卒業式
「うーん」
鏡に映っているのは、日本人にありがちな黒目黒髪の女の子だ。
背丈はクラスでも中くらい。大きめの目と色白の肌は我ながらまんざらでもないのだけれど、もう少し鼻が高くてまっすぐだったらよかったのに。唇の位置も形もイマイチ気に入らない。さらに言えば顔の輪郭も……と、数え上げれば不満な所はいくらでも出てくる。
でもまあかわいいと思い込もう。そういう自信が大事だよね。自己暗示、自己暗示。
さっきから私が何を悩ましく唸っているのかというと、明日の卒業式でする格好のチェックをしているのだ。
四月から入学する中学校の制服を着て、髪型も決めた。
髪の一部をねじってお団子にしたヘアスタイル、お姉さんっぽく見えるブレザー。
とどめに、鏡の自分に向かって決め笑顔を放つ――うん、ばっちり。
一人でよしよしと頷いていると。
「桜ー、メシー」
間延びした声を出しながら、蒼兄ちゃんが入ってきた。
蒼兄ちゃんは私より三つ年上の十五歳で、この春から高校生になる。小学校とは違って、中学の卒業式は先週すでに終わっている。
昔から整っていた容姿に、茶色がかった髪と目の色、おまけに背が高いときて学校では大分モテているらしい。けっこう女の子から電話がかかってくる。でも家では妹をいじめて遊んでいるイジワルだ。
騙されてるよ、女の子たち。そもそも、乙女の部屋に断りもなく入ってくるとは。
もう何度目かになる抗議をするべく、咎める視線で蒼兄ちゃんを睨めつけた。
「蒼兄ちゃん、ノックして。着替え中だったらどうすんの」
「お前の裸なんか見たってなんも思わねー。それよりメシだメシ」
憎たらしいことに、ドアノブを持ったままメンドクサそうに言い放たれた。その態度と口の悪さに少しムッとしたものの、はーいと素直に返事をしておいた。もうすぐ中学生、この程度で怒るなんて子供っぽい態度は、小学校とともに卒業するのだ。
「着替えたらすぐ行く」
私が答えると、「早くしろよ」と捨て台詞を残し、蒼兄ちゃんはリビングに降りていった。
ご飯と聞くと急激にお腹が減ってくる。素早く部屋着に着替えて、私もリビングへ向かった。
「うわー、いい匂い」
リビングのドアを開けると、なんとも食欲をそそる匂いがただよってくる。でん、とこの場所の象徴のように据えられているテーブルを目端に捉えながら、私は胸一杯に息を吸い込んだ。
この鼻孔をくすぐる、ふくいくたる香りは……
「おでん!」
名探偵よろしく、キッチンへビシッと指をつきつける。
「正解! お箸とお皿出して」
おばさんが、おでんの入った土鍋を持って対面のキッチンスペースから出てきた。
お料理上手のおばさん特製おでんはとっても美味しい。特にこんにゃくと卵は大好物だ。
指示された通り、お箸とお皿を並べて席に着く。おじさんと蒼兄ちゃんは既に座っていて、テレビを見ながら何か言い合っていた。
最後におばさんが座ったところで、全員揃っていただきます。
「桜ちゃんも明日はいよいよ小学校卒業か。まだまだ小さいと思っていたら、あっという間だなあ」
おじさんが、からしを練りながら感慨深げに呟く。
私は口の中に入れたこんにゃくをモグモグ噛んで飲み込んでから、お箸を置いておじさんとおばさんの方へ向き直った。
「おじさん、おばさん、ここまで育ててくれて本当にありがとうございます」
何事かと目を丸くしている家族を前に、使い慣れない改まった口調で続ける。
「無事に小学校を卒業できるのも、おじさんたちのおかげです。これからも迷惑をかけるとは思いますが、よろしくお願いします」
おじさん、おばさんと言っていることから分かる通り、私はこの家の本当の子供じゃない。五歳の頃両親を交通事故で亡くし、母親の弟である佐伯のおじさん夫婦が引き取ってくれた。
引き取られたといっても養子になっているわけではないので、私の名字は『佐伯』ではなく、本当のお父さんお母さんの名字である『藤枝』。もっと大きくなって、私が佐伯姓になりたければ正式に養子に迎えるし、藤枝のままでいたいのならそれでもいいからとおじさんが言ってくれたのだ。
佐伯の家の子には変わりないから、と。
これについてはまだ決められないんだよね、だから保留中になっている。
二人は実の子同然に私をかわいがってくれて、私も妙な引け目を感じることなくここまで育ってこられた。今では本当のお父さんとお母さんのように思っている。
でも、なんとなく呼び方はおじさん、おばさんのままだった。無理に変える必要もないと言ってもらったので、それに甘えている状態だ。
「蒼兄ちゃんも」
「なんだよ」
向き直ると、憮然と顎を引かれた。このお兄様は日常的なイジメ、気ままに悪口をぶつけてストレス解消、さらにはパシりにと妹を便利に使ってくれるものの――改めて考えると酷いなぁ。
