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空を映す海の色  作者: せおりめ
第3章
102/105

花の目醒め 1

 薄紅色の薔薇が香ります。ふわふわと。


 ここはローズランド、ローズフォール城。春も早い、太陽がまだ中天に差しかかっていない時刻。床に敷物が伸びているとはいえ、石造りの廊下は外よりも寒さが増します。

 わたくしの胸には今花瓶が抱かれてあります。滑らかな曲線を描く陶器で出来た、薔薇の葉を乳で薄めたような色合いの美しい花瓶です。先程庭師に纏めてもらった花束を飾り、広くて長い通路を足早に進んでいるところです。


 わたくしのお祖母様はかつて、天海の彩でいらっしゃいました。今はもうお年を召して銀色に変わっている御髪も、かつては闇夜に星屑を散りばめたように黒々としていたそうです。尽きぬ興味を宿した同じ色の目と共に輝き、その珍かな色組は人々の関心を捉えて離さなかったのだとか。

 そのようなお姿も、今はもう絵の中でしか拝見することは叶いません。どうしてわたくしはもっと早くに生まれなかったのかと、悔やまれてなりませんでした。

 今は亡き、金の髪と青い目を持つお祖父様のお隣で、端然と佇む天海の彩でいらっしゃるお祖母様のお若い絵姿。

 わたくしがその話題をお持ちしますと、「あの時は少し動くだけで絵師に咎められて辟易させられたわねえ」などと仰います。そのお顔が本当にうんざりしたようにしかめられ、思わず笑いを誘われてしまうものでした。気品と教養に溢れるお祖母様が、時折お見せになる少女めいた仕草がわたくしは大好きなのです。


 ふと、自然に顔が緩みます。無人の廊下、誰が見ているというわけでもないのですが、そんな自分を誤魔化すように窓の外へ目を向け、光に煙る山の緑を眺めながら先を進みました。

 ――思えば、お祖母様は風変わりなお方です。

 世にも稀なる天海の彩をお持ちでいらっしゃるという点ももちろん。誰にでも備わっているはずの魔力を全く保有なさっていないということ。また、わたくしが見たことも聞いたこともないような物事や生き物のこと等を、まるで失われたどこかに心を馳せているように、とても懐かしく愛おしむような眼差しでお話になるのです。

 そうしたお祖母様のご様子を見て、わたくしはどこか置いていかれたような、不安な心持ちになりました。そして同時に、頭の中によぎる記憶がありました。まだわたくしが物の分別もつかないような年の頃、一度だけ、内緒話を打ち明けるようにお祖母様はこうおっしゃったのです。


「――お祖母様はね、別の世界からやってきたのよ」


 もう、霞の向こうに漂うかのような朧気に儚い記憶。

 つぶさに追想したくとも、捕まえる端からスルリと逃げて形にならない思い出。

 お祖母様のくすぐる声だけが、心を羽で優しく撫でるような感覚と共に耳の奥に留まっています。

 以前、何かの折りに詳しくお伺いしたいと思い、お祖母様に改めて尋ねてはみたことがありました。しかし「そんなことを言ったかしら?」とはぐらかすようなお答えが返ってくるばかりでありました。

 ですからあの記憶が夢で見たことなのか、本当にあったことなのか、大きく揺れる振り子のように未だにその時々で下す結論が変わってしまうのです。

 どちらにしてもお祖母様が別の世界からいらっしゃったなどと、とても現実的なことだとは思えません。わたくしはもう十六歳。子供ではないのです。そのようなことを考えていると知れたら、王都にいらっしゃるお兄様方から夢見がちな妹へ向けて、呆れの混じった溜息を贈られてしまいそうです。ただでさえ「お前はぼんやりしているから」と意地悪な言葉を常日頃から頂戴しているのですから。


 かようにつらつらと考えている内に、お祖母様のお部屋の扉が見えて参りました。方形が浮き彫りにされた優美な扉です。

 ああ、でも――

 やはりお祖母様は不思議を体現なさっているお方です。扉へ近づくに連れ、段々と中から賑やかな話し声が聞こえて参りました。落ち着いた男性の声。少し乱暴な女性の声。愉快そうなご老人の声。時には子供の声が聞こえることもあります。

