静寂の祭り 7
冬の日暮れは早い。
やたらと精神的な疲労を覚えながらアステルの部屋を出る頃には、もう窓の外に夕闇が迫っていた。
雪はいつの間にかすっかり止んでいる。
明かりを点けない廊下は薄暗い。吐く息は浮かび上がるように白く、寒さで思わず二の腕をさすってしまった。窓の外から感じる僅かな明るさを頼りに進まなければならないから、完全に暗くなってしまう前に部屋へ戻っておかないと。
アステルが送ってくれると申し出てくれたけれど、部屋へ帰るまでの間だけだからと遠慮しておいた。
ポスポスと、私が絨毯を歩く音だけが耳に届く。静かな廊下を進みながら、考える。
――さっきのことはどう整理をつけたものかな。
意識をしてもらうというのは、今まで見ないふりをしてきたことに、ちゃんと目を向けろということなんだろうけれど……。アステルは『嫌われているわけでもないのに、離れて行かれるのは納得いかない』と言っていた。
でも、でもだよ?
込み上げてくる強い感情を発散させるように、足元を見ていた視線をグイッと前方へ移す。私が自分の気持ちに向き合ってしまったら、アステルはどうするつもりなんだろう?
とてもかわいがってもらっていると実感はしている。けれどそれはあくまでティア・ダイヤモンドから頼まれたからだろうし、保護者としての義務感からきているだけなんだろうと思う。
大体、あれで私がコロッと参ってしまったら困るのはアステルの方だろうに。私の顔は再び重力に引かれ、レンガを乗せられたように俯いた。
私だってこの四年間、色々と知識を詰め込んできた。この家の人たちが身を置いている世界は、何よりも家柄を第一とすることを理解している。そしてその家格は同等、またはそれ以上の血筋との結びつきによって守られ、盤石なものとなっていく。私みたいなどこの馬の骨ともつかぬ、得体の知れない娘はお呼びじゃないのだ。
頭にのしかかっている重しがさらに重量を増してきた気がして、私は加わる力をいなすよう、思考の方向を斜めへずらすことにした。もうちょっと強気な方へ。そして今度は顎が仰け反るほどの勢いで顔を持ち上げた。我ながら忙しい。
「あんな風に色仕掛けなんてしちゃってさ!」
虚空へ威勢のいい声をこだまさせ、アステルのさっきの所行を憤りで包む。
うん。なんか腹が立ってきた。ムカムカする。何だよ、人の気も知らないで。ひっぱたいてやればよかったんだ!
両拳を握り締め、ファイティングポーズを取ってみた。
そうだそうだ。よし、さっきのことはもうなかったことにしておこう。そう自分に言い聞かせる。
自分でもまた逃げたな、とは思うけれど、さっきアステルに感じたフワフワとどこまでも浮き上がっていきそうな。全てを委ねてしまいそうになるような、どうにも頼りない気持ちを怒りへすり変えることで、なんとか平静を保つことができた。私はまだ、見ないふりをしていたかったのだ。
私は一度虚空へパンチを繰り出し、不毛な考えを切り替えた。
そうそう、部屋へ帰る前に、ヘンリー父さんがどうしているか見てこよう。ポン、と手を打ち、執務室へと足を向けた。もういないとは思うけれど念のため――
辿り着いた扉をノックする。
「――お父様?」
「桜か。どうしたんだね?」
返事があった。まだ残っていたんだ。
扉を開けると、暖かな空気が部屋から流れ込んでくる。暖気が逃げないように素早く部屋へ入り、急いで扉を閉めた。
暗く静かな部屋の中でヘンリー父さんは机の前に座り、横向きに頬杖を突いて窓の外をじっと眺めていた。パチパチと音を立てる暖炉の炎が、室内に落ちた影を揺らめいて見せている。私もヘンリー父さんにつられて窓の方へ目を向けた。
まだ薄青い空には一番星が輝き、沈んで間もない太陽は稜線を紫に彩っていた。山のすぐ上には闇色の混じった、空よりも色濃く厚い雲が浮かんでいる。降り積もった雪も雲と同じ色に染められて、窓の外には藍色の景色が広がっていた。
視線をヘンリー父さんへと戻し、口を開く。
「お父様、ずっとここでお仕事してたの?」
「いいや、仕事はすぐに終わった。それからここでぼんやりしていたんだ」
ヘンリー父さんは顔の向きを変えないまま答える。目線は窓の外へ固定されているけれど、ガラスを通して見えている世界は、私が目の当たりにしているものとは全く別物なんじゃないかという気がした。
今、何を考えているんだろう? ヘンリー父さんの横顔からは感情が窺い知れない。
こっちを向いてほしくて、私は言葉を続ける。
「アステルと話をしたよ」
「どうだったんだい?」
ここでやっとヘンリー父さんがこちらへ首を巡らせた。穏やかな顔をしている。それを見て少し安堵
した。
――あれ? 私は何かを不安に思っていたのかな?
