森に閃く春の色 5
いくら気温が上がってきたとはいえ、日が射している外とは違って室内にはまだ暖房が必要だ。パチパチと薪の爆ぜる音が聞こえてくる中、部屋の主の声が響く。
「――まずは落ち着いてください」
未だに頭が混沌の海を漂っている私と違ってすぐさま持ち直したアステルは、言葉通りにいつもの落ち着き払った微笑を取り戻している。そして目があちこちへ泳ぎ回っている私を宥めようとしているのか、背中へ手を回そうとする。撫でてくれるつもりなんだろうけれど、そんなことをされてしまったら、破れている服のことが分かってしまうじゃないか。
思わず「うわ~~っ!」と叫んだら、アステルは静電気が走ったかのようにぎょっとして、無事手を引いてくれた。
よしっ!
何か事情があるとでも思ってくれたのか、それ以上アステルは私に手を触れようとはしなかった。好都合。
後は……、いくら膝の上に乗っているといっても、まだアステルの顔の方が高い位置にある。上から見下ろされてしまったら背中が見えてしまう。なので、なるべくアステルから離れつつ、少しでも目線を遮ろうと、背筋を伸ばすべく頑張った。
そしてこのまま後ろ向きに膝から降りて、アステルには背中を隠したままこの部屋から去るのだ。
ミッションスタート! と自分で自分に指令を下して任務を遂行しようとすると、親が遊びに行っていた子供に訊くような調子で、和やかにアステルが口を開く。
「どこまで行っていたんですか? こんなに土で汚してしまって」
そうそう、ぐちゃぐちゃなんだよね。一応はたいてはみたものの、落ちきらなかったのだ。ついついアステルの言葉で作戦を中断し、付いた土で悲惨になっている服の様子を見下ろすべく、前屈みになる。そうすると、突然肩を掴まれた。
どうかしたの? 訝しく思って顔を上げると、アステルは眉間に皺を寄せて、私の頭越しに背中を凝視している。その目線は、傷がないはずの背中がまた痛み出しそうなほど鋭い。
しまったあああ!
いきなり任務失敗。緊急時対策方法としての、取り繕い作戦に移行せねば。
せっかく鎮まってきた頭の中が、またもや暴風雨状態になってしまったことを自覚しつつ、それでも私はなんとか引き攣った愛想笑いを浮かべた。
「あはははは。さっき木登りしようとして、つい木に引っかけちゃって。みっともないよね。着替えてくるね」
努めてアステルの顔は見ないようにして、これで誤魔化されてくれ! と必死で願いながらアステルの膝から降りようとする。
「……見せなさい」
恐ろしい!
アステルの、ここまで低くて怖い声は初めて聞いた。本気で怒っているのかも。憤るのは心配してくれるからこそだろうし、それはとても申し訳ないと同時に嬉しいことなんだけれど、おっかないことに変わりはない。そしてさすがに、こんな声を聞いても誤魔化そうというような度胸を、私は持ち合わせていなかった。
潔く観念することにする。
一旦膝から降りて、それから見せようと思って後ずさりしかけるけれど、肩と、いつの間にか腰に回された手が邪魔をしている。躊躇いがちにアステルの顔を見上げると、感情の窺えない顔で首を横に振られてしまった。
これは降りるなということ? 脱走を企てる囚人じゃあるまいし、別に逃げたりしないのに……。いやまあ、さっきまでは確かに、どうやってこの場から抜け出そうかと頭を振り絞ってはいたんだけれど。
仕方がないのでアステルの身体を支えにしながら、くるりと反対向きになる。今はアステルに背中を向けている状態だ。
「前屈みになってください」
模範囚の心持ちで、言われた通り素直に前屈みになる。落ちてしまわないように、アステルが片腕をお腹に回して支えてくれていた。両手でその腕を掴んでおく。
「失礼します」
背中に指が触れるのを感じとって、身体が一瞬ビクリと跳ねた。
そのまま指が背中を滑っていく感触が伝わってきて――。
め、滅茶苦茶くすぐったい!
どうしよう、思いっきり笑い出してしまいそうだ。蒼兄ちゃんから散々受けてきた、くすぐりの刑を思い出してしまう。でもさっきアステルが覗かせていた様子を考えると、今はとてもそんなことができる雰囲気とは思えない。後で確実にやって来る説教の時間が、五割増しに引き延ばされるのがオチだ。
切実に――早く終わって欲しい!