 以前からたまにこのようなことがありました。お祖母様のお姿を求めお探し申し上げている時、賑やかな声に引かれてそちらへ赴いてみると、お祖母様がいらっしゃるのです。――そして探し当てたお祖母様はいつも……

 わたくしは胸の花瓶を抱き直しました。僅かに緊張しながら息を潜め、音を立てないよう慎重に近付きます。今日こそは、と。

 でも、躊躇いながら扉をノックするその頃には、もう話し声は止んでいました。


「お祖母様、ミルドレッドです」

「どうぞ、ミリー」


 お祖母様の、おっとりとした中にも溌剌としたお声を確認後、扉を開けて部屋に入ります。

 明るい日射しの中、薪の爆ぜる音と暖かい空気がわたくしの全身を包みました。やはり気温の低い廊下を抜けている間に冷えてしまっていたようです。知らぬ内に強張っていた身体から力が抜けていき、じんわりと、滞っていた血液が隅々まで駆け巡る心地がします。

 絨毯や窓掛けなど暖色で纏められたこの部屋は、お祖母様のご希望で城の規模にしては狭い造りの一間になっております。

 趣味の良い調度品やあちらこちらに飾られた小さな置物、棚に一杯詰まった本が、そこはかとなくお祖母様の性質を表しているようです。ここに来ると心から落ち着くことができました。寝台からよく見える位置にある飴細工の花束は、昔お祖父様からお贈りいただいたものだそうです。硝子製の飾り棚の中で、美しく光を弾いています。

 部屋の中には、寝台の中に起き上がってニコニコと迎えてくださるお祖母様が、一人でいらっしゃるだけでした。他にはどなたの姿もありません。いつもそうなのです。あの不可思議な声は、その存在を耳でしか確認することができないのでした。しかも微かにだけ。

 お祖母様はわたくしが持っている薔薇の花に視線をお留めになり、目尻の皺を深く、相好をお崩しになります。しかし眼差しの奥に郷愁の色を覗かせられた瞬間を、わたくしは見逃しませんでした。

 やはり、この目。お祖母様の胸に潜む計り知れない感情に頭を巡らせつつ、わたくしはそっと扉を閉めました。寝台に近付きながら声をおかけします。


「お祖母様、今日はとてもお加減がよろしいようですね。横になっていらっしゃらないでお辛くはありませんか?」


 わたくしはお祖母様のお足元に立ち、そう気にかける素振りをお見せしながらも、大丈夫そうだと存じておりました。

 本日のお祖母様はお顔の色も大変優れ、絵姿とお変わりない双つの黒い目は確かな意志を宿していらっしゃいます。よき品性を表すように乱れなく結い上げられた御髪はその形を綺麗に保っています。午後にはまだ早い太陽の光を銀の色が弾き、キラキラと輝くさまは眩しく映りました。凛然と背筋を伸ばされたお身体は冷えぬよう、腕を通さずに羽織を肩にお掛けになり、お腹から下は寝具にくるまっておいでです。


「ええ、今日は歩けそうなくらい気分がいいの。萎えた足が残念だわねえ」


 寝具に隠れた足を見遣り、穏やかに紡がれるお祖母様のお言葉に、身体の奥に棘が刺さったかのような心持ちがいたします。お祖母様はこの冬に長の病を患われ、お歳のせいもあってか寝台を離れられないお体になってしまわれました。

 お祖母様のご心痛はいかばかりのものでしょう。わたくしの胸に、今にも飽和しそうな黒雲が立ち籠めます。溢れ出でて豪雨になりそうです。

 ――いけません。そこでわたくしはハッと気付き、考え込みそうになった自分を諫めました。このように暗く沈んでいてはお祖母様がお気になさいます。ご機嫌伺いに参ったわたくしがお祖母様に慰めていただくなど、あってはならないことでしょう。


「お祖母様がお元気だとわたくしも嬉しゅうございます。ご覧になって、お祖母様」


 わたくしは、薔薇の花瓶を掲げ、お祖母様にもよく見えるようにしました。


「庭師のブルーノが特に美しい花を選んでくれました。お祖母様の元気なお姿を拝見できるように祈っておりますと、申しておりました。わたくしも同じ気持ちでおりますのよ」

「まあ、ありがとう」


 お祖母様は胸の前で指を交差させ、ほわほわとまなじりを下げていらっしゃいます。


「とても嬉しいこと。こうしてミリーが顔を見せてくれるから、どんどん良くなっているような気がするのよ。ブルーノにもお礼と、お祖母様が喜んでいたことを伝えてちょうだいね」

