悪役さん。さようなら。バイバイ。
「ねえ、ほんとに百グラム?」
キッチンで夕飯のサラダを準備している僕に、妻の奈々は食卓席からカウンター越しに刺すような視線を向けてきた。
「やっぱ多いよね、米」
沸々と湧き上がる怒りを逃すように、スプーンでカレーライスが入った陶器の容器のふちをかんかんと小突く。
そんな彼女に僕はいつものように柔らかな表情を向けた。
「ちゃんと測ったよ」
「うそつけ。どう見ても多いじゃん」
「そんなこと」
「は?何、言い訳?いや、嫌がらせか」
怒気を含んだ声を吐き捨てると、奈々は持っていたスプーンを食卓テーブルへ放った。
からんとスプーンが着地する音に、思わず肩がびくっと跳ね上がる。同時に身体中を行き場のない怒り、悲しみ、やるせ無さ、ストレスといろんな負の感情が包み込んでいく。
それでも僕は彼女にこれ以上反発することなく、自分を悪役にしたてあげ、非を背負うしかないのだ。
そんな悪役が口にしていい言葉一つだけ。
「ごめんなさい」
もう何千、何万回目かわからない僕のごめんなさいは案の定、奈々の怒りを爆発させた。
「あのさああ!もういいってば!!」
こうなったら、奈々の憤激は止まらない。
彼女の怒りを僕は満杯になった心で受け入れるしかないのだ。
「毎回ごめんなさいごめんなさいってさ、それしか言えないの?」
他の言葉を選べば、もっと壊れるだろ。と喉元まで出かかった本音を押し殺し、視線を落としてただ耐える。
だがその沈黙すらも彼女を苛立たせる。
「ああああ!わかっかんないかなあ?その黙り込むのも飽きたんですけど!?てかさこのやり取りもう何回目!?あんたさ、あたしをそんなにストレスフルにしたいの?それとも苛立たせたいだけ?」
「そんなことは…」
「声ちっせぇんだよ!」
「そんなことはっ……ない」
「だったら言ったことくらいちゃんとやれよ!誰のおかげで今のあんたがあるのか理解してんならさあ!」
次の瞬間、奈々は立ち上がり、怒りのままカレーライスが入った容器を勢いよく払い飛ばした。
彼女から離れたリビングのフローリングに、ぱりんっという音とともに散らばる容器の破片とぐちゃぐちゃに散らばるカレーライス。
健康診断直前だからとカロリーを気にしつつある彼女が今朝急に食べたくなったというので、仕事から帰ってきて、カロリーを計算して手間と時間をかけて作ったのに。
奈々はそんなことを知る由もなくそれを見下しながら鼻で笑う。
「こんな不健康なもの食べてらんないわ」
そう吐き捨てると食卓の椅子にかけていた白のロングコートとブラウンのカバンを手にした。
「外で食べてくるし、夜遅くなるから。それまでにちゃんと片付けておいてよ」
そう言い残し、奈々はばんっ!!と乱暴にリビングの引き戸を閉めて出て行った。
取り残された静寂だけがじわじわと空気を重くし、息が詰まりそうになる。
こうなると僕は、酸素が不足した魚が水面に浮上するようにベランダへ逃げるのだ。
手すりに前のめりに体重を預け、ため息を吐きながらマンションの八階から眼下に広がる都心の夜景を見下ろす。
かつては美しく感じた都心の光も、今はただ、やるせない時間の象徴にしか見えない。
春の夜風だって頬を撫でてくれて、本当は心地よく感じるはずなのに、心のざわめきは止まらない。
こうして僕はまた、無意識に過去を蒸し返していくんだ。
『あすかくんがそんな目で誘惑するから悪いんだよ?』
これは歪んだような笑顔で僕に言い放った養母の言葉。
身寄りのない僕は七歳の時にニ十代半ばの夫婦のところへ養子として迎え入れられた。
養父は僕のことを実の息子のように可愛いがって、気にかけてくれた。
しかし養母は違った。あの人は僕を他人として見ていたらしい。
そして高校一年生の夏、僕は養母に初めての春を奪われた。
養父に気づかれていないことと、僕の居場所を担保する大義名分で、養母は何度も僕を貪り続けた。
涙で滲んだ視界に映った養母の歪んだ笑顔が今も時々フラッシュバックしては僕を苦しめる。
おかげで自慰行為すらもできなくなった。
