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空を映す海の色  作者: せおりめ
第3章
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間話 ロズ・セリジア

 雪を乗せた灰色の雲は南風に追いやられました。厚みをすっかり失ってしまった白く冷たい絨毯の下からは、若々しい萌芽が命の力を漲らせ、咲き誇る瞬間を今か今かと待ち侘びています。冬の間、氷の中に時を止めていた小川はその流れを取り戻し、空を舞う鳥たちは高らかにその鳴き声を響かせます。

 ローズランドに春が訪れて参りました。


 ローズフォール城の本館二階。

 南に位置する広間のテラスから、庭園へと続く階段が伸びています。明るさと強さを増した太陽の光を心地よく浴びながら、幾重にか折り返す石段を踏みしめ降りると今の季節、夢のような光景が広がっているのです。

 ふわりと漂う淡い芳香。視界を覆い尽くす、薄紅色の薔薇。

 春の初めに見頃を迎えるこの薔薇は、ちょうど盛りの時期を迎えています。緑の葉を覆い隠すように咲き誇る花々。花びらのひとつひとつが境も分からぬほどに混ざり合い、広がって。上からの眺めもそれは美しいものですが、間近で色づくこの眺めが格別なのです。

 雪と土のぬかるんだ地面に降り立ったわたくしは、薔薇の傍で鋏の音を立てる人影を見つけると、滑ってしまわぬように気をつけながら近寄っていきました。


「ブルーノ」

「これはミルドレッドお嬢様」


 老齢に差しかかった庭師のブルーノは、わたくしの姿を認めて作業を中断しました。穏和な性格を刻んだしわにより一層の深さを加えながら、ツバの広い帽子を脱いで挨拶を返してくれます。


「大奥様へのお見舞いですかな?」

「ええ。お祖母様はこの薔薇が大好きなのですもの。お持ちすると、とても喜んでくださるの」

「そうでしょうとも。よくこの庭にお出でては、長い時間を過ごされていたものです」


 この薔薇庭園は、数年前に亡くなられたお祖父様が、お祖母様のためにお造りになった場所なのだと伺っておりす。なんでも、バルトロメ北部にご旅行した際、その地方に咲いていた薔薇をお祖母様が大層お気に召したのだとか。毎年この時期にローズランドを訪れては、お祖母様とこの眺めをご一緒させていただくのがわたくしの楽しみでもありました。


「大奥様のご加減はどうなんです?」


 帽子を被り直し、ブルーノが気遣わしそうに尋ねます。


「先に引いた風邪ですっかりお身体を損ねてしまわれたようなのです。もう寝台から出ることもままならないご様子で。お祖母様付きの侍女の話では、眠っていらっしゃる時間が日増しに長くなっているのだと……」


 昨年の秋に訪れた頃にはかくしゃくとお元気でいらっしゃいましたお祖母様は、お歳と先日見舞われたご病気によりすっかり弱まってしまわれました。わたくしは夜、お祖母様にお休みの挨拶をする度に、お会いするのがこれで最後になってしまわないかと不安でなりませんでした。そして、翌朝お目覚めになっているお祖母様を拝見して安心するのです。


「それじゃあ、この庭で薔薇たちを大奥様に見ていただける機会はもうないんですかなあ……」


 寂しそうにブルーノが呟いたその時、春を告げる一際強い風が吹き抜けました。

 髪を抑える手の間越しに覗く絶景。

 攫われる花びら。風に舞い、微睡みに見る霞と化し、辺り一面を染め上げる。

 それはまた真冬に降りしきる大雪をも彷彿とさせて。

 息を呑むこの光景は、季節が戻ってしまったのかと見紛うほどでした。


「綺麗」


 空から零れ落ちる花びらは、新雪のようにぬかるみの上へ降り積もります。


「この風が吹き始めると、この薔薇もそろそろお終いのようですな」

「――そうですね。とても寂しいことです」


 散りやすい薔薇。

 彩りも、香りすら控え目な花。風に散らされる儚い命。

 だからこそ、その生を惜しみ、一瞬が心に焼きつけられるのかもしれません。

 ――そうだ、寂しいと言えば。わたくしは、自分の発言にこの薔薇を見つめるお祖母様の横顔を思い起こしました。


「お祖母様はこの薔薇をこよなく愛していらっしゃいましたけれど、時折とても切なそうな目でご覧になっていました。お祖父様のことを思い出していらしたのかしら?」


 そういった時、お祖母様の表情を見るのは憚られ、わたくしは花に気を取られている風情を装い、気付かぬふりをしていたものです。


「ふうむ。それもあるかもしれませんがなあ……」


 ブルーノは一度考え込むように言葉を切り、鋏を持った手で帽子を被った頭を掻きながら続けます。


「大旦那様がご存命でいらっしゃった時も、お二人はよくご一緒に庭園を眺めておられましたな。それは仲睦まじいご様子でしたが、最後の方には決まって大旦那様が大奥様を慰めるように抱き締めておいででした。この薔薇は、大奥様の故郷にある花をこの地で根付かせられるように、品種改良して出来たものです。もしかしたら、ここを見る度に郷愁の念にかられておいでだったのでは?」

「お祖母様の故郷……」


 お祖母様は、隣国バルトロメのご出身だと伺っております。確かに、この薔薇はバルトロメ原産の花。一応の筋は通りますが……。

 わたくしが聞いておりました、ご旅行の際に気に入ったからここをお造りになったというお話とは食い違っています。これはどういうことなのでしょうか?

 つい俯いて物思いに沈んでしまったわたくしは、パチンと薔薇が切り取られる音をどこか遠くに聞いておりました。


「どうぞ、お嬢様」


 顔を上げると、目の前には丁寧に棘が抜かれた露の煌めく薔薇が、美しく瑞々しい花束となって差し出されています。


「先程の風にも負けずに残った強く綺麗な花を選んでおります。大奥様が早く元気になるよう心から祈っております、とブルーノが申し上げていたとお伝えください」

「ありがとう。必ずお祖母様に伝えておきます。さぞやお喜びになるでしょう」


 薔薇を受け取り城を見上げると、薄紅色をした一陣の風が、視線を追い越すように駆け抜けていきました。

 この薔薇の名称は、お祖母様のお名前と同じ意味を持つと聞きます。

 どうか、薔薇と同じく、お祖母様もまだまだこの生ある世界にお残りになりますように。


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