森に閃く春の色 6
「――ティア・ペリドットが助けてくださったんですか……」
アステルが深い感慨を噛み締めるように、ポツリと呟く。
私が喋っている間、アステルは一言も口を挟まなかった。とはいえ森へ入ったこととか、鬼に襲われたくだりを話した時は、眉に深い皺を刻んでいたから冷や冷やしたけれど。
それからイヴについて話す時に、うっかり名前の方を漏らしそうになってしまった。でも喉が詰まったように声が出なかったのだ。イヴが名前に錠を掛けたと言っていたのは、こういうことなんだ。
そのまま何事かを思い巡らすような顔を向けてくるアステルに、私は首を傾げてみせる。
「そうそう。それで色々教えてくれたんだけど、肝心なことは自分で思い出しなさいなんだもん。そう言われても、見当つかないんだよね」
「思い出す条件とやらにも、何か心当たりはないんですか?」
「全然。それが分かったら苦労しないって」
本当に、ヒントでもあればいいのに。そもそも、どうしてティア・ダイヤモンドはこの世界へ私を呼んだんだろう? 何かさせたいことがあるから、思い出すのに制約なんて付けたんだよね。私みたいなか弱い女の子にできることなんて、たかが知れていると思うんだけれど。
またもや答えの出ない考えを蒸し返して、頭を捻ってしまう。そんな私を眺めながら、アステルが口を開く。
「桜が思い出す条件を満たした時、どのようになるんでしょうね?」
どのようにって?
もういつも通りに微笑んでいるアステルの、言葉の意味がよく分からなくて、問いかけるようにパチパチ瞬いた。
「――いえ、思い出した瞬間、強制的に帰らされてしまうのか。それとも、ティア・ダイヤモンドの元へ辿り着ける何らかの方法を思い出し、自らそこへ赴くようになるのか。まあティア・ダイヤモンドがお越しになるという可能性もありますが」
ナルホド。そこまで考えたことはなかった。思い出したら帰れるってことにばかり目がいっていたな。
「もし、自分で帰るか帰らないかの選択ができるとしたらどうしますか?」
一瞬動きを止めて、まじまじとアステルの顔を注視してしまった。見返す綺麗な青い目は温かくて優しいままで、それ以上の情報は読み取れない。なんでそんなことを訊いてくるんだろう?
掴めないアステルの意図に、私はどう返事しようかと困ってしまった。
答えを探し求めるように、視線があちこちを彷徨う。
そういえば、イヴは「帰るという選択肢を選ぶことが……」と漏らしていた。言葉は終わりまで続いていなかったし、あの時は深く考えなかったけれど、それは今アステルが言っていることと同じなんじゃないだろうか?
そこまでを思って、はたと気づいた。
困る?
私さっき、どうやって答えようか困るって考えた?
いやいやいや。
どちらを選ぶかと質問されても、そんなもの答えは決まっている。私はおじさんたちの所へ帰りたいんだから。みんなに会って思いっきり甘えたいし、それに絶対心配しているに決まっているもの。ちゃんと無事でいるんだよって安心させてあげたい。
――でもじゃあ、どうして鬼に襲われた時に浮かんできたのが、おじさんたちじゃなくてアステルの顔だったんだろう? なんでアステルに会いたかったんだろう?
無自覚に、視線がアステルの目に留まる。視界を占めているのは、晴れ渡った空のように穏やかな、深くて青い色。
私は意識して右手を持ち上げて、肩にかかっている髪を掴んだ。今浮かんでいる考えを握りつぶすように。
――多分、おじさんたちより近くにいるのがアステルだからだ。そうじゃないと、たった三週間くらいしか一緒にいなかった人を、まるでこの上なく慕っているみたいに思い浮かべるわけがないじゃない。それにアステルはお母さんだし……うん。
私はやけに重いと感じられる口を開き、意志をはっきりさせるため、祈るような気持ちで言葉を声に乗せた。
「……そんなの、帰るに決まってるじゃない。向こうの家族に会いたいよ」
音にした言葉には不思議な力が宿るという。実現させる方へ向かおうとする、その流れを作り出す原動力。
どうか、私がおじさんたちに巡り会うことを諦めませんように。その意志を保ち続けられますように。
帰ると口に出しても、アステルの目にも表情にも、これといって大きな揺れは生まれない。どう思っているんだろう? 続きを催促されたわけでもないのに、喉が勝手に私の感情を紡ぎ出す。
「だからって、アステルたちとお別れすることが寂しくないわけじゃないんだよ? でもやっぱり私の世界は向こうだから……」
少しだけ語尾が震えた。なんでこんなに言い訳じみているの? 帰りたいっていうのは最初から言い切っていたことなのに。
「そうですね。変なことを訊いてすみません」
アステルの声はいつも通り落ち着いている。この返答で、何故か勘弁してもらえたと感じた。それに心のどこかが安堵している。
なんで。どうして?
