森に閃く春の色 1
日々を忙しく過ごしているとあっという間に時は過ぎ去っていき、明日はいよいよアステルが王都へ帰ってしまう日だ。私がこの世界に来た時からずっと傍にいてくれたアステルと離れるのは寂しいけれど、段々と心の整理もついてきた。時々帰ってきてくれると言っているのだから、それで充分だと思っておかなきゃね。
さて、私が今どこにいるのかというと、お城がある丘の、麓の森に来ているのだったりする。
ヘンリー父さんはアステルとは違って随分と自由にさせてくれる人で、近隣の人たちには私のことを知らせてあるし、この辺に魔物は出ないから、時間のある時は好きに出歩いていいと、一人で行動することを許してくれた。治安はとてもいいみたい。さすがはヘンリー父さんのお膝元。
ただし森の中は、慣れない内は危ないから一人で入ってはいけないと注意されてしまった。
私が一人で外へ出ることに、当然アステルは渋い顔をしていた。でも締めつけすぎてはいけないというヘンリー父さんの一言で、言葉を飲み込んでくれた。うんうん、そうだよね。子供は自由にのびのびと育ててあげなくちゃ。
そして今日は、本当は午前中にみっちりと勉強がある予定だったのだ。それが、たまにはお休みをくれるということで午後からは楽しい自由時間になった。
解放されたのが嬉しくて、お昼ご飯を食べてからお城周辺を散歩してみようと思い立ち、わーいと出てきてみたのだけれど……ばっちり森の中に入ってしまった。
でも、これには深いわけがある。丘をどんどん下っていくと、森の近くで兎を見つけてしまったのだ。それがあんまりにもかわいくて、ついつい追いかけてしまった。そしたらいつの間にか森の中だったというわけで。とてもアステルに明かせない理由ではあるんだけれど……。
森の中は色んな音で溢れている。鳴き比べをする鳥たちや、囁きを交わす虫たちの声。踏みしめた柔らかい土の感触。風にそよぐ葉擦れのざわめき。着いたばかりの頃には残っていた雪も、この二週間ですっかり溶けてしまい、大分暖かくなってきた。今日の空は晴れ渡っていて、木漏れ日がゆらゆら揺れている。
本当はもう少しここにいたいけれど、本当なら来てはいけない所に訪れてしまっているのだ。私は早く帰ろうと、森の入口へ向かって歩き出すことにした。
「っ!?」
――突然背中に走る熱い感触。
一瞬、自分が置かれた状況がよく掴めなかった。まるで火が付いた紐で背中を撫でられたような感覚が走った後、気がついたら目の前には茶色い土が迫っていて、私は前のめりに倒れ込んでしまった。
一体何がどうなっているんだろう? 倒れた時、咄嗟についた手の平は擦り剥いているし、背中の熱は段々と、引き攣れるようなズキズキした激しい痛みに変わってきている。
何でこんなに背中が痛いの? わけが分からないまま傷の痛みに顔をしかめつつ、手をついて寝転んだままの状態で首を後ろへ向けてみる。
それが視界に入ってから、正体を認識するのに何秒か掛かった。信じられないものを前にすると、人間の脳という器官は即断を拒むのかもしれない。それって、より正確に物事を掴もうとするための、防衛本能みたいなものなんだろうか。だったら、そのままいつまでも決断を保留にしてほしかった。それか、今までの記憶に該当する存在はアリマセンって弾き出してほしかった。そうしたら、無垢な赤ちゃんが初めての何かに接する時のように、警戒心からくる恐怖感なんて抱かないですんだのに。
私は目を見開いた。
だって……。
こんなモノ……。
昔話や節分の時に被るお面でしか見たことない。
息を吸い込んだ時、喉が勝手にヒュッと笛のような音を立てた。
そこにいたモノは、全身を青白い炎のような色に包まれた――――鬼!
