかが不思議です」
呆れたような表情を送られてしまった。
私ってそんなに顔に出ているんだろうか? ポーカーフェイスのクールな大人の女性を目指している身としては、軽くショックだ。
束の間、アステルの肩に置いた自分の手に視線を漂わせて黄昏れるも、すぐに顔の位置を戻した。
「でもお城の中は衛兵の人もいるし、安全なんでしょ?」
「確かに外よりは多少危険も少ないでしょうが、人気の少ない場所ですし安全だとは言い切れませんよ。それに貴女の場合は何を呼び寄せるか分からないでしょう。今まで自分がどれだけ危ない目に遭ってきたのか分かっているんですか?」
人を災難吸い寄せ体質みたいに言わないで欲しい。反発心を目に籠めながらも、内心では不味いな、と危惧の念を抱いていた。
この会話の流れでは、お小言コースに乗ってしまう。町へ行った時のお説教もまだだったし、ぶり返されては困るのだ。
「そういえばさ、話は変わるけど、謁見の時にベルナールさんがいたよね。見つけた時に手を振りそうになっちゃったよ。あれは危なかったなー」
胡散臭い笑顔を浮かべ、話題を変えることにした。かなりわざとらしくて強引だったけれど。
アステルは眉をしかめて、暫しの間疑わしそうに見つめてくる。
そんな顔をしていたら形の良い眉間に皺が寄っちゃうよ? 内心の軽口で胡散臭い笑顔を補強しつつ対応した。
そしてアステルがおもむろに口を開く。
「ベルナールといえば、貴女が魔術師を倒したと言っていたんですが……。魔力の無い貴女がどうやって魔術師に対抗できたんですか?」
藪蛇だ! 浮かべた笑顔のままで固まってしまった。そして私のドジ! と、自分の迂闊さを叱咤する。
そうだった。ベルナールさんはあの女魔術師を見ていたんだ。グアルさんには適当に誤魔化しておいたのに……。
実は足の怪我については、男の攻撃を避けようとして転んでザックリ切ってしまったと述べておいたのだ。原因が男じゃなくて女魔術師の創った砂狼だということ以外は、嘘じゃないしね。
ついでに腕の怪我についても、斬り落とされそうになったという事実は隠しておいた。
まあ相手が人攫いということは伝えていたし、それなりに大怪我だったこともあって、グアルさんに説明した事柄だけでも充分に心配はかけてしまったんだけれど。
あ、でもこの場面もベルナールさんはしっかり見ていたんだよなあ。なんたって助けてくれたんだもんね。じゃあ、もしかしたら腕を失ってしまっていたかもしれない、ということについてもアステルには伝わっているのかもしれない。
ううう、助けてもらった時にしっかり口止めをお願いしておけばよかった。でもあの時はまだベルナールさんがアステルと知り合いだったなんて知らなかったしな。
なんにしろ、砂狼に捕まって売り飛ばされそうになっていたなんて知られたら、またまた厄介だ。
私の全身は表面上は固まっていながらも、脳の方は勉強の時でもここまで早くなかっただろう、と思われるほどの必死さで回転していた。
さて……、どうやって切り抜けようか?
打開策も思い浮かばないまま、一般的には極短い、答えを求められたにしては長すぎる秒単位の時間が虚しく経過する。
そして猶予はもう充分与えたというように、ついにアステルがあの恐ろしいニッコリ笑顔を浮かべてしまった。
もはや条件反射でヒッ、と短く悲鳴を上げる私に、容赦なく釘を刺してくる。
「ベルナールからもある程度の事情は聞いています。誤魔化してもすぐに分かりますからね。正直に教えてください」
ああああそうだった! あの女の子が一部始終を見ていたんだ! 両手を頭に当て、ブンブンと首を振って地面を転がりながら絶望を表したくなった。実際はそんな風に逃げられるはずもなく。
「じゃあさ、今さら説明なんて要らないんじゃない?」
僅かに視線を逸らしつつ、恐る恐る言ってみた。
対照的にアステルは、嫌になるほど淀みなく答える。
「ある程度と言ったでしょう。貴女が助けた少女は恐怖に身が竦んでしまっていたそうで、詳しい経緯を見ることができなかったそうです。大まかな内容しか聞けなかったとベルナールは言っていました」
それを聞き、一瞬光明が見えたような気がして仰ぐように目を上げた。けれど次の瞬間にはやっぱり駄目だと考え直し、項垂れた。その大まかな内容っていうのがどの程度なのかが分からなくちゃ、誤魔化しようがないな……。
アステルがその内容を口にしないのも、私に辻褄合わせの話を作らせないためだろうし。迂闊なことを漏らしてしまったら、ここぞとばかりに矛盾点を突かれて余計な怒りを買いそうだ。
何だか尋問されている犯罪者が、言い逃れをひたすら考えているような気分になってきたなあ……。私は憂いを帯びた溜息を漏らした。
うぐぐ。こうなったら正直に口を割った方が身のためなのかもしれない。
でも人間、何事も諦めてはいけない。とりあえずは頑張ってみよう。
私はまなじりに決意を込めて、アステルと目を合わせた。もちろん盛り込まれているのは、なんとしてでも欺いてやるという不屈の闘志だ。
「魔術で攻撃されてね、その攻撃が当たる寸前でペンダントが光って、魔術が無効化されたんだよ。それを見て魔術師がショックを受けている隙に棒で気絶させたの」
うん、要するに具体的なことを言わなければいいんだよね。
「どんな魔術だったんですか? 属性は? 攻撃方法は? 」
駄目だった。
魔術の知識は皆無に等しい私がアステルの質問に適当な答えを返せるはずもなく、結局洗いざらい白状させられてしまったのだった。




