花の庭
「――見えてきたわね、鬱金」
鬱金のたてがみが、後方へ流れる強い風にたなびく。
鳥たちよりも遥かに高い上空から眺める眼下には、波のようにうねる草原が広がっている。この世界には他の風景などそんざいしないのではないか。そう思えるほどに地平線の果てまで、見渡す限りが緑の絨毯で覆い尽くされていた。
ただ一つ、不自然なほど当たり前に建っている、低い柵で囲まれた煉瓦造りの家がある以外は。
鬱金は柵の外側に向けて風を切りながら滑空し、音も立てずに着地した。私も鬱金の背から飛び降りる。温かく柔らかな毛並みからは離れがたかった。
視線よりも上の位置にある鬱金の顔を振り仰ぐ。
「呼ぶまで自由にしていなさい」
手を伸ばして顎を撫でるとゴロゴロ喉を鳴らし、有翼のライオンは空の彼方へと舞い上がる。鬱金の羽ばたきが残した旋風に乗ろうかというように、周りの草々がさわさわと揺れ動いた。
顎を仰け反らせたまま、点になった鬱金が視界から消えたことを確認すると、私は後ろを向いて家を眺めた。
太い枝を組み合わせ、家を円状にぐるりと取り囲む柵。高さは私の胸くらい。内側には植物が生い茂る広い庭、その片隅には小さな家が、木々を見守るように建っている。
ここへ来るといつも思うけれど、根暗なあの子がどこまでも遮蔽物の無い、この場所へ居を構えているのが信じられない。鬱蒼と生い茂る森の中にでも住んでいる方が、あの子の印象にも合う。
もう条件反射のように何度も抱いた感想を巡らせ、私は柵の扉を押し、庭へ入っていった。
柵の内側、その広大な庭には色、大きさ共に様々な種類の花が溢れ返っている。赤、紫、黄、白、オレンジの可憐な花が、地を這うように全体を覆い尽くし、点在する背丈の高い大輪の花を見上げている。蔓を這わせた棚からは、優美な青い花々が房状に垂れ下がり、その一角だけ別の空が現れたようになっていた。
風がそよぎ、周囲に花の芳香を漂わせる。
見事なこの庭の風景は、どの季節に訪れても変わらない。いや、この庭に季節の移ろいはないのだ。
私は一度足を止め、辺りを見渡した。
「イヴ、いる?」
再び歩き出し、花に囲まれた小径を抜けながら家の方へと向かう。
「ここにいる……」
陰気な声が鼓膜に取り憑いた。
目的の人物は、柵の側に植えてある、背丈の低い樹の下にひっそりと佇んでいた。心なしか、そこだけ空気が暗くなっているような気がする。枝から降り注ぐ白い花びらと相まって、なんとも不気味な雰囲気を醸し出していた。いつもながら気鬱な光景だ。おや? しかし今日はいつもとはどこか違う。
私は眼を細め、イヴの方へと近寄りながら、影に囲まれたようなその姿を観察した。
ローブのフードは外れている。これはよくあることだけれど、今のイヴは前髪を横に流し、若葉のような色の目を露わにしていた。おどおどと、窺うような上目遣いで私を見ている。同じ高さに位置するはずの、微妙に外された視線が合うことはなかった。
しかし珍しい。いつもならあの目は鬱陶しく隠されてあるのに。
だがその些細な感慨も、イヴの肩にかわいらしく乗っている使い魔が目に入った途端、私の中では塵芥の如くにどうでもよくなった。
「梔子! こっちへいらっしゃい」
「ピルルルルルル」
独特の笛のような声で嬉しさを表し、梔子は以前の主人である私の元へ飛んできた。前に突きだした左腕に軽い重みを感じると、八角形のペリドットがキラリと瞬く。
ああ、なんて幸せな重さなんだろう。右手の人差し指を甘噛みする梔子に、愛しさが溢れ出して止まない。
私は頬をくすぐられてうっとりと目を瞑っている梔子に、子守歌でも聴かせるような声音で語りかけた。
「イヴにはちゃんとかわいがってもらっているかしら? いつでも戻ってきていいのよ」
「駄目……。返さない……。ちゃんとかわいがってる……」
地下から染み出してくるようにぼそぼそとしたイヴの声は、天から降りてきたように可愛らしい梔子から紡がれている。耳に心地悪いその響きは、私の細く尖った場所を刺激した。
「以前から何度も言っているでしょう。イヴ、他の人間の前では仕方がないけれど、私の前では自分の声で話しなさい。そうでないと梔子は連れて帰るわ」