自分自身に疑問を抱きながらも、私は苦笑してみせた。
「駄目だって……。やっぱり説得できなかった」
「まあそうだろうな」
「分かってて話し合ってみろなんて言ったの?」
表情に不満が出てしまった。だって、あんまりだ。グレてやるぞ? の気分。
ヘンリー父さんは僅かにかぶりを振り、薄く笑う。揺れる炎のせいか、輪郭が曖昧に霞んで見える。
「分かっていたというよりは、お前を引き留め得るのはアステルだけだと思ってね」
低く紡がれる声だけが、雪と暖炉の世界にヘンリー父さんが確かに存在している証拠だと思えた。
それをさらに確固たるものにしたくて、私はわざと声を出すべく言葉を反芻する。
「私を引き留め得る……?」
自分の声に、どこかで聞いたフレーズだと気づいた。どこだったっけ?
頭の隅で思い出す努力をしながらも、気になっていたことを尋ねる。
「お父様は私を引き留めたいの?」
「そりゃあ桜は私のかわいい娘だからな。傍にいられないのは悲しいよ」
口の端を僅かに吊り上げたまま目を瞑り、ヘンリー父さんは背もたれへ身体を預ける。
私はそんなヘンリー父さんの態度が気に食わなかった。あんまり悲しそうには見えないよ。
「それなのに王都へ行った方がいいって言うの?」
なんだかさっきから質問ばかりしている。
「元々、ローズランドにお前を置いていたのは、別の世界から来たお前が世間の目に患わされないように、又、アージュアに馴染めるようにするためだったからね」
目を開けたヘンリー父さんが穏やかに微笑む。肘掛けに両肘を突き、指を組む見慣れたポーズ。
確かに、ローズランドでは特に行動を制限されることもなく、自由気ままに過ごしてこられた。それはヘンリー父さんの教育方針が変わっているおかげでもあるんだろうけれど。
「もうローズランドでの教育も終わっている。いつまでもここにいる理由もないだろう?」
確認を取るように見上げられた。そりゃあそうなんだけれど。なんだかね。
「お父様も春には王都へ行くってアステルが言っていたけど、ずっと王都で暮らすわけじゃないんだよね? 一人でも平気なの? 私がいなくても大丈夫?」
相変わらず、私が口に出す言葉は疑問形ばかりだ。
「桜がいなくなると物静かになるだろうな……。しばらくは寂しい思いもするだろうが、すぐに慣れるだろう」
「じゃあ――」
続きの言葉が出てこなかった。思わず顔を伏せ、拳をぎゅっと握りしめる。
何を言いたいんだろう私は? 黙ったまま、一時もじっとしていない床に落ちた影が踊る様を見つめていた。
私の様子を訝しく思ったのか、ヘンリー父さんが椅子から離れて私の方へ近寄ってくる。視線の先で長い足が、うねる影を跨ぐ。私の両肩には手が置かれた。
頭上から、労るような声が降ってくる。
「私の身を心配してくれているのだね? ありがとう」
髪にかかる吐息が暖かかった。――そうじゃないの。
私の全てを覆い尽くすような声に包まれ、そのまま隠れていた感情を引き出されてしまう。
そうじゃないよ、ヘンリー父さん。今解った。
勿論心配ではあるけれど、私はヘンリー父さんに、ここにいてほしいと引き留めてもらいたかったんだ。この人は四年間、ずっと私を見守ってくれていた人だ。傍にいて、一番安心できる。アステルに抱いている感情とはまた違う場所で、どうしようもなくかけがえのない位置を占めている。
私は要するに、『お父さん』の元を離れるのが嫌なのだ。
……何それ。
気づいた途端、いたたまれなくなってしまった。顔中に熱が集まる。まるっきり親離れできていない子供じゃないか。自分からここを出ていこうとしたくせに、いざ離れるのを実感してしまうと心細くて仕方ないだなんて。
恥ずかし過ぎる。情けないことを考えていたと知られたくなくて、ヘンリー父さんに抱きついて顔を隠すことにした。広い背中に腕を回し、いつでも受け入れてくれる胸へ鼻先を押しつける。伝わってくる鼓動と、ヘンリー父さんの香り。
「私が王都へ行こうと思えたのは、お前のおかげでもあるんだ」
抱き留めてくれたヘンリー父さんが言う。
私もしがみついたまま答える。
「私の?」
「リディも傍からいなくなり、お前には随分と慰められたからね。お前の、王都での暮らしをしばらく見届けたいと思ったんだよ。これからは年に何度か足を運ぶこともできるだろう」
そうか。ヘンリー父さんにしてもらうだけじゃなくて、私も何かを返せていたのか。だったらもう、それでいいことにしておこう。胸にわだかまっていたモヤモヤが、与えてもらった温度で溶けていくのを感じた。布地に押しつけている私の頬が、笑みを作る。
「王城へも行くの?」
「ああ。王や殿下にご挨拶をしたいからね。お前も拝謁するんだろう?」
へ? 何それ?
思わずヘンリー父さんから身体を離し、困惑と共に見上げる。
「私が? そんなこと聞いてないよ?」
ヘンリー父さんの戸惑ったような顔が私を迎える。多分、今私たちは二人して同じ表情を浮かべている。
「しかし、以前から殿下がお前に会いたいと仰っていたそうで、これを機に紹介させていただくとアステルが言っていたんだが……」
青天の霹靂という名言が頭に浮かんだ。
「い、嫌だ! そんな偉い人に会いたくないよ、お父様」
ヘンリー父さんに縋りつき、私は必死で訴えた。子供の頃は王子様に会ってみたいなんて憧れたりもしたけれど、現実が見えている今は違う。緊張して粗相をするに決まっている。
お約束のように転んで、ウン千万とかする壺でも割ったらどうしてくれるのだ!
「大丈夫だろう。お前はちゃんと礼儀作法も身についているし、王や殿下はお優しい方々だ」
返ってきた反応を確認して、子供の重大事は大人にとっては瑣末事、を表すお手本のような態度だと、私は今の状況を忌々しく思った。
ヘンリー父さんは「気にするな」と言って穏やかに笑っている。気にするよ! 滅茶苦茶気にするって!
ああ、王都なんて行きたくない。やっぱり出て行ってやろうか? ……いやでも、アステルに見つかったら今度こそ無事じゃ済まないような気がする。うううう、アステルが王都行きの話をした時に、この件について黙っていたのは、絶対に確信犯だ。私が嫌がるのを分かっていたから。
この世の全てを呪ってしまいたくなった。でもとりあえずは。
――アステルの馬鹿!
私が往生際悪く嫌がっても、時間はどんどん過ぎていく。働ける時間は残り少ないのだから、となるべくお店に行く時間を優先させてもらった。
最後の日は王都へ発つ二日前。
「タバサさん、ディックさん。今まで私を雇ってくださってありがとうとざいました。本当に感謝しています」
お辞儀をしながらお礼を述べる。いかん、涙が出てきそうだ。下を向いていると溢れ出そうになるので、慌てて顔を上げる。
「何を馬鹿なこと言ってるんだい! こっちこそ、今まで手伝ってもらって随分助かったよ。ねえ、ディック?」
タバサさんがディックさんに同意を求めると、涙もろいディックさんはうんうんと頷きながらタオルで目を拭っていた。滂沱と涙を流している。
結局、この人たちには私の素性を明かせなかった。知られて辞めさせられるのが怖かったのだ。
でも、もしかしたら本当は解っていたのかもしれない。何故なら、二人は決して私の事情に踏み込んでこようとはしなかったから。知らないふりをしてくれているんならそれでいいよね。
ローズランドへ戻ってきたらまたいつでも雇ってくれる、とタバサさんが請け負ってくれたところで、私の涙腺は決壊した。それを見たタバサさんもおいおい泣きだした。
三人揃って号泣するという、これが映画なら画面の前で貰い涙を流すこと間違いなし! の超感動的な場面で、私の『道の始まり亭』で過ごす日々は締め括られたのだった。