「申し伝えます。薔薇はここに飾っておきますね」


 わたくしはそのご様子を満ち足りた思いで眺めた後、すぐ横にある出窓に花瓶を置きました。


「そう言えば、お祖母様」


 口を開きながら、寝台脇に設えてある質のよい椅子に腰掛けます。


「ブルーノが、この薔薇はお祖母様の故郷に咲いてあった花だと申しておりました。バルトロメへお出でになった際に愛でられたものではなかったのですか?」

「あら、まあ、お祖父様はブルーノにそうご説明なさったのね」


 一瞬きょとんとした表情を作られ、次いで思わずといったように下を向きながら、お祖母様はお声を抑えて笑っておられました。


「お祖母様?」


 なんだか楽しそうでいらっしゃいます。でも置き去りにされたわたくしは訝しがるばかりです。

 やがて、お祖母様はごめんなさいねと仰りながら、お顔の位置を戻されました。


「ミリーに説明した方が正しいの。同じバルトロメの花だから、お祖父様はブルーノにそう伝えられたのね。お祖母様の故郷は容易には辿り着けない、とても遠い所にあるのよ――」


 最果ての……。久遠の彼方を見つめるような面持ちで、お祖母様はそうおっしゃいました。何故か、お祖母様がそのままどこかへ行ってしまわれそうな気持ちになり、わたくしは急いで言葉を継ぎます。


「お祖母様はバルトロメのご出身なのでしょう?」

「そうねえ…………」


 お祖母様は一度目を閉じられ、何かの思いを散らすようにしてゆるゆると首をお振りになります。


「ところでミリー、あなたのお兄様たちは王都で職務に励んでいるのかしら? 皆の様子を聞かせてちょうだいな」


 唐突にお話を変えてしまわれました。わたくしはもう少しお祖母様の故郷について話をお伺いしたかったのですけれど、なんとはなしに躊躇われたのでした。

 そうして、しばらくお祖母様とお話を楽しんだ後、これ以上はお疲れになるだろうからと、わたくしはこの場を辞去することにしました。


「それではお祖母様、また明日お伺いいたしますね」


 椅子から立ち上がり、お祖母様の頬に口づけを落としてから扉へと向かいます。


「ミリー、いつかの答えを上げましょうか」


 突然、今にも扉を閉めようとしていたわたくしにお祖母様の穏やかなお声がかかりました。

 ――いつかの?


「何についてのお答えでしょうか、お祖母様?」


 扉を少し開け直し、そこへ手を掛けたまま尋ねるわたくしにお祖母様はこうおっしゃいます。


「――お祖母様はね、別の世界からやってきたのよ」


 わたくしの目が、平静な様子を保つお祖母様のお顔に固定されました。なんと、仰いました?

 暫し思考が時を止め、空白に支配されます。頭の中を風が駆け抜け、全てを攫っていくような……。お祖母様、何を?

 不意に、記憶の中にあるお祖母様の声と、先程の声が同じ型を持つ判のようにピッタリと重なりました。同じ声音、抑揚、響き。――では、あれは本当にあった?

 部屋の隅まで迸るほどの驚きを抱き、言葉にならない思いを込め、視線でお祖母様に訴えかけました。真実なのでしょうか? それともご冗談なのでしょうか? 自然と、扉に掛けた手は表面を掻くかのように力が入り、胸の音がかなりの速さを誇示するべく身体全体に広がります。

 お祖母様!

