ローズランド公爵領 3
まだ明け切らない朝の、冷たい空気の中。森に、小鳥のさえずりが爽やかに響いている。その、生まれたての清涼さとは対照的に、「痛ぇよ!」やら「クソッ、触んじゃねえ!」やらの、あんまり穏やかじゃない声が木々の間をこだましていた。
大体、私がこんな朝早くに目覚められるはずがない。健康な子供というのは睡眠時間をたっぷり取るもので、今までの私はそれをちゃんと実行してきたのだ。
それなのに、馬の嘶きと蹄の音が騒がしく聞こえてきて、ビックリして目が覚めてしまった。
昨晩アステルが言っていた通り、お城からの兵士さんが盗賊の人たちを引き取りにきたみたい。
ご苦労様――なんだけれど、睡眠不足は子供の成長を妨げるんだぞ、と心の中でしっかり文句を述べておいた。
起き上がって向かいのソファを見ても、馬車の中は私一人しかいない。エレーヌは外へ出ているみたいだった。
窓越しに外を覗いてみる。でも、木々の幹や生い茂った草、それから別の馬車に邪魔されて、ここからでは盗賊や兵士の人たちの姿は見えない。
暇、だなあ。一度大きく欠伸をして、ウーンと伸びをする。
退屈は猫の子を殺す。一瞬、アステルに散々絞られた昨日のお小言が頭を掠めた。けれどここでぼーっとしているのもつまらないし、外の様子も全然わからない。
怒られそうになったら、目が覚めたら一人ぼっちで心細かったのだと、哀れみを誘う声で誤魔化してみよう。
というわけで、ドアを少しだけ開けて外の様子を窺ってみる。頭だけを出して、キョロキョロ周りを見渡す。
盗賊の人たちは両手を身体の前で縛られて、鎧を着て槍を持っている兵士らしき人たちにぶうぶう文句を零しながら、しょっぴかれていた。
そーっと馬車を抜け出し、みつからないようになるべく近くまで寄っていく。側の木に隠れてからコッソリ覗いてみた。盗賊の人たちは頑丈そうな木で出来た、長方形に長い馬車にぞろぞろと入っていく。窓は後ろ側に一つしかないみたいで、多分、護送車ならぬ護送馬車なんだろうと思う。
アステルたちはどこにいるんだろう? 少し身を乗り出して視線をさ迷わせていると、ふと振り返ってこちらに顔を向けた盗賊の一人と、バッチリ目がかち合ってしまった。驚愕も露わに、「天海の彩!?」と叫ばれる。
バカっ、何もそんなに大きな声を出すことないじゃないか!
昨晩より大分明るいとはいえ、逃亡者のようにコソコソしている私を見つけて、さらに髪と目の色に気づくなんて、無駄にいい視力を持っている。
やっぱ、外へ出るんじゃなかったかも。
とは思っても、後の祭り。盗賊の人たちはどさくさに紛れてこっちへ来ようとするし、兵士の人たちはそれを止めようと躍起になっている。一騒動になってしまった。
――うん。これはまずいよね。
幸い、逃げようとした不届き者たちは、すぐに護送馬車へ蹴り込まれていた。でも、原因が私だと知れてしまったら、心細かったなんて馬鹿げた言い訳が通用するはずない。
ど、どうしよう。ちょっとの間目を泳がせつつ考えた。
よし、逃げよう。元の通り何てことない顔をして、馬車の中で寝たフリをしているのだ。
私は馬車へ引き返すために踵を返そうとした。でもどんぴしゃなその瞬間、ポンと肩を叩かれる感触に襲われる。身体が固まりすぎて、どこかにピシリとひびが入ったような気がした。
振り向きたくない……。でも見ずに済むわけないんだよね、やっぱり。
震え出す心を抑え、恐る恐る振り返る。いつの間にここまで来ていたのか、予想通りアステルが立っていた。
タイミングのいいことに、丁度アステルの後ろから、昇り始めたお日様の光が差し込んできている。逆光になっていて、きらきら光る金髪に囲まれた顔の表情は見えなかった。きっと例の怖い笑顔をしているんだろうから、逆に助かったという思いで一杯だった。
「おはようございます、桜」
いつも通りの声。でも、滲み出る苛立ちはひしひしと感じられる。おはようと返したかった喉から、うぐぐという情けないが呻きが漏れた。アステルが声に、ここまで感情を乗せるなんて初めて聞くなあ。これで表情まで見えていたら、私は戦慄に涙していたかもしれない。
私が立ち直る間もなく、アステルは脱いだ自分の上着を私の頭からすっぽり被せて、私を抱え上げてから馬車の中へ戻っていった。その途中、じたばた抵抗したら余計にまずいことになりそうなので、おとなしくしておいた。
アステルは私を馬車のソファに座らせ、被せた上着を丁寧に脱がせてから、自分はその向かいに腰かけた。怒っているだろうに、ドスンという感じではなくて、いつもみたいに静かで優雅に。育ちの良さが滲み出ているのか、どんな時でも冷静に、感情を表に出さないように気をつけているのか。でも何を考えているのかが測れなくて、不安になる。
「えーと、その、起きてみたら誰もいなくて……それで寂しくてつい出ちゃったんだけど……」
一応、用意していた言い訳を試してみた。
予定していたような哀れみを誘う声は出せず、反応を怖々と窺うような調子で、最後の方は消え入りそうになってしまった。恐ろしいからアステルの顔は見ないことにしておいた。
「……」
この沈黙が何よりおっかない!