その後、僕は大学へ進学し、養母から逃げるように一人暮らしを始めた。大学の学費は奨学金で賄い、生活費はアルバイトでやりくりした。
養母の支配から逃れた先にあった新しい生活と新しい人間関係は僕を正常に戻してくれるとそんな希望に満ちていた。
大学生活が始まって、最初の夏休みに恋人ができた。
順風満帆に思えたが、初めて恋人が僕の家に泊まりに来た際に行為を求められた。そしてあの養母の歪んだ笑顔がフラッシュバックして、僕は恐怖で身体が硬直し、涙が止まらなくなった。
そんな僕を見て恋人は離れていった。
僕は結局、壊れた不良品のままなのだと思い知らされた。
その後も何人かの女性に告白されたが、行く末は目に見えていたので断った。一生孤独なんだと卑下した。
そんな中、大学三年生の時にゼミで奈々に出会う。同学年だった彼女とは最初、気の合う友人くらいに思っていた。
出会って半年ぐらい経った頃、初めて二人きりで飲みに行った。
お酒が少し回っていたせいか僕は話す必要なんてないはずなのに、気がつけば過去を打ち明けて、これまで押し殺していた感情を溢してしまった。
そんな僕に奈々は「大丈夫だよ、流星くん。私がいるから」と言って手を握ってくれた。
たったそれだけのことだった。
そのとき果たして奈々は言葉通りの本心があったかどうかわからないが、僕は彼女が自分を救ってくれる唯一神のように思ってしまった。
そんな具合に僕は彼女との交際をスタートさせた。
大学を卒業すると同時に奈々と彼女の父に説得され、彼女の父が営む中企業へと就職し、同時に奈々と同棲を始めた。
最初は気遣いのある交際当初と変わらぬ優しい彼女だった。
だけど半年が過ぎたころから、彼女は少しずつ僕に理由もなく不満や怒りをぶつけてくるようになった。
僕はいつしか顔色ばかりを伺い、言葉も慎重に選ぶようになった。日に日に、降ろすことのできない重圧が僕の心を圧迫していった。そんな生活から逃げ出したくて、一度だけ、僕は奈々に別れを切り出したことがある。その時は彼女に泣いて懇願された。
「お願い!別れたいなんて言わないで。あたし、これからはちゃんと流星くんのことを考えるから」
そんな彼女の絵空事に僕は愚かにも愛情を感じて、信じてしまった。
だが数日後、奈々の父はわざわざ僕の前に現れ、穏やかな笑みで告げた。
「娘が君を気にいっているから、私はどこの馬の骨かもわからない君を家族として迎え入れてやるんだからな。そんな善意のある私たちの顔に、泥を塗るようなことがあれば、どんな手を使っても君を潰してやる。ま、くれぐれも手を噛むような真似はやめてくれよ」
僕は養母の檻から奈々とその家族の檻に鞍替えしただけと、愚かにもここではっきりと理解した。
婿入りという形で結婚して僕はさっそく彼女に悪役として利用された。
僕とは別の部署で働いている奈々は、その部署で自分が有利な立場に立つために、煙たがっていた上司を家に招待して、そして僕と関係を持たせた。
やれと言われて一度は断ったが、彼女に居場所と今後の人生を担保にされて、僕は保身のために彼女の言う通りにした。僕の人生においての拭いきれない汚点だ。
そうして僕は保身のために、好意のない彼女の上司に近づき、思ってもいない誘い文句を囁いて、手を握った。行為はしなかったが、口付けはした。
決定的な証拠ほしさに奈々に強制させられたからだ。
後日、僕との不純な行為の一部始終を収めた動画を奈々はその上司に突きつけ、退職にまで追いやった。
同時に僕も周りから不倫社員と揶揄された。その噂がお義父さんの耳に入るやいなや、彼から殴り蹴られ、罵詈雑言を浴びせられた。そんな僕を庇うことも、弁明もせず、奈々は見てみぬふりをした。
後の祭りだが、今でも僕は元上司さんのことを案じている。加害者であることに変わりはないが、それでも気が気でならなかったからだ。
そうやって僕は罪悪感にさいなまれながらも、彼女らの顔色を伺い、自分を悪役にして……。
「もう…待てないよ」
ベランダで行き場のない乾いた独り言をこぼした瞬間、それに反応するかのようにスマホの着信音がなった。
すぐさまスマホを