 次の瞬間、わたくしの求めを身体全体でやんわりとお受け止めになったお祖母様がその顔に浮かべられた表情を、わたくしは生涯に渡って忘れないでしょう。

 根雪を溶かす、まるで日溜まりのような――

 なんと申しましょうか。わたくしはその笑顔にすっかり毒気を抜かれたとでもいいますか。その、お祖母様が仮にこの世界の住人ではなかったとしても、今こうしてここにいらっしゃるのだからいいのではないか、という心境になってしまったのです。

 わたくしは一度大きく息を吸い、そして細く、細く吐き出しました。……よろしいですわ、お祖母様。ここは大人しく下がらせていただきます。

 でも。


「お祖母様。それについては明日、必ず詳しくお聞かせくださいませね?」


 約束です、と心の中で独りよがりにつけ加えます。

 少しだけ首を傾げられたお祖母様のご様子を確認し、わたくしは扉を閉めました。お祖母様のお部屋を出た後は、いつも必ず心が軽く、明るい気分になります。やはり、お見舞いに伺ったわたくしの方が逆に元気づけていただいているようです。反省しきりではありますが、弾む心のために口の端が上がりすぎて、痛む頬を抑えきれません。


「ふふっ」


 あら、声まで出てしまいました。はしたない。口元を片手で押さえます。

 わくわくします。明日がとても楽しみです。


 しかし翌日、あの印象深い笑顔をわたくしの奥深くに残したまま、お祖母様は人知れずわたくしたちの前からお姿を消してしまわれたのでした。

 歩けないお祖母様が自ら出て行かれるなど考えられず、また、怪しい人物を見たという報告も入ってはきません。城を上げての懸命な捜索活動にも関わらず、とうとうお祖母様が見つかることはありませんでした。

 しかしわたくしもそうなのですが、城内に悲壮な空気は漂わず、皆がいつかはこんな日が来るのではないかと。遂に来るべき日が来てしまった、そう思っていたかのような奇妙に落ち着いた雰囲気がありました。――少しの寂寥感を伴いながら。


 後日、わたくしはお父様にお祖母様のことをお訊きしました。


「お父様、お祖母様がアージュアではない、別の世界からいらっしゃったという話をお聞きになったことはありますか?」

「いいや、お前のお祖母様はバルトロメご出身だったろう? 伺ったことはないね」


 お父様はわたくしが何故そんな突拍子もない話を持ち出すのか、と困惑したご様子です。ところが、次に続いたお父様のお言葉は、わたくしを驚愕させてあり余るものでした。


「ただ、ユヴェーレンとお知り合いだったとは聞いたことがある」

「ユヴェーレンと!? 本当ですか、お父様?」

「ああ、私は見たことがないけれどね」


 そうだったのですか、ユヴェーレンと……

 ユヴェーレン、世界の平定者。こちらからは望んでも決して会うことは能わぬはずです。魔力の無いお祖母様が、いかにして最高位の魔術師であるユヴェーレンのお方と接点をお持ちでいらっしゃったのか。天海の彩、という共通点が何か関係しているのでしょうか。

 ひょっとして、あの不可思議な声の正体は……



 抜けるような青空の下、わたくしは薔薇園に降り立ちました。

 幾日か前にはうっすらと残っていた雪もすっかり溶け去り、緩やかな風に乗る薔薇の香りに混じって、ミミズやモグラたちが潜り掘り起こした土が新鮮な匂いを立ち上らせています。降り積もっているはずの花びらが多く見られないのは、掃き清められたばかりなのかもしれません。ブルーノの姿はないようです。休憩を取っているのでしょう。

 わたくしは一面に広がる薔薇の茂みを見渡しました。濃い緑色が目立ちます。

 お祖母様は今、どこでどうしていらっしゃるのでしょう。

 ユヴェーレンがお連れになってしまわれたのでしょうか。

 それとも――――?

 薄紅色の薔薇はもうほとんど散っています。残っているのは、茎にしがみつくようにして震えている数少ない花弁ばかり。

 それでも、ほら。

 吹き上げる強風が去った後に、はらはらと。

 大気を綾取る花びらの幕が。

 最後を飾るように、それは美しく。

 追憶の中に、溶け込むように。


「お祖母様……」


 わたくしが小さく呟いた声が、舞い散る花びらに紛れていきます。

 お祖母様、ご覧になっているのでしょう?

 わたくしと同じように、故郷の花が流麗に散るさまを。

 きっと日溜まりのように、その目を輝かせて――


 目を閉じ空を仰げば、花びらの軽く柔らかい感触が顔の表面を撫でていきます。

 まぶたの裏にまざまざと浮かび上がるのは、最後に拝見したあの笑顔。


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