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空を映す海の色  作者: せおりめ
第2章
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回想録 1

「桜ちゃん、これ洗っといて!」

「はいっ!」

「それ終わったら、裏から小麦粉を出してきて!」

「は、はいっ!」

「あっ、その前に大急ぎでこれを持ってって!」

「はいぃっ!!」


 ローズフォール城から南へ馬を三十分以上走らせた場所に、ミルトという街がある。他の地方へと続く大きな街道沿いに出来た街で、ローズランドの交通の要所にもなっているため、中々の賑わいを見せている。

 街の入口には『道の始まり亭』という、六十がらみの夫婦が営む、こじんまりとした食堂が建っている。

 この街に訪れる人間は、まず『道の始まり亭』を目にし、空腹を覚えて店に入っていく。通常、こういった店は宿屋も兼ねているものだが、そのような立地のよさもあり、食堂としてだけでも充分やっていけているようだった。

 店主の妻、タバサは思い出す。寒い雪の季節に桜が初めて店に現れた時、この娘は上流の人間だとピンときた。

 護衛らしき体格のよい男を伴い、黒い色の目を物珍しそうに輝かせ、キョロキョロと店内を見回しながら濃い青色の髪をした娘が入ってきたのだ。自分たちに近いラフな服装をしていたが、それでも生地は数段上等そうだった。恐らく、お忍びで街に遊びにきたというところだろう。

 タバサは長年の客商売で培ってきた観察眼で鋭く分析したが、そんなことなどおくびにも出さず、他の客に対する時と同じように声をかけた。

 娘が何かお勧めの物はないかと訊いてきたので自慢の煮込み料理を出してやると、美味しい美味しいと、大層感激した様子で食べていた。

 美味いのは当然だ。主人のディックが作る料理は世界一だと自負している。それでも、上流の人間にも自分たちの料理が通用するのだと思うと、大いに気分が上向いた。

 娘は食べ終わった後に勘定を済ませ、とても美味しかったと褒め言葉を残して出ていった。

 その日もいつも通りに忙しく、夕方前に本日分の食材が切れ、店仕舞いになる頃にはそんな娘のことなど頭から消え去っていた。

 店の前に置いてあった看板を中に仕舞い、一日の売り上げを確かめている時に「すいません」と声が聞こえた。

 この店は他の店よりも閉まる時間が早い。それを知らない客が、閉店後に訪ねてくることもたまにあった。この時もその類だろうと思って扉を開けると、あの時の娘が立っていて、タバサは軽く目を瞠った。

 護衛の姿は見えなかった。娘は緊張した面持ちで、まずは突然の訪問に対する詫びを口にした。

 次に少し躊躇った後、出てきた言葉にタバサは度肝を抜かれた。


「ここで働かせていただけませんか?」


 娘が不安そうに、しかしタバサの目をまっすぐに見つめて懇願する。

 その時、店の奥からディックの「どうした?」という声が聞こえてきたのを切っかけに、立ち話もなんだからと中へ入ってもらうことにした。

 椅子と茶を勧め、奥から出てきたディックと共に話を聞く。

 娘はある屋敷に厄介になっているが、いつまでも世話になっているわけにもいかず、職を探しているのだと説明する。ここの料理と雰囲気が気に入ったので、通いで働かせてくれないかと言うのだ。

 しかし、どこのお屋敷で世話になっているのかを尋ねても口を濁して答えようとはせず、世話になっているだけだと言い張る割には仕草に品が漂い、世事にも疎そうな、いかにも大切に育てられてきたお嬢様という雰囲気だ。