ここはもう、素直に謝った方が得策かもしれない。
許してくださいと口を開きかけると、「はぁ」とやけに諦めの混じった長い溜息をつかれた。
あ。
おかしなもので、その溜め息一つに私は打ちのめされてしまった。どんな言葉よりも雄弁に、アステルの心境を物語っている。さっきまでのふざけた考えなんて、保てる余裕もない。
呆れられちゃったかな。今すぐ消えられたらどんなにいいか。さっきとは違う意味で、アステルと顔を合わせられなかった。
「……大勢が入り乱れる騒がしい中に、貴女を一人にしてしまったのはこちらの落ち度です。ですが分かりましたね、自分がどれほど人の注目を集めてしまう存在なのかが。危うく、捕らえていた盗賊たちを逃がしてしまう事態にもなりかねませんでした」
ガミガミと怒られるでもなく、こうやって言い聞かすように諭されてしまうと、嫌でも自分の行動が軽はずみだったことを思い知らされてしまう。あのまま盗賊の人たちが逃げてしまっていたら、アステルや護衛の人たちの奮闘も、水の泡になってしまうところだったのだ。それどころか、私だって捕まって売り飛ばされていたかもしれない。
だらんと下げていた両こぶしをぎゅっと握り締める。力が入り過ぎて、ブルブル震えだした。
恥ずかしい。
本当に私は、言われただけでは懲りない。やってしまってから初めて、自分が何をしでかしたかを理解する。
――ようするに、子供なんだ。
「ごめんなさい。反省してます……」
喉と鼻の間が痛い。顔全部に熱が集まってくる。声を出す部分が腫れ上がってしまったかのように、謝罪の言葉が潰れた。限界まで俯けた顔を、もっと下げたい。都合よく流れ出す涙を発見されて、泣けば済むと思っているなんて、さらに呆れられるなんていやだ。
アステルが言葉を発しようと、息を吸い込む。何を言われるかと、私は身構えた。
「貴女はまだ子供です。子供は色々な体験を積んで大きくなっていくものです。ちゃんと分かっていただきたいから昨晩も、そして今も厳しいことを言っていますが、変に聞き分けがいいよりは、後々に自分のためになるかもしれません」
え?
覚悟していたキツイ罵りと全然違った。
少し顔を上げて、上目遣いでアステルを見てみる。
涙で霞む向こう側にあるのは、怖い笑顔じゃない。仕方がない、というような。でも柔らかい微笑みだった。
「貴女が中々危機感を持てない、少々注意力の足りない人だと、こちらが気をつけていけばいい話です。ですがこれからも、ちゃんと説教はさせてもらいますからね」
前半はちょっと酷い言い草なんじゃない?
声に乗せない反論を思い浮かべながらも、私のことを子供だと言っているのは、年齢のことだけではないんだろうと気づいた。アステルだって、まだ十七歳なのだ。日本だったら十七歳といえば高校生で、まだまだ頼りなくても当たり前に許される年齢だ。なのに、今回の旅では責任者として目を配って、みんなを守る努めを果たしている。
きっとこの世界では、私の歳だったらもっと色んなことができて当たり前で、精神的にもしっかりしていないといけないんだろう。
本当は、まだ出会って二日しか経ってない人にここまで言わせてしまうなんて、申し訳ないと謝らないといけないのかもしれない。そんな風に気を配ってもらわなくても、これからはきちんと気をつけますと断るべきなのかもしれない。
でも、嬉しくなってしまう。自分のままでいたらいいと受け入れてくれたんだ。
アステルは厳しいことも言うけれど、いつもその後でフォローをしてくれる。見捨てずに、ここが私の場所だと示してくれる。
すんと鼻をすする。痺れそうになるほど強く目を瞑り、袖でぐいっと涙を拭った。ちゃんとアステルと視線を合わせたい。水分なんて邪魔。ヒクつく喉をなんとかするために深呼吸。ちゃんとお礼を言わなきゃ。
「ありがとう。私、これからもこういうこといっぱいしてしまうかもしれないけど、その度にちゃんと何かを手に入れて、立派に成長していけるように頑張るからね」
我ながら気骨のある宣言だ。
声が震えそうになったけれど、アステルの目を見てお礼を述べることができた。見つめ返してくれる目が優しく細められる。「頑張って成長してください」という言葉と一緒に、よくできましたとばかりに頭を撫でられた。
この行為にも、もう素直に喜んでおけばいいんだよね。




