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空を映す海の色  作者: せおりめ
第3章
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花の目醒め 3

「――くら、桜、起きて……」


 子供の声に、深く沈んでいた意識が急速に引き戻される。

 ぼんやり目を開けると、周囲は湖底の昏い水で誂えた帳の内にいるかのような、薄い闇が広がっていた。暖炉の火が、天井の一部に揺れる仄かな影を投げている。そして目の前にはおさげの少女が身体を屈ませ、私の顔を覗き込んでいた。額にペリドットを飾った梔子色の鳥を肩に乗せて。


「ん……イ、ヴ……?」


 すぐに閉じようとする目を手で擦って刺激しながら、押し出しにくい声で少女に応じた。


「今は……夕方?」

「違うわ。明け方よ」


 この声は……? 冷静に告げる声音を聴いて、眠気が瞬時に覚めた。促されるようにして身体を起こす。イヴが背中に手を回して手伝ってくれた。

 片手をベッドに突いた中途半端な体勢で、聞こえてきたイヴとは違う少女の声に顔を巡らせる。背景には地平と上天の境目を走る金色の帯。そして朝の勢いを蘇らせようとしている黎明の空にも負けない強き一つ星。


「ホープ……?」


 出窓に掛かったその小さな輝きを頭に戴くようにして、そこにはユヴェーレン・ダイヤモンド、ホープが立っていた。

 見かけにそぐわない大人びた微笑を湛えるその顔を、目を瞠って見つめる。それと共に過去の光景が奔流となって遡り、蘇る。

 他の皆と同じ。初めて会った時から変わらない姿。僅かな光を弾く無色透明な両耳のピアス。薄い闇では敵わない、艶やかに流れる漆黒の髪、燦然たる同色の目、日本人形のように端麗な顔立ち。以前の邂逅からもう何十年と経過しているけれど、鮮烈に刻み込まれた記憶は目の前に佇む少女と寸分も違うことはなかった。

 そして彼女は一見したところ、とてもあどけない子供のようだけれど。


「そうよ、見て分からない? 歳のせいで私の顔も忘れてしまったのかしら? あなた相当なおばあちゃんになってしまったものね」


 可愛らしい顔と相反する一言も二言も多い辛辣な性格は、やはり記憶にある通り。相変わらず人の神経を逆なでするのが上手なものだ。

 私とホープがそのように旧交を温め合っている最中にも、イヴは甲斐甲斐しく枕で背もたれを作ってくれていた。「ここへもたれて……」というイヴにありがとうと返し、そこへ背中ごと身体を預けてから再びホープに意識を戻す。


「そこまで言われるほど耄碌はしていないつもりよ。それよりホープ、久し振りに会えてとても嬉しいのだけれど、私に何かご用でも?」


 ホープを見た途端、過去のある取り決めが主張し始めている。それを照らしあわせて確信に近い予想は抱いているものの、敢えて尋ねた。


「あら、察しはついているくせに」


 不敵な笑みを浮かべる少女が、わざとらしいほど無邪気な声で答える。


「あなたはもうすぐ死を迎える。だから約束通り迎えにきたのよ。この世界では死なせないと言ったでしょう?」


 やはりそうきますか。私は長く瞬いた。これでピジョンの残していった呟きに得心がいく。それでも、突然やって来られても、と一応の抵抗は試みる。


「私がこの世界へ残ることを決めた時に、その約束は無効になってしまったのだと思っていたわ。臨終の際に迎えにきてくれるのはアステルのはずだったのだけれど?」

「それは残念ね。次の機会を待ってちょうだい」


 肩を竦めるその仕草も、第三者から見れば愛らしいと見なされるのだろう。こちらの思いはその正反対をいくけれど。

 私は目元に呆れを乗せてホープを見つめた。


「どうでも人の意見を無視する……。相変わらず自分勝手なのねえ」

「まあ、冷たいことを言うのね。あなたのためを思ってわざわざやってきたのに」


 わざとらしく悲しさを装って目を伏せ、臆面もなく言ってのける。やはり相変わらずだ、と溜息が一つ零れた。

 ふと、仄かな芳香を感じてホープから目を逸らし、すぐ脇の窓辺に置いてある薔薇に目線を移す。先程よりも明るくなってきた室内の光を集めたように、花弁が淡く朧気に浮かび上がって見えた。すでに二枚の花びらが下へ落ちている。