 ディックを窺うと、金持ちの酔狂に付き合うのは後免被る、とその表情が語っている。

 タバサも同じ気持ちだった。


「あんたは大事にされていそうだし、無理に働く必要もないんじゃないかい?」


 タバサがそう諭すと娘は縋りつくような表情で、そんなわけにはいかないと食い下がってきた。

 自分は生活に必要なことが何もできないので、それを身につけたいのだと。ただ働かせてくれるだけでいいから、給料もいらないからと訴える。

 金持ちの暇潰しに付き合っている余裕はない。こちらは生活がかかっているのだ。タバサはそう断ろうとしたが、それよりもディックの声が早かった。


「分かった。そこまで言うんなら、明日から来ればいい」


 娘は喜び、礼を述べて帰っていったが、タバサは目を剥いて怒った。あまりの勢いにタジタジと後ずさるディックを追い詰め、半ば脅迫するような形で問い質すと、どうせあんな娘が働けるはずがない。せいぜい保って半日なのだから、面倒なことはさっさと済ませてしまえばいいという目論見らしかった。

 確かに一理あると、タバサはしぶしぶ了承した。


 果たして娘は翌早朝にやってきた。吐く息は白く染まり、頬は寒さのせいなのか、それとも働くことに対する高ぶる気持ちのためなのか、熱く紅潮している。どうやら街の門が開くと同時に入ってきたらしく、その張り切り具合が窺える。それがいつまで保つか見物だと、タバサは少々の苛立ちからくる棘のある気分で思った。

 しかし娘は予想に反してよく頑張った。

 何もできないというのは本当で、竈の火を熾すにも手際が悪く、煙ばかりを上げている。水を汲めば重さに耐えきれずに撒き散らす。文字通りの役立たずだった。

 それでも娘は、分からないことは見て訊いて学ぼうとし、水は一回に汲む量を減らして運ぶ数をこなした。

 さすがにこれには耐えられないだろうと考え、タバサは鶏の捌き方を教えることにした。しかし娘は血抜きの方法に目を回しかけ、首を切る段階で卒倒しかけたが、なんとか最後までやりきった。後に話を聞くと、あの時は怖かったと笑いながら話していた。

 その後も娘は着々と仕事を覚えていき、一月も経つ頃にはもうすっかり店に馴染んでいた。

 しばらく一緒に過ごして分かってきたことだが、娘の感覚は上流の人間というよりも、自分たち庶民の方に近い。給料は要らないと言っていたが、働きに応じた報酬は支払う義務がある。初めて給金を渡した時も大袈裟なほどに喜び、世話になっている者たちに土産を買うのだと張り切って帰っていったのだ。

 それは、そこらにいる子供が初めて報酬を得た時の反応と同じものだった。とても金持ちの娘だとは思えず、奇妙に思ってタバサは首を捻った。

 娘が働き出して数ヶ月が経った夏のある日、客が数年前から領主の城にいる、天海の彩の姫について話をしているのをタバサは聞いた。噂では知っていた。一時はユヴェーレンが住み着いたのではないかという憶測話も出ていたが、どうもそれは違うようだった。

 なんでも気さくな姫で、城の麓にある村にも頻繁に遊びにくるということだった。物見高い街の者が何人か見に行ったこともあったが、姫に近づく前に、村の者に悉く阻止されてしまったらしい。

 客はその姫の名前は『サクラ』といい、隣国の出身らしいと語っていた。娘の名前も『桜』というので珍しい名前だと思ったが、偶然というのはあるものだ、とその時は面白く思っただけだった。

 しかしある時タバサは目撃してしまう。背後に自分がいることに気づかなかったであろう娘が、休憩時間にカツラを外しているところを。

 そして現れた髪の色は黒く、タバサは娘が件の姫であることを確信した。

 タバサは事の次第を急いでディックに報告した。そしてこれから娘に対してどういう態度を取ればいいかを話し合った。

 城の姫を働かせるなどと、領主は知っているのだろうか? 発覚したら何か罰を受けるのではないだろうか? 不安が瞬く間に膨らんでいったが、娘の今までの振る舞いを思い起こして急速に萎んでいく。

 娘は最初に言っていた通り、ただ働きたかっただけなのだろう。どのような事情があるのかは分からないが、娘が隠したがっていることを、わざわざこちらから暴く必要もない。

 今まで通り、自分たちにもよく気を使い、楽しそうに働いている、少し風変わりな娘として接していこう。そう二人で頷き合った。


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