不愉快だ。私は梔子自身の、楽の調べのような声を聞きたい。
イヴは私の言葉におたおたと慌てていたが、こちらに向けて不安の色が括りつけられた目線を飛ばし
「分かった……」とイヴ自身から発したか細い声で呟いた。それを確認し、頷く。梔子に免じて許してやる。
全く、自分で喋ることができるくせに、梔子を自分の代弁者にするなどと、かわいい梔子の声に対する侮辱でしかない。それでも梔子は毛艶も良く健康で、機嫌もすこぶる麗しい。
梔子が認めていなければ、早々に引き離すところなのに。
そこで私は、ここへ来た本来の目的を思い出した。梔子の頭を指先で撫でながら口を開く。
「イヴ、いつものやつ頂戴よ」
「分かった……。ちょっと待ってて……」
心得た様子でイヴがのっそりと家に入っていった。その間、私は思う存分梔子をかわいがる。
ああ、この子をイヴに譲ってしまった時は、これで本当に良かったのか? いや、これも梔子の望んだことなのだと何度も自問自答したものだ。そして梔子が幸福そうに過ごしている様を確認し、これで良かったのだと自分を納得させているのだ。
「お待たせ……」
もう少しゆっくりしてくれても全然構わなかったのだけれど。いつの間にか戻って傍にいたイヴから茶色の包みを受け取る。この中には、ここの庭で採れる果実を乾燥させた物が入っている。うちの使い魔たちにこれをあげると喜ぶのだ。そして精神的にも安定する。自分でも栽培を試したことがあったけれど、どうしても実を付けず、泣く泣く諦めてしまった。イヴにコツを聞いてもどうも要領を得ない。イヴでなければならない何かがあるのだろう。
「ありがとう。皆喜ぶわ」
「――桜に会った……」
朗読でも始めたかのように唐突に呟かれ、私は一瞬、誰のことか分からずに考えてしまった。無邪気に毛繕いしている梔子に目を留める。梔子色の鳥は首を百八十度後ろに回し、背中の羽毛を突いていた。
ああ可愛らしい。
ではなくて。
桜? 桜って、あの少女のこと?
私はイヴに視線を移した。相変わらず目がかち合うことはない。
「どうしてあんたが桜に? どこで会ったの?」
「ローズランドの森で……。鬼に襲われてた……」
イヴはまずいといいたげに、はずれている視線をさらに横へずらしながら答えた。
鬼のような力のあるモノが、ローズランドをうろうろしているはずがない。大体、あの辺に魔物は出ない。
「――逃がしたのね?」
イヴは私の言葉を聞いた途端、ビクリと肩を震わし、隠れるための木を探そうときょろきょろ辺りを見回している。この子はすぐに隠れようとするから始末に負えない。
私はさらに詰問した。
「ちゃんと助けたんでしょうね?」
「鬼は退治した……。桜の傷も治した……」
イヴはなんとかその場に踏みとどまり、コクコクと頷きながら答えている。まあ、無事だったんなら構わないか。それに桜の命が消える間際であれば、私にも判る。
そこで突然、頭の中を風が吹き抜けたように閃いた。
「もしかして、あんたが珍しく目を出しているのも桜が関係しているの?」
「髪も……目の色も綺麗だって言ってくれた……。その方がかわいいって……」
恥ずかしそうに目を伏せながら言葉を零している。この子が照れているところなど初めて見た。
確かにイヴはもっと容姿に自信を持っていいのだけれど、極端に内気なせいで自分の顔を人目に晒すのが嫌なのだ。
そのイヴの顔を見るとは、桜も中々やるものだ。ただの甘ったれではなかったらしい。片足立ちになり、もう片方の足で何かを招くように、素早く首を掻いている愛らしすぎる梔子を目端で捉えながら、私は感心した。
興奮を抑えきれないように上ずった声で、イヴは言い募る。
「と……友達にもなった……」
顔を見せたなら、イヴからしてみれば当然そういう結論になるのだろう。
けれど出てしまったこの単語。イヴの中ではいずれそう間を置かず、心の友と書いて『しんゆう』と読む関係に昇格していくはずである。本来ならば、それは信頼や尊敬を伴い、両者の間を繋ぐ美しい『絆』という道を行き交う、素晴らしい感情であるのだけれど、イヴの思い込みに相手の意志など介在する余地はない。彼女にとってそんなものは必要ないのだ。イヴは中々心を開かないが、一度懐いてしまうと相手が嫌がろうがなんだろうが強力な吸盤のように食らいついて離さない。私もどれほど鬱陶しい思いを乗り越えてきたことか。