 風に乗り散っていく風情がサクラの花に似ていてどうしても欲しくなり、アステルに請うて根付かせてもらった薔薇。最後の日にミリーが届けてくれたことも、何かの知らせだったのかもしれない。


「それとも今度は、今までのことを忘れるのは嫌だ、帰りたくないと駄々をこねるのかしら?」


 試すようなホープの声に、再び顔を戻す。そこに挑む漆黒の双眸を捉え、そして私はゆっくり首を左右に振った。

「桜……」とイヴの微かな声が耳に届く。


「いいえ、帰るわ」


 私は息を吸い込んで心を落ち着かせ、言った。


「本心の深い所には、帰りたいという願いもずっと残っていたのだもの。――ホープ、あなたの魔術は確かに私の記憶を封じてしまうのでしょう。けれど、私の身に染みついた感覚や、心の奥底で大切に仕舞ってある感情まで取り払ってしまえるものではないわ。向こうに戻って空や山や鳥、自然を眺めて綺麗だと感じる時、大好きな人たちと触れ合う時、それがかつてと同じ場所、同じ人たちではなくとも、きっと何かがよぎるはずなのよ。例えそれが極微かな、感じたとも思えない感覚なのだとしても」


 それはきっと毒のように身を蝕む辛い感覚でなく、冬の寒い日に芯から安心させてくれる暖炉のよう。胸の中の光を大きくしてくれる。

 一度ホープから目を離し、隣でもどかしげに訴えかけるような表情を浮かべているイヴに笑いかけた。そしてまたホープの方へと向き直る。


「この世界を後にすることに、全く心残りがないと言えば嘘になるのだけれど」


 そう言っている最中、梔子が上掛けに隠れた私の膝に飛んできた。はばたきによって起こった風が、寝乱れた髪の数本をフワリと持ち上げる。


「でもこのままいけば後は生を終えるだけだものね。生まれ変わるのだと思えば、むしろ失われた時間を取り戻せるのだから、得であるとさえ言えるわ」


 今度こそ、幼い私を慈しんでくれた人たちと共に歩んでいく時間を過ごすために。

 試しに嘴の横に手を伸ばしても梔子は逃げない。そのまま人間でいう頬に当たる部分を弱い力で掻いてやると、気持ちよさそうにうっとりと目を閉じていた。羽毛の感触がなんとも柔らかい。


「かけがえのない家族を増やしてくれたあなたに感謝したいほどだわ、ホープ。だから以前、あなたにされた酷い仕打ちは帳消しにしてあげる。あなたには色々と言いたいこともあったけれど、それも言わないでおいてあげる」


 誇らしげに語ったものの……。寝起きの長口上で、とうとう息が切れてしまった。ただでさえ死にかけているのだから無理はないともいえる。梔子から手を離し、激しい鼓動を宥めるように胸を両手で押さえた。時折遠く霞みそうになる意識を懸命に捕まえる。忙しく上下する肩を、イヴが労るように撫でてくれていた。梔子はイヴの肩に戻ってしまった。

 始めホープは、私の台詞を口の端を上げた余裕の表情で聞いていた。けれど、余程私の言葉が予想に反していたのか、最後にはその口元は引き締まり、目は少しだけ見開かれていた。

 これは恐らく素の表情だろう。恨み言は紡がれても、まさか感謝の意を述べられるとは思っていなかったに違いない。私は僅かでも意趣返しができた、と胸がすく思いでホープに笑いかけた。

