静寂の祭り 6
「もう出ていくなんて言いませんか?」
耳元に吐息を感じ、喉が勝手にヒェッと悲鳴を上げる。
私の根性なし! とは思うものの、頭は首振り人形のごとく勝手にコクコク頷いていた。それを見てアステルはやっと顔を離してくれる。同時に、私は自分の身体をぐるぐる巻きに縛っていた戒めから、解放されたような気分になった。
固まっていた身体が動くようになったので、回した腕を外し、絡め取られた指も解いておく。外す時にアステルが「残念」と言っていたのは聞かなかったことにしておこう。
なんとなく落ち着かなかったので膝から降りようとすると、「続きをしたいんですか?」と脅された。なんて卑怯なんだと思いつつも、おとなしく留まることにした。落ちた本はアステルが拾ってくれて、肘掛けの所へ暗号本と一緒に仲良く置かれてある。
「――大体、世間知らずの貴女が家を出て一人で暮らすなど、どんなに危険なことか分かっているんですか」
アステルが両手を私の胴に回し、脇腹の辺りで指を組み合わせながら言ってくる。今一番危険なのはアステルじゃないのか? とは思いながらも、それは口に出さない方が賢明そうなので黙っておいた。どうやらお説教モードが始まったらしい。
私はなんとか踏ん張ろうと、自分の意見を述べる。
「でもね、そういうのは日々を暮らしながら実践の中で学んでいくものだと思うんだよ。やってみないと分からないと思わない?」
「…………以前もそう息巻いて、馬から落ちたことがありましたよね。地面に叩きつけられる寸前でティア・ペリドットに助けていただいたのはどこのどなたなんです?」
ううっ、それを言われると弱い。呆れ果てたような目つきで淡々と事実を告げるアステルから、私はさっと視線を逸らせた。
正確にいうと、直接助けてくれたのはイヴじゃなくて梔子だ。残念なことに、最初に会って以来イヴの姿を見ることはなかったし、梔子を通して喋ってくれることもなかった。
ちなみに落馬した時の状況はというと。まだ駄目だと注意されていたのに私が無理矢理駆けさせて、馬が曲がった拍子に手綱を離してしまったのだ。しかも落下地点に岩があったので、間際に梔子が助けてくれなかったら大怪我じゃ済まなかったかもしれない。
まだまだ勘弁するつもりはないらしく、さらにアステルは私の過去の失敗を突きつけてくる。
「それから毒蛇に噛まれそうになって、助けられたこともあったんですよね」
私の目線はさながら磁石の同極同士が反発するように、ますますアステルから離れた。
この時も、森のこの地点には猛毒の蛇がいて、噛まれたら命を落としかねないから気をつけるようにと言われていた所へ、うっかり入り込んでしまった。足に噛みつかれそうになったところを梔子に助けられたのだ。
――はあ……。誰も見ている人がいなかったんだから、余計なことは黙っておけばよかったのに。なんで当時の私はわざわざアステルに報告してしまったんだろう? 今なら絶対に黙っている。まあ、心根が青竹のようにしなやかで真っ直ぐな私なんだから、しょうがないといえばしょうがないんだけれど。
「ちゃんとこちらを向きなさい」とたしなめられ、私はしぶしぶ顔の位置を戻した。すっかり保護者モードにシフトチェンジしたアステルの小言は、まだ続いている。
「最初に救っていただいたことも合わせて三回も命を危険に晒すなんて、今でも生きているのが不思議なほどでしょう。ティア・ペリドットが御守護くださっているからといって、少し注意が疎かになっていませんか?」
トドメとばかりに自省を促された。
さらに崖から落ちそうになった所を助けてもらったこともあるけれど、さすがにこれは内緒にしている。確かに、私は何かあったらイヴが助けてくれると思って警戒心が薄くなっている節がある。自分では気をつけているつもりでも、ここ一番での認識が甘くなっているのだ。
こう考えると、アステルが口うるさく諫めてくるのも仕方がないとは思えるんだけれど――
「でも、ここ二年は全然そんなこともないよ。私も成長してるんだって。そんなに心配しなくても大丈夫だよ」
私はどこかのおばちゃんが、ちょっと奥さん、と顔の前で手首を折り曲げるような仕草をした。平気、平気という意味を込めて。むしろ、イヴとの繋がりが切れていないか心配なくらいなんだよ?
そうすると、何故かアステルが片手で頭を抱えだした。どうかしたの。
私が首を傾げてアステル? と名前を呼ぶと、その本人は顔を俯けたまま、苦悩に声を絞り出すような調子で答える。
「……とても大丈夫だとは思えません。貴女の話を聞く度に、俺がどれだけ肝を冷やしていると思っているんですか。しかも少し目を離した隙に街へ働きに出るとは」
その点なら大丈夫、と私は首を大きく縦に振った。
「お店の旦那さんも奥さんもすごくいい人だよ。親切にしてもらってる」
太鼓判を押してあげよう。
それなのに頭から手を離しながらアステルは、道理の分からないことを言う。
「そういう問題じゃないでしょう。離れていると何をしでかすか分からなくて、心配でしょうがないんです。桜、俺が王都へ帰る時は一緒に来てもらいますよ」
一瞬、私は後半に申し渡された言葉の意味を考えてしまった。放たれた単語一つ一つを咀嚼するように、瞬きを数回繰り返す。
ええ?