私の中で繰り広げられた静かな闘いを、いつか誰かに分かってもらえたらいい。殉教者の気持ちで必死こいて我慢していると、やっとアステルの指が離れていった。長い拷問から解放された気分。思わず安堵と共に、詰めていた息を吐き出した。
懸念を一杯詰め込んだ声音が、背後から降ってくる。
「――背中に傷は見当たらないようですが、他に怪我をした箇所はありませんか?」
「うん、大丈夫。手の平をちょっと擦り剥いたぐらい」
見せてくださいと言われ、前屈みの状態から姿勢を戻して、両手の平をアステルが見やすいよう、素直に顔の前で掲げる。
「手当をしましょう。少し待っていてください」
こんなの別に放っといても治るのに。そう思ったけれど、黙っておく。アステルは私の両脇を持って身体を浮かせた後、きちんとソファに座らせてくれた。そしてそのまま寝室の方へ向かったと思ったら、何かを手に戻ってくる。
「これを羽織っていてください」
上品なグレーの上着を差し出された。多分、アステルのだ。でも私、泥だらけなんだけれど。
遠慮深い私は、困惑してアステルを見上げた。
「汚れちゃうよ、このままでも平気だよ。暖炉もあったかいからそんなに寒くないんだし」
「いいから着ていてください。女性が、みだりに肌を出したままにしておくものではありません」
有無を言わさずという感じで手渡されてしまった。みだりにって……。
勿体ないのにと思うものの、ちゃんと羽織るまではアステルが承知しそうにない。仕方がないのでありがとうとお礼を述べて、袖を通す。かなり大きくてブカブカだ。服の中で泳いでいるみたい。
私が着るのを見届けた後「ここを動かないように、いいですね?」と言い置いて、アステルは廊下の方へ出ていってしまった。何もあんなに念押ししなくても……。まだ脱走する危険があるとでも思われているんだろうか? 心外な。
「ふぅ」
暫しの間、窓の外を眺めて放心。外は日の光がうららか。
とりあえず、今のところは小言の気配もない。そのことには一安心しているんだけれど、それは単に厄介な時間が後に延びただけということで、その分恐怖感は増してくる。さっさと説教されていた方がよかったのかもしれない。
「むーん」
それにしても、と無意味に唸ってみる。
ここを動いちゃいけないと厳命されている。でも退屈だ。若い私は暇な時間が嫌いなのだ。
「そうだ」
腕に目をやる。することがないので、ブカブカの袖を捲っておくことにした。皺が付いちゃうだろうけれど、このままだと手を動かしにくいんだしまあいいか。片手で袖口をひっくり返して一巻き。二巻き。三巻き――。
ええい! 何回捲ったら手が出るんだ。
ムキになって上着の袖と格闘していると、薬箱を手に持ったアステルが戻ってきた。
「お待たせしました。手を出してください」
再び私の隣に腰掛けたアステルに、努力の甲斐あって外へ出た手の平を差し出す。
ピンセットで摘まれている綿を染め上げた、赤い薬品が凶悪に感じられた。案の定、傷口に触れた瞬間にピリッとした電気が走る。消毒が痛いって!
眉を顰めたら「すみません」と謝られてしまった。こちらこそお手数をかけちゃって、と口走りそうになったものの、今さらかと考え直す。
ガーゼを貼ってもらって手当は完了。ありがとう、とお礼を述べておいた。
「失礼いたします」
傷の手当が終わると、見ていたようなタイミングでソフィアが入ってきた。ノックの音も聞こえなかったということは、予めアステルから許可されていたのかもしれない。
「桜様のお着替えをお持ちいたしました」
「ご苦労様です。隣の寝室を使ってください」
打ち合わせていたように話が進んでいく。アステルが、薬箱を持ってくるついでに頼んでおいてくれたみたいだ。「そちらの扉からどうぞ」と示されて、寝室へ入っていく。
部屋に訪れたことは何度もあるけれど、寝室に立ち入ったのは初めてだ。隣と同じ、落ち着いた色合いで統一されている。ベッドのサイズは私の所より大きいかな。同じ方向へ何度も寝返り打てそう。
なんて余計なことを考えている間にも、業務を怠らないソフィアに「さあ、それではお着替えいたしましょうか」と促されて上着を脱いだ。
「……っ! これはどうなさったんですか!?」
背中を目にした途端、驚きの声を上げられてしまった。まあそりゃそうか。
ソフィアは私の背中をさらに覗き込みつつ、心配げに憤慨する。
「酷い、大事なお嬢様のお身体に……。なんという無体な仕打ちを。一体どこのどなたなのです!」
「お、落ち着いて、ソフィア。見た目は凄いだろうけど、怪我はないんだよ。大丈夫」
えらい迫力で詰め寄られるも、大丈夫という一言で背後にいるソフィアの雰囲気が大分和らいだ。それ以上は自分が訊くことではないと思ったのか、事情を詮索されることもなかった。まあ、追々話していこう。それにしてもおとなしそうというイメージが先行していたけれど、意外とおっかないな、ソフィア。なるべく逆らわないようにしといた方がいいかも。
蒸しタオルで血や土を綺麗に拭き取ってくれる時に、さり気なく他に傷がないかどうかチェックされていたみたい。納得いくまで妥協しなかったソフィアの検分が終わってから、やっと清潔な服に着替えさせてもらった。乱れていた髪も簡単にくしけずってもらう。さすがにここで本格的に整えるのは無理だから、結わずに流しっぱなしだ。
アステルの上着についてはソフィアが洗っておくと言ってくれた。ありがとう!
寝室を出ると、アステルはソファに長い足を組んで座って、さっき私がしていたみたいに正面の窓を眺めていた。何か考え事でもしているみたい。姿の綺麗な人は、こういう佇まいにとっても雰囲気がある。何か深い事情があって、それを憂えているんじゃないか、みたいな。同じ姿の私を見ても他の人が抱く感想は多分、お腹でも空いてんの? だろうなあ。って、悲しいなそれ。
私が自分の想像でズンと沈みこんでいる間に、ソフィアは来た時と同じように「失礼いたします」と頭を下げて出ていってしまう。これから叱られるんだと思うと、正直、私も一緒に連れていってもらいたかった。
「立っていないでこちらへどうぞ。座ってください」
組んでいた足を外し、アステルが隣を指し示す。私は従順な子羊の気分でそこへ座った。
「それではお話を伺いましょうか。何があったのか聞かせてください」
そうして私に顔を向けたアステルが浮かべている表情は――あの怖い笑顔だった。