 そうすると、ホープは了解するようにまたもや悠然とした顔つきを取り戻す。


「別に、あなたに文句を言われたって痛くも痒くもないけれどね。一応、ありがとうと言っておくわ。それにしても……桜も少し会わない間に成長したものね」


 やっぱり憎たらしい子だわ。口が減らないこと。私は内心で苦笑を漏らした。

 それにしても少しって、五十年以上経っているのだけれど……。時間の感覚が違うのだろうか? 少し恨みがましい表情を作ってホープに言う。


「ホープ、あなたね、私を幾つだと思っているの?」

「あら、十二歳でしょう?」

「え?」


 ホープの言葉の意味がよく飲み込めず、痺れたような頭で身体を見下ろす。よく見えるように上掛けを横にずらした。そこに現れたのは。

 ――胸を弾ませていた卒業式の日。

 身を包んでいるのはサイズが小さいはずの、紺色のブレザーに赤いチェックのスカート。今はむしろ、少し大きいくらい。そして形がお気に入りのタイ。袖から覗く手に皺は一つも無く、いつの間にか息切れは去り、いつもより身体も軽い。恐らく、足は難なく身体の重みに耐えるのだろう。指で摘み、ツンと引いた髪はホープよりも淡い黒だった。知らぬ間に紛失していた制服。ホープが持っていたのか。

 不思議な思いで我が身を検分している私に、意外に優しい調子でホープが囁く。


「ね? まだ子供だわ」

「…………そうだね」


 上の空で、ホープに答える。この制服に初めて袖を通した時、期待が風船みたいに膨らんでワクワクしていた。

 身体の奥からじわじわと実感が湧き出し、やがて口の端が勝手に笑みを作る。ホープに万感を込めて頷いた。

 ――そうと決まれば!

 私はいつまでも寝てはいられない、と上掛けをはね除けた。せいっとベッドから飛び降り、自分の両足でしっかりと絨毯敷きの床を踏みしめる。足は既に、紺色の靴下と黒のローファーまで履いているみたいだ。若返ったと思うと、最近元気を失くしていた胃袋まで活発に騒ぎ出してしまう。寝ていたから夕飯食べてないもんね。思わずお腹に手を当ててしまった。


「桜……!」


 絞り出すような小さな声に呼ばれ、ずっと目を潤ませていたイヴと向き合った。微笑みを作る。


「イヴ、今まで友達でいてくれてありがとう」


 森で出会った時と一緒、同じ高さの目線。


「この世界で初めて友達が出来て、凄く嬉しかった。それから、一杯助けてくれてありがとうね」


 今や遠慮することなく涙を流し始めてしまったイヴに込み上げてくるものを感じながら、そっと抱き締める。そんなに泣かれたらこっちまで引き摺られてしまうじゃないか。出てしまうと止まらないから、これでも結構我慢しているんだぞ。


「梔子も、元気でね」


 イヴから片手を離し、指を持っていくと「ピルルルル」と鳴いた後に甘噛みされた。可愛いよねえ。

 そういえば、ミリーには明日――もう今日か。答えを返すことになっていたけれど、やっぱり無理だよね。ミリー、お祖母ちゃんを許してね。皆も元気でね。

 大切な他の家族にも心中で別れを告げておく。それにしてもこの姿で自分をお祖母ちゃんというのも変な気分だな。

 そうやって感慨に耽っている私の耳に、場違いなほど冷静に促す声が届く。


「もうそろそろ準備はいいかしら?」

「……ねえ、ホープには情緒ってもんが足りないんじゃない? ――あ、そうそう」


 淡泊なホープに意見を述べ、それから気づいた。


「これもやっぱり返さなきゃ駄目?」


 イヴから離れて胸からペンダントを引っ張り出す。スターたちが石を付けてくれた後、それを知ったイヴが何故かご立腹な様子で萌黄色の石を仲間入りさせた。合計七つの花びらが、地平線から頭を覗かせた太陽の光を反射している。