どこかから湧き起こる震えを誤魔化すために、ゴクリと音を立ててつばを飲み込んだ。当たり前なんだけれど、全然気晴らしにもならない。
私が寝っ転がっていたことを差し引いたとしても、随分と大きくて圧迫感がある。よく見かける絵のようなモジャモジャ頭じゃなくて、ぼさぼさで伸ばしっぱなしの黒くて長い髪。その間から覗いている固くて鋭そうな角が二本。貫かれたら痛そうだ。感情の読めない目は洞穴のように黒くて底が知れなくて、何故かそこだけが白い瞳孔部分が不気味だった。金棒は持っていなかったけれど、中途半端な位置に上げられた両腕の先には、鋭くて長い爪が5本ずつ生えている。
右手の爪からは血が滴っていた。あの爪で私の背中は抉られたんだ、と傷の痛みと突き抜けた怖さのせいで、ぼんやりした頭が考える。私、恐慌に支配されているみたいだ。
「う……あ……」
とりあえず叫ばなきゃ。大声を出して助けを求めなきゃ。
そう思って出した声も、ただの弱々しい唸り声にしかならなかった。大体、わめき散らしたところで誰が来てくれるっていうんだろう。森への出入りを禁止されている私が、ここで鬼に襲われていることを予想できる人なんているわけない。
非力な獲物が力ない声を出したのが、そこまでお気に召したんだろうか。鬼の口が嬉しそうに開き、爪に付いた私の血を見せつけるように舐め取った。
私を見据えたままでニタリと笑う、鋭い牙が覗く唇。そこから垂れた真っ赤な舌と、青白い身体の色合いが不吉で、背中の痛みも忘れて全身が凍りついた。
鬼がもっと恐怖心を煽ってやろうというように、鈍いともいえるゆったりとした動作で一歩を踏み出す。
怖い、怖い。全身に、弱い電気を流されたような痺れが走った。
逃げたいけれど、動けない。力が入らなくて、立つなんて絶対無理。
横になったままの私に向けて、鬼がもう一歩。
私、食べられちゃうのかな。おじさん、おばさん、蒼兄ちゃんにはもう会えないのかな。
全身の力と勇気を振り絞って、腕を使って這いずってみるものの、鬼が少し足を動かしただけでそれ以上の差を詰められる。
いやだ。こんなの嫌だよ。
こんな見知らぬ世界で、おじさんたちにお別れも告げられないまま終わっちゃうなんて。
怖さと、無念さで涙が滲んできた。
おじさん、私、どうしてこんな所にいるんだろう?
おばさん、おばさんの作ったおやつ食べたい。
蒼兄ちゃん、泣いてる時はなんだかんだで慰めてくれたのに、どうして傍にいないの?
もう後一歩で鬼の手が届く。最後はこんな恐ろしい風貌じゃなくて、みんなの顔を見つめておきたい。
そうして私が目を閉じて、おじさんたちの顔を思い描こうとした時。まるでスライド画面のように、頭の中に滑り込んできた映像。ゴールドの髪に、青くて優しい眼差し。
ああ、アステルに会いたい。頭を撫でてほしい。
「ピルルルルルル」
突然、笛のような音が響き渡った。この凄惨な空気を祓うような花の匂いを感じ取り、目を開く。再び鬼がいる方に首を捻った私の眼前には、灰色のローブを着た人が立っていた。肩には子猫くらいの大きさの、黄色い鳥を乗せている。
――誰?
鬼を初めて目にした時と同じ。この場に私と鬼以外の誰かがいることが信じられなくて、私は暫しポカンと呆けてしまった。拍子に涙も引っ込んでしまう。
そんな私を、灰色ローブのその人はチラリと振り返って、また鬼へと向き直る。するとどういうわけか、鬼の全身が怯えたように揺れた。
この人を、怖がっている……?
体格も、迫力だって数段上なのに、鬼はローブの人を警戒すべき相手だと判断しているようだった。
実はこの人、物凄く容貌がおっかないとか? 確かめたくても背中を見せているし、深く被ったフードが邪魔をして、顔を窺うことができない。
私が目を瞑っていた時間は十秒もなかったはず。周りには誰もいなかった。それなのに、この人はどうやって私の前――や、正確には後ろか――に現れたんだろう?




