花の目醒め 2
はてさて、明日はミリーの追求にどう応じるべきか……。ミリーが出ていったドアを見つめ、顎に手を当て暫し思案する。予め伝えておいたから侍女はまだやってこないだろう。
正直に答えるか、それとも冗談だったとはぐらかすか。迷うくらいなら初めから言わなければいい。しかしドアの向こうへ消えるミリーを見た時、何かに突き動かされるように自然と口走ってしまった。この歳になっても衝動的に動こうとする性格は直っていないらしい。ミリーの問いかける視線には思わず笑いかけることで返してしまったけれど、ぎこちなさは表れていなかっただろうか?
ミリーは、既にグレアム家当主の座を受け継いでいる長男の娘で、私によく懐いてくれている。私もミリーに会うと安らいだ気分になり、その日を愉快な気分で過ごせるのだった。性別は異なっても、あの子を見ているとアステルを思い出す。ゴールドの髪に深く青い目、それから端正な美貌。残念ながら武の才だけは私の血が色濃く影響しているらしく、からきしなのだけれど。
そのようにグレアム家の娘らしい子であるミリー。それがどうした具合なのか、どうやらあの子の目には、私が洗練された嗜みと神秘性、更には高い品格を兼ね備えた穏やかな貴婦人だと映っているらしい。初めてそれを知った際、アステルは目を点にして固まっていた。
昔はそのイメージを崩そうと色々試してみた。しかし何をしても良いように解釈されてしまうと分かり、老い先短い身で孫の夢を壊すのも忍びないと、ここ数年ミリーの前ではなるべく希望に添うように振る舞っている。装うとはいえ、長年の間に吸収して身の一部となってしまった仕草のこと。無理をしているというほどではないので負担にはならなかった。
ミリー――ミルドレッドの名は是非アステルと私に決めてもらいたいと息子に頼まれ、私がアージュアへ訪れた時、既に亡くなっていたアステルのお母様のお名前を頂いた。とても賢く慈悲深いお方だったとかねてより聞いている。だから、この子もそうなるようにと願いを込めて。実際ミリーはその通りに育ち、王城でも引く手数多だそうな。
それにしても最近、ミルドレッドという名が頭を掠めると、お義母さまにひと目お会いしてみたかったと頻繁に思う。歳のせいだからだろうか、と短絡的に考えてしまう。
私がこの世界に来てどれほどの月日が流れたことか……
ベッドの飾り板に立て掛けた枕にもたれ、上半身を起こしたままの姿勢で両手を目前の高さまで持ち上げた。ぼんやりと手の甲を眺める。
すっかり干上がってひびの入った水路を連想させる肌には、無数の皺が刻まれている。気温の変化に身体はついていけなくなり、とうとう足は体重を支える力を失ってしまった。とても疲れやすくなり、かつては黒かった髪も立派な白髪と相成っている。親しくしてくれていた人たちもほとんどがいなくなってしまった。父であるヘンリー、それからリディ、エレーヌにソフィア。
とはいえ、年を経るのが疎ましいことだとは思わない。アステルと結婚してから四人の子供に恵まれた。その成長を見守り、また次の世代が誕生していく過程は、振り返ればその中に含まれる辛い出来事をも幸福な思い出として変転させていた。さすがに三年前、アステルが心臓の病にかかって先に逝ってしまった時は、心が悲しみで飽和状態になってしまったものだけれど。
しかしアステルは死の間際に約束してくれたのだ。私が臨終を迎えた際は必ず迎えにいくと。最期の最後までアステルは私の心配をしてくれた。なるべく心残りがないようにと笑っていたつもりだったのだけれど、やはり見抜かれていたらしい。
その約束を胸に抱いているからこそ、身を切られるような切なさは緩やかな時の流れと共に薄まっていった。去って行く時間を、日々惜しみながら過ごすことができている。ミリーにも言われた通り、今日は気分もいい。
「ぼうっとして、何を考えているのですか?」
「スター?」
いつの間にか私は窓の外へ目を向けていたようだった。
恐らくは私を驚かせないようにと気を配る、優しく涼やかな声音。その声が形を得たかのように、紺碧の髪と目をした妙齢の見目麗しい人影が、私の視線を遮るようにして現れる。――おや? 先程とは違い、女性の姿を取っている。
「もちろん儂のことに決まっておる。窓の外を眺めて物思いに耽るなど、愛しい相手の元へ意識を飛ばしている、と古今東西に於いて自明の理じゃからな」
「相変わらずテメエに都合のいいように口が回りやがる。もっと謙虚になったらどうだ?」
「何を言うか。儂ほど控え目な人間は世界中どこを当たっても容易には見付けられんじゃろうが」
「テメエ以上に図々しい人間を捜す方が難しそうだけどな」
更に、スターとはベッドを挟んだ対面方向へ、二つの人影が相次いで形を作る。顔を向けると、飄々と親しみやすい薄紫の髪と目をした老人。それから、スターと同じ顔の、紅玉の髪と目を持つ気の強そうな男性の姿があった。
言い合いしながらの登場は、もはや二人の間で規格と化しているのだろう。むしろ、何の騒動もなく現れた方がどうしたことかと心配になる。
「ジスタにピジョンも。ミリーが来る前にも会ったばかりではなかった? 一日に二度も来てくれるなんて、滅多にないことねえ」