「そうね、この世界の物を向こうへ持ち込ませるわけにはいかないわ」

「やっぱり? ちょっと残念」

「どうして?」

「私はアージュアのことを忘れちゃうでしょ? 何かよすがみたいな物があればいいなと思ったんだ」


 ――でも、と私は思い直した。


「まあいいや」


 ヘンリー父さんの血、リディの血、アステルと私の血。全てが混じり合い、次の世代へ連綿と繋がり広がっていく。それこそが、私がこの世界で生き、確かに存在していたという証。この地に還ることはできないけれど、形を変えてちゃんと残っていく。

 アージュアが好き。この世界の全てを愛している。

 ホープにペンダントを渡すと、いきなりイヴが飛びついてきた。踏ん張ったものの、たたらを踏んでちょっと後ろへ下がってしまった。


「さよなら、桜……」


 背伸びしたイヴが、震える言葉と共に額へキスをしてくれる。涙で少し湿っていた。


「うん」


 短く返事をし、私も微笑みながらイヴの頬にキスを返した。お別れの言葉は使いたくなかった。


「では送るわね。あなたが次に気がついた時はこの世界を全て忘れ、元の世界の元いた場所に立っているわ」

「これ聞くの二回目だね。分かった。あ、もしかして、ホープも私にキスしてもらいたい?」

「……結構よ。桜、あなたジスタに影響されてない?」


 うう、実は自分でも言った瞬間にそう思ってしまった。思い当たる記憶は他にもある。恐るべし、ジスタ……じゃなくておじいちゃんだね、やっぱり。

 ホープにはえへへと愛想笑いをしてその場をしのいだ。

 腰に手を当てて呆れていたホープが、気を取り直したように両手を前に突き出す。両耳のピアスが煌めき、淡い光が足元から円を描いてせり上がり、私を取り囲んだ。下を見れば覚えのある魔法陣が絨毯に浮かんでいる。今度は光を辿るように天井を仰ぐと、闇の気配は、既に半分姿を現した黄金色の朝日によってすっかり取り払われていた。

 見慣れた部屋をぐるりと見渡す。もう何十年も前から私の部屋に飾ってある、飴細工が目端を通り過ぎる。この世界へ来て、本当に色んなことがあったよね。

 瞬間、過去の様々な場面が脳裏に浮かんでは消えていった。こういうのを走馬燈のようにって言うのかな? 辛いこと、楽しいこと、悲しいこと、幸せなこと、全てが同じだけの鮮やかさで心に落ちてくる。

 少しだけ、胸が痛んだ。その気持ちと、湧き出そうになる涙を遮断するためにギュッと目を瞑る。

 アステル、私、帰るね。この世界とは隔たった場所で、今とは時間さえかけ離れてしまうけれど。私が最期を迎える時は、ちゃんと探し出してね。

 あの時、部屋で座っていた私を見つけ出してくれたみたいに。

 目を開けて前を向いた。ホープがかつてと同じような、見惚れるほど綺麗な表情で微笑む。その横には泣き笑いのイヴと、キョトンと首を傾げている梔子の姿。

 私は二人と一匹に向かって、明るく見えるように笑ってみせた。


「ではね」


 ホープが私に最後の言葉を告げる。


「あなたの幸運を祈っているわ、藤枝桜。――――やっぱりこれ、持っていって」


 何を?

 問いかけの声を出す前に視界がブレた。



 アージュア。

 「青い」という意味の名を持つ世界。その名前が顕す青は、遙か天の高みを映し取った色だという。

 深い、深い青。

 薄れゆく意識と纏まりにくい思考を、アージュアの色が鮮やかに染めていく。

 一番身近で守ってくれていた眼差しと同じ色。

 きっと向こうへ帰っても、私の一番好きな色になる。


 そうして、『アージュアで過ごした私』は段々と希薄になっていった。




 第3章 終


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