私はいつの間にか俯いてしまっていた。顔を上げられない。アステルが今、どんな顔をしているのか分からない。でも自分が泣きそうな、歪んだ表情を浮かべているのはよく理解できた。
鼻の奥がツンとしてくる。嗚咽が込み上げる。
きっとアステルが悪いんだ。あんなことを訊いてくるから、寂しいような切ないような気分になってしまったんだ。
グスンと一啜り。
腹いせに鼻水つけてやるっ! むくれた気分が命じる通り、俯いたままアステルの腕に顔を押しつける。そうしたら片手が腰の下に回ってきて、ぐっと膝の上に持ち上げられた。そのまま別の手で頭を押さえられ、ぎゅっと抱き込まれる。額を押しつけている胸からは、トクトクと規則正しい鼓動が伝わってきた。身体からふんわり力が抜けていく。代わりに、アステルの服を掴む手に力を込め、目を閉じた。
「――アステル、頭撫でて」
顔をアステルの胸に埋めたままで、偉そうに指図してやった。落ちこませた責任取って。
さっきからアステルの顔を全然見ていなくて、やっぱりどんな表情をしているのかは分からない。でもアステルは黙って撫でてくれた。もしかしたら甘え過ぎだって呆れられているかもしれないけれど、私のせいじゃないんだから知ったこっちゃない。
段々と、私の心臓もアステルと同じリズムを刻むようになってきた。
イヴはなんで最後に「くじけないで」なんて言ったんだろう? 忘れている記憶の中に、くじけそうになるくらい辛いことがあるのかな? それとも、思い出すための条件の方に関係があるのかな?
もしも私が向こうの世界に帰れた時、ここでおじさんたちを思い出して恋しがっているように、アステルにもひたすら会いたくなったりするのかな?
ああもう、やめやめ。今こんなことを考えたって仕方がないじゃない。思い出してからの話だよ。今日は大変な一日だったんだもの。ややこしいことを考えていたら余計に疲れてしまう。
でも……
もたれかかっている胸にほっぺたを擦り寄せる。思ったよりも叱られなくてよかったな。
鼓動の音も、暖かい体温も、頭を撫でてくれる手の感触も快くて、私は小さな子供みたいにそのまま眠ってしまった。
朝起きると、私はしっかりと自分のベッドで寝ていた。しかも服まで夜着に変わっている。多分、着替えさせてくれたのはエレーヌかソフィアなんだろうけれど、それでも起きなかったというのは自分でもどうなんだろうと思う。
今日はとうとうアステルが王都へ帰ってしまう日。ちゃんと笑ってお見送りしなければ。そのためにはまず、たっぷり腹ごしらえしとかなきゃね。大体、昨日は晩ご飯も食べずに寝てしまったから、かなりお腹が自己主張しているのだ。
「おはようございます。昨晩はよくお休みでいらっしゃいましたね」
今朝もおしゃれなエレーヌに朝の支度をしてもらって、私は食堂へ朝ご飯を食べにいった。
「――お兄様、お気をつけて行ってらっしゃいませ」
リディが名残惜しそうにアステルのほっぺたへキスしながら、お見送りの挨拶をする。
「行ってきます。リディも身体には気をつけて」
おでこにキスを返しながらアステルが微笑みかける。
朝ご飯を食べた後はいよいよ出発の時間。私がここへ来る時は馬車三台の大所帯だったけれど、今回は一台しか見当たらない。やっぱり、私が不自由しないように色々と気を配ってくれていたんだな。改めて、アステルに感謝の念を贈っておいた。
あらら、リディが涙ぐみそうになってるよ。大好きなお兄ちゃんとのお別れなんだもんね。というか、毎回こんな調子なんだろうか?
今はヘンリー父さんもアステルを見送るために出てきている。鷹揚に声をかけていた。
「道中無事で。元気でな。王と殿下に無沙汰の詫びを、くれぐれもよろしくお伝え申し上げてほしい」
「わかりました。お伝えいたします」
アステルはヘンリー父さんに、しかと頷いてみせた。
さて、次はいよいよ私の番だ。
「アステル、気をつけて行ってきてね。私はここで頑張ってるから」
アステルは私に向き直って苦笑する。何かな、その含みのありそうな表情は。
「桜、俺に貴女の行動を縛ることはできません。――ですが、あまり無茶なことはしないでくださいね」
う……最後の最後でまた言われてしまった。今までしでかしてきた自分の行動が浮かんできて、反省しろとばかりに私を押し潰してくる。
でもそれをえいやっと弾き飛ばし、気を取り直した私は満面の笑顔で請け負った。
「大丈夫、大丈夫。もう危ないことはしないって」
それなのにアステルは、疑わしそうな目付きを返してくる。信用ないな。まあ今までのことを考えたら、無理もないんだけれど。
――そんなことよりも、だ。
ちょいちょいと手振りで、頭の位置を低くしてもらえるように頼む。「なんですか?」と穏やかに心を広げるような笑みを浮かべながら、アステルはちゃんと私に顔を近づけてくれた。うんうん。そこならしっかり届く。
私は少し背伸びをして、アステルの肩を支えにしながらほっぺたに唇を寄せた。
へへん、どうだ。行ってらっしゃいのキスだぞ。
唇を離して得意げな顔を作ってやったら、アステルは少し目を見開いた後、優しく微笑しておでこにキスを返してくれた。
「行ってきます」
「元気でね!」
アステルを乗せた馬車はどんどん遠ざかっていく。私はそれをじっと見送っていた。
馬車がコインくらいの大きさになり、米粒大まで小さくなって、とうとう完全に姿を消してしまうまで、ずっと。
「さ、参りましょうか。今日も予定が沢山詰まっていらっしゃるんでしょう?」
行っちゃった。
心なしか、促すリディの声音が優しく感じられる。
私たちはなんとなく、どちらからともなく手を繋いで城内へと戻っていった。
森に囲まれた丘にそびえ立つ、孔雀色の屋根が綺麗なお城。
周囲を見渡せば、青空の下に広がる緑の山並みと、それを映す鏡のように澄んだ湖。
村の人たちは今日も忙しそうに働いている。
私の記憶が一体いつになったら戻るのか分からないけれど、それまではこの包み込むような自然に囲まれて、新しい、優しい家族の元で生きていこう。
とりあえずは、今日も勉強、勉強!
第1章 終