以前は各々が別個に、もしくは皆で一緒に、何れもたまに立ち寄ったり私が呼びかけたりする程度だった。それが、ここ最近はほぼ毎日誰かしらが訪れる。それでも同じ日に複数回ということは今までになかった。ついでながら、自分がお祖母様と呼ばれるようになった時点で、ジスタをおじいちゃんと呼ぶことは止めてしまった。所謂気分の問題で、深い意味はないのだけれど。まあ、なんとはなしに。
「何か用事でもあった?」
「用ってほどでもねえけどな」
ピジョンが端切れ悪く言い淀む。いつも明快なピジョンがこういう態度を取る時は、何かしらの隠し事を秘めている。年を取るに連れ、考えていることを面に出さないようにしたり、他者の心の機微を察する技術はそれなりに磨かれていった。それを抜きにしても、やはりピジョンは読みやすい方だと思う。ただ、本人に確認したことはないけれど、ひょっとするとわざとそうしてくれているのかもしれないと最近になって感じ始めた。
スターがピジョンの言を継ぐ。
「あなたとは、まだまだ語り合いたいことが沢山あるのです。あり過ぎて困る程に」
スターが発した言葉の響き、表情、雰囲気、そして本来の姿に戻っているという事実。それで三人が何をしに来たのか理解してしまった。私自身、朧げに感じていたからこそミリーにもあのような詮無い事を言ってしまったのかもしれない。
「――でも、全てを話し尽くすにはもう時間が足りないということなのね」
私は閃いた推測をスターに返した。
「貴重な場面ではない? スターが真意をここまでありのままに悟らせるなんて」
「他ならぬ桜のことですからね。どうしても平常心ではいられないようです。あなたは私たちにとって、とても親しい友人でいてくださいましたから」
自嘲するようにスターが答えた。
「まあなんにしろ、語り尽くすなど不可能なことじゃろうて。新たに接すれば接した分だけまた話題が生まれる。間に深い愛が横たわっていれば尚更にのう」
「誰と誰の間に愛があるってんだ?」
「勿論、儂と桜の間に決まっておろうが」
「思い込みの激しいジジイだな」
「なんじゃと?」
「二人共、本当に喧嘩するのが好きだこと」
どんな場面でもいつもの調子を崩さないピジョンとジスタに、思わず口を出してしまう。
「俺のせいじゃない!」
「儂のせいじゃない!」
見事に声を合わせる二人を見て否応なしに顔が綻んだ。私に感化されたのか、スターも静かに破顔し、ジスタとピジョンもまあいいかという様子で頬を緩めている。
よかった。笑って別れられるなど、理想的ではないか。
少し疲れてしまい、横になろうとした私をスターが手伝ってくれた。上掛けも丁寧に被せられる。それに感謝を込めて微笑みかけた。
「少し眠るわね。スター、ピジョン、ジスタ、今まで本当にありがとう」
必要な時は傍にいてくれて。様々に助けてくれて。
そして声には出さないけれど――ごめんなさいね。
魔力が衰えるその時を迎えるまで滅びることができないこの人たちは、どれほどの別れを経験してきたのか。百年も生きていない私ですら、置いていかれる悲哀を幾つも味わってきたのだ。重ねてきた孤独感は安易な想像を超えるのだろう。今回、私がまた一つ心の空隙を増やしてしまう。
ユヴェーレンはそれぞれが好き勝手に過ごしているようでいて、実はかなり身内同士の結束力が固い。同じ想いを分かち合う朋輩として、大切だと認め合っているのかもしれない。
スターが椅子を脇に退け、膝立ちになる。そして上掛けから出ていた私の手に、自らの手を静かに重ねた。椅子を勧めようとする私を止めるように口を開く。
「私たちの方こそありがとうございます。あなたとの出会いは、数多くの喜びや楽しみをもたらしてくれました。悲しいことばかりではないのです。だから私とピジョンは、人に混じって暮らすことを止められないのですよ」
スターらしい、包み込むような微笑みで言われてしまった。不備無く隠せたと思っていたのだけれど……。依然として私の心情はお見通しだったらしい。苦笑を返すと、右頬に唇が降りてきた。
次は儂の番じゃと声が聞こえ、反対側へ顔の位置と視線を動かす。
「お前さんにはどれほど感謝しても足りんくらいじゃ。そのお礼は唇への接吻で示してはどうかと思うんじゃがの?」
おどけた調子で言うジスタに強く感心する。さすがはジスタ。ここまで徹底していると最早あっぱれ。「スケベジジイ……」というピジョンの呟きを横に聞き、他の場所にしてちょうだいと笑いながら断りを入れた。
ゆるりと忍び込んできた眠気の中、まぶたに当たった柔らかさと、頬を撫でるひげの感触がくすぐったかった。
「そろそろどけ、ジジイ」という声と同時に、引っ張られるようにジスタが後退する。入れ替わりにピジョンが顔を出した。ジスタの「何するんじゃ!」との異議申し立ては耳に入れないことにする模様だ。
ピジョンはまるで本当の妹に語りかけるように、親しみを込めた表情を浮かべてくれている。私の方もいつしか自然と、ピジョンを兄のように慕っていた。
「お前はどこにいても俺の妹分だ。今まで楽しかった。――――元気でな」
元気で? 直に黄泉路へ旅立つ人間に何故そんなことを? 小さく囁かれた最後の言葉が少し気になる。けれどその疑問も左頬に落ちてきた熱に溶かされた。
手から伝わるスターの温もりに誘われるように、やがて私は柔らかい眠りに引き込まれていった。