じゃなくて。
私も蒼兄ちゃんには「普段外面の良い悪魔」とか心の中で反抗してはいるけれど、全て兄妹喧嘩の範疇でしかないやりとりだ。この家に引き取られた当初から、ちゃんと私を家族と認めて実の妹のように接してくれている――のだと肯定的に捉えるようにしている。
「私を受け入れてくれてありがとう。この家にすんなり馴染めたのも、蒼兄ちゃんがいて、そうしてくれてたからだと思ってる」
だからイジワルお兄様にもちゃんとお礼を言っておこう。照れ臭いからおじさんたちに言ったみたいに、丁寧な感じにはできないけどね。
「今さら何言ってんだよバーカ」
つっけんどんな口調を返されたものの、ふふん、調子が狂って困っているのが丸わかりだ。ちょっとした意趣返しの気分。
一方のおじさんはというと――既にハンカチをびちゃびちゃにしそうな勢いで涙ぐんでいた。この人はとてつもない感動屋さんなのだ。
「迷惑だなんて、他人行儀な。桜ちゃんはうちの大事な娘なんだから、これからも、もっともっともーっと甘えてくれたらいいんだ!」
「そうよ。おばさんだってこれからも遠慮なく、ビシバシしつけていくつもりなんだからね」
おじさんはグスグスと鼻をすすりながら、おばさんは聖母像のような笑みを浮かべながら言ってくれた。おばさんの方は、若干遠慮してくれてもいいかなと思わないでもないんだけれど。
そのおばさんが、そういえばと話題を変える。
「お父さんとお母さんには明日の卒業式について報告したの?」
「うん、もう言ったよ」
佐伯家にはちゃんと仏壇があって、両親の位牌もお祀りしてくれている。明日、小学校を卒業することについては仏前に報告済みだ。
「それじゃあご飯を食べたら、明日に備えてちゃっちゃとお風呂に入って寝ちゃいなさい。洗い物はやっておくから」
「いいの? ありがとう、おばさん」
夕飯の洗い物は私の仕事だ。どうしようか迷ったものの、ここはラッキーと素直に甘えておくことにした。
ご飯を食べ終えて、ごちそうさまと声をかけてお風呂へ向かった。
お風呂では、いつもより入念に身体を磨き上げた。どの角度から写真を撮られても、万事問題なしの状態にしとかなきゃね。
身も心もさっぱりして出ると、リビングにみんなまだ揃っていた。
「お風呂入ったよ。もう寝るね、おやすみ」
みんなのおやすみという言葉を聞いてから、自分の部屋へ上がっていく。寝る前に何かしようかとも思ったけれど、おばさんの言う通りさっさと寝ることにしよう。
おやすみなさい。
卒業式の朝は快晴で、部屋の窓から真っ青な空を見ていると気分がウキウキしてきた。
鼻歌を歌いながらリビングのドアを開ける。おじさんがテーブルに座って新聞を読んでいた。
「おじさん、おはよう。すっごくいい天気だよ!」
「おはよう、今朝も元気だね」
おじさんに挨拶をしていると、おばさんがエプロンで手を拭きながらおはようとリビングに顔を出す。私もおはようと返した。
「蒼生を起こしてきてくれない?」
「まだ寝てるの? しょうがないなぁ」
了解、と元気よく返事をして二階に向かった。蒼兄ちゃんの部屋は私の部屋の隣にある。
ドアの前に立ってトントン、とノックする。大きな声で呼びかけた。
「蒼兄ちゃん、朝だよ。起きて」
なんの反応もない。まあそうだと思ってはいたんだけど。というわけで、勝手に入ることにした。一応お知らせはしたもんね。
ドアを開けて奥を見ると、部屋の主はベッドの上でまだ夢の中にいるようだった。Tシャツとジャージをパジャマに、毛布を恋人にして抱きついている。抱きつきグセでもあるのかな。
「蒼兄ちゃん、起きてってば」
ベッドに近づきながら、部屋中に響き渡る声で喚いた。惰眠をむさぼる固まりが、イモムシのようにもぞもぞと動く。
「う……ん、わかった、起きる……」
眠そうな声で返事をしたきり反応がない。またそのまま寝てるし。
かわいい妹の大事な式典の朝に、寝坊するとはなんたることか。
というわけで、そんな兄には制裁を加えることにしよう。
決意を固め、ぐっと床を踏みしめた。次いで思いっきりジャンプする。
そのままベッドへとダイブ。
「ぐぇっ!?」
俯せになってぐうぐう寝ている蒼兄ちゃんの上に着地して、容赦なく体重をかける。身体の下からカエルが潰れるような声が聞こえてきた。潰れるカエルの声なんて聞いたことないんだけどね。
「目が覚めた?」
どうだ、参ったか。
勝ち誇った気分で、へへーんと見下ろしてやった。すると一瞬反り返った後、力尽きたように枕へ突っ伏していた蒼兄ちゃんが、小刻みに震えだす。
「この野郎……」