恐らく桜の動向は常に把握しているだろう。もうあの子は、イヴから逃れることはできない。
気の毒に。
私はここにいない桜に向けて哀れみの念を送り、その気色が残る声音で問いかけた。
「あんたもしかして、桜に目印付けた?」
「うん……。額に……」
当たり前の道理であるというように、イヴが小さく頷く。
そして陰からこっそり見守っているというわけだ。執拗に。まあ文字通り、守りにはなるのだろうけれど。
「桜は危なっかしい……。あれじゃいつか死んでしまう……。放って置きすぎ……」
イヴは私がなんの守りもせずに放置していると言いたいのだろうけれど。
「魔術に対する守りは持たせてあるわ。他から悟られないように隠してあるけれど」
「そうなの……? 気づかなかった……。でも物理的には守られてない……。鬼にも爪でやられてる……」
明後日の方向を向いたたまま、恨めしそうに不平を並べてくる。イヴの癖に生意気な。
「物理的なことについては公爵家が守るでしょう? そこまで面倒は見ないわよ。大体、桜が危ない目に遭ったのだってあんたが鬼を逃がしたせいでしょうが」
「……」
イヴは反論できず、俯いて黙り込んだ。私に逆らうなど百年早い。――と思ったら、おや? 顔を上げて真っ直ぐにこちらを凝視してくる。
滅多に合うことのない、ぶつかる視線は岩をも砕きそうに強かった。内気だろうが、性質が怪しかろうが、この子も石に選ばれたユヴェーレン。世界の平定者。
私はその事実を久方ぶりに思い出した。
瞳に宿した堅固な力を放つように、イヴが声を振り絞る。
「とにかくっ! 桜が危ない時は私が守る……」
最初は勢いが良かったが、最後は尻すぼみ。まあイヴにしては上等。この調子では既に、心友まで突き抜けてしまっていそうだ。
もう手遅れか。桜も可哀想に。
しかしイヴに暴走されてはたまらない。私は一人で高ぶっているイヴに、釘を刺すことにした。
「守るのはいいけれど、桜が思い出すまで直接会っては駄目よ。あんた、余計なことを言って条件を満たさない内から私に会わせそうだし。それまでは梔子を介しなさい。それから、例え梔子越しでも会話は駄目よ」
私の言葉を聞いてイヴは目を見開き、微動だにせず固まっている。まるで歯車に布が噛んでしまった機械人形のようだった。驚愕しているようだが、これを許してしまったらイヴが直接会うと同じことになってしまう。
私が答えを待つように容赦無い眼差しで見つめていると、ようやく衝撃という名の布が取り除かれたのか、イヴは動きを取り戻し、やがて諦めたように嘆息した。
「――分かった、そうする……。あ、誰か今、桜の額にキスした……。私が目印付けた場所なのに……」
再び俯いてぼそぼそ呟いているイヴから、黒い煙のようなものが湧き出しているような気がする。
「……あんた、やっぱり守るのも最低限にしなさい。命の危険が迫るまで、絶対に手を出しちゃ駄目よ」
「そんな……」
「絶対に駄目! あんた桜の邪魔しそうだわ。余計なことしたら、この先口をきいてやらないわよ」
しつこいイヴに、私は奥の手を出した。この子はまずこれに逆らえない。
しかし思惑通り口を噤みはしたけれど、まだ上目遣いに見てくる。泣きそうになりながらも今日は頑張るではないか、とある種の感動を覚えた。
しかしこちらも譲る気はない。私は静かにかぶりを振った。機が熟すまで、イヴに掻き回されては都合が悪いのだ。
イヴがこちらに一縷の望みを託すような目を向ける。
「桜は……。思い出した後……。ここを選ぶ……?」
「それは公爵家の息子次第でしょうね。じゃあそろそろ帰るわ」
イヴに背を向け、にべもなく言い放つ。
正直、桜が向こうへ帰ろうが、ここへ残ろうが私の知ったことではない。公爵家の息子への義理はもう果たしたのだ。後は時を待つだけ。
かわいい梔子は、私が一撫でしてさよならを告げると、しょんぼりしているイヴの元へ帰ってしまった。
名残惜しい……。
柵の扉へ向かって歩き出す。
――さあ、帰ろうか。かわいい使い魔たちが待っている。まずは鬱金に戻って来てもらわねば。