そして反応を待つ青い目が見守る中、理解に至った私は首を絞める勢いでアステルの襟元を握り締めた。両手でガシッと。
「それってもしかして、私に王都で暮らせってこと?」
「そうです。もう殆どの事柄を学び終えたようですし、頃合いでしょう」
頃合いって言われても、それは困る。アステルと一緒に暮らすなんてことになったら、今までみたいな自由な外出なんて、させてもらえないに決まっている。
それに――
「嫌だよ。お店を辞めなくちゃいけなくなるのに」
私は負けじと言い募った。
「ここを出る時にはいずれにせよ辞めるつもりだったんでしょう」
「それはそうなんだけど……。でもお父様が一人になっちゃうよ」
『家』を出るならいざ知らず、城を離れるだけということならヘンリー父さんを独りぼっちにするのは嫌だった。
アステルが襟元を掴んでいる私の両手を包み込み、花を摘み取るように丁寧な仕草で外させる。
「これは父上の提案でもあります。本当はもっと早く迎えにくる予定だったんですが、忙しくて遅くなってしまいました」
強引に説き伏せるのではなく、諭す意味合いを含んだ表情と声音を向けられた。握り込まれた手が温かかった。一見さっきまでと似た怪しげな状況なのに、アステルが発している雰囲気が全然違っているせいか、焦るような感情は湧いてこない。
「お父様が言ったの?」
私はなんとなく、始めて幼稚園へ通う子供のような心境になってしまった。
「はい。それから今回は、父上も一緒に王都へ来るそうです。ずっと暮らすわけではないようですが、しばらく滞在する予定だそうですよ」
これにはびっくりして目を見開いてしまった。ヘンリー父さんは、今まで絶対に王都へは向かおうとしなかったのに。
「お父様、もう大丈夫なのかな?」
アステルに包まれたままの両手に額を持っていき、俯き加減で問いかける。
「理由は聞いていませんが……。もしかしたら桜と離れるのが寂しいのかもしれませんね」
心の中に浸透する、慰めるような口調でアステルが囁く。なんとなく情けない気持ちで顔を上げると、頭を撫でられた。
本当に寂しいと思ってもらえているんだろうか?
ふと、ヘンリー父さんの表情を見て罪悪感を抱いたことを思い出す。ヘンリー父さんの気持ちなんて考えもしなかった。こういうのを親の心子知らずというのかもしれない。
「そういうわけなので、春からは王都で暮らしてください。リディも喜びますよ」
励ますような発言には、ちょっと疑問を感じてしまった。リディが喜ぶかどうかは微妙だろうなあ。せっかくお兄様と暮らしていたところへ邪魔しにくるなんて、と逆に文句を言われそうだ。
でも、これ以上抵抗してもしょうがなさそうだ。どうやら決定の方向で進んでしまっている。
仕方がない、と私は腹を括ることにした。でも最低限の要求は通させてもらうぞ。
「分かった……。そうするよ。でもさ、それじゃあせめて王都へ行くまでの間、お店に通っちゃ駄目かな? それぐらいはいいでしょう?」
今度は私がアステルの手を取り、両手で挟み込んでお願いだ、とうるうる見上げてやった。憐れな懇
願を向けられた本人はうっと詰まった後に、仕方がないという観念したような表情を浮かべた。
「分かりました、いいでしょう。ただし、行き帰りに護衛は付けさせてもらいます」
「そんな! 今だって一人で行ってるよ」
「そうでなければ承諾しません」
きっぱり、という音が聞こえてきそうなほど決然と言い切られてしまった。くそ~~、足元見られた!
働きに行くのに護衛を伴うなんて、保護者に学校へついてきてもらうみたいで情けないのに……。最初の一ヶ月の時も終わってから、やっと外れたと思って喜んでいたのに!
アステルは葛藤している私をどうするのだ? と目線で促してくる。
悩み悩んでから、私は心に諦観を抱くことにした。
「……それでいいから行きたい」
「そうですか。頑張ってくださいね」
アステルは白々しくも、にこやかに微笑む。
い、いつか目に物見せてやりたい! 心の中でそう誓いつつ、ええ頑張りますよ、そうしますとも、と私はちょっとやさぐれ気味に胸中で吐き落とした。
それにしても――
またもや私の頭を撫でだしたアステルに、疑問をぶつける。
「アステル、私が働いてるって知ってたんだよね? よく反対しなかったね。知られたら辞めさせられると思って冷や冷やしてたんだよ?」
「俺が傍にいたら、もちろん職探しからしてさせなかったと思いますが。残念ながら離れていましたし、父上や侍女二人も味方についていたようなので、口出ししても無駄だと思ったんです。でも王都では働こうなんて考えないでくださいね。今度は途中で止めてあげませんよ」
さっきのことを思い出して、顔中に熱が集まってきた。赤くなった所を見られたくなかったので、慌てて顔を俯ける。
「――返事は?」
私の思考などお見通しのように楽しそうな声で、またもや耳元で囁かれた。勝手に背筋がヒエッと伸び上がる。
無駄に色気を振りまくんじゃない!
「分かった。分かりました! 絶対にしません!」
やけになって声を張り上げると、頭を二回優しく叩かれた。
心安らかに過ごすはずだった静寂の祭り――
ここまで心を乱されたのは初めてだ!!