不機嫌そうな、低い声が漏れてくる。これはヤバい。やりすぎた。
危険を察知して大急ぎで降りようと思ったけれど、遅かった。
「――やりやがったな」
「っ!? あははははははは。ギブ、ギブ。ゴメンってばっ」
あろうことか、蒼兄ちゃんは私をくすぐりだしたのだ。なんという非道。なんという横暴。
私はコレに弱いのだ。ううっ、酷い……
「これぐらいで許してやる」
ふんっと蒼兄ちゃんが、一仕事終えた調子でパンパンと手を叩く。
うわ、嫌な感じ。何さ偉そうに。
なんて言ったらまたくすぐられるから、そんな悪態は口に出さないでおくことにした。
「もう起きてよ、春休みになってるんでしょ。私の卒業式来てくれるって言ってたよね」
「……へいへい、わかりましたよ」
蒼兄ちゃんは眠そうに目をこすりながらも起きあがり、億劫そうにドアの方へと歩いていく。ほら下行くぞと偉そうに促す蒼兄ちゃんについて、私もリビングへ降りていった。
そのままご飯を食べて、歯を磨いて顔を洗う。昨日から吊しておいた制服に着替えて、身だしなみをチェックした。
よし、問題ないね。
「それじゃあ、行ってきまーす」
「行ってらっしゃい。卒業式はみんなで見にいくからね。終わったら、美味しいものでも食べて帰りましょ」
「やった! 行ってきます」
おばさんにもう一度声をかけて、浮き立つ気分そのままに、学校まで走っていった。
満開の、サクラの木から花びらが降り注いでいる。見上げると、青い空の中に、淡くて薄い紅色が溶けていきそうだった。
とても綺麗……
私は同じ名前のこの花が大好きだ。毛虫がいるから木の下には行けないけれど。
眺めるのは離れていてもできるもんね。虫は怖いんです。
でもサクラといえば、入学式が満開で見頃というイメージがあるんだけれど、実際にその頃にはもう葉ザクラになっていたりする。どうしてこんなイメージを持っているんだろう。温暖化と関係あるのかな?
勉学に励む学童らしく地球問題を考えながら、校庭を乱舞する花びらに見とれつつ、サクラの木から少し離れた所で私は佇んでいた。花びらはここまで届いてくる。
卒業式は無事終わり、友達ともお別れをして、今はおじさんたちと待ち合わせをしているところだ。荷物はおじさんが持ってくれると言うので、悪いなと思いながらも預けてきた。
何を食べにいくんだろう、楽しみだなあ。ちょうどいい具合にお腹も減ってきたし。
お寿司がいいかな、それともハンバーグとか? それからデザートはなんにしようか。
そんな風に楽しい予定を思い描いていると、ふと、降り注ぐ花びらの量が増えていることに気づいた。春の嵐といった強烈さで吹きつける、突風にあおられているその様はまるで花吹雪みたいだ――って、そのものズバリ花吹雪か。
零れる花びらの量はどんどん増えていく。
ここまでは私も手で髪を押さえながら、凄いなあなんてのんきに眺めていた。
ところが。
あれ、花びらが周りをぐるぐる回っているような。
若干怖じ気つつ、一歩後ずさりをしてあたふたと首を巡らせた。気のせいじゃない。
あたかも何かの意志を受けているかのように、サクラの群れが薄紅色の川となり、私めがけて流れ込んでくる。
そうして為す術もなく、みるみる内に花々の帯に取り囲まれてしまった。
……これはまずいかも。花びらに覆われて周りの景色が霞んでいる。見える範囲全てが花の色をした世界で、愕然とするしかなかった。
なんで。どうなってんの。
じわじわと、背筋を得体の知れない何かがはい上がっているような気がする。サクラの花を、こんな風に『綺麗』以外の感想で眺めるのは初めてだ。
そういえば、沢山の芸術家の人たちが『美』に『怪しさ』を交えてサクラを描いている。儚さの中に幻想を内包する、壮絶な美しさ。
そんなことを考えている間にも、周囲を巡回している花びらがどんどん半径を狭めてくる。怖くて縮こまることしかできない。軽くふんわりした花びらに、このまま潰されてしまうんじゃないかと思った。この若さでそれは悲惨すぎる。
サクラの名前を持っている私も、神秘的な存在の仲間入りをさせてもらえるのか!?
なんてふざけた物思いが頭をよぎってしまったのは、この白昼夢ともつかない現実から目を背けたかったせいかもしれない。だって、私はこの状況でなんの行動も起こせない、無力でか弱い子供なんだもの。こうやって精神のバランスを取っとかなくちゃ。
ああ、でもそんなことよりも。
自分で自分を抱き締めて、祈るようにみんなの姿を思い浮かべた。
おじさん、おばさん、蒼兄ちゃん。
身体が、柔らかい花びらたちに隙間なく覆い尽くされていく。
「助けて!」
サクラの中で溺れちゃうよ。
叫んだところで、目の前が真っ暗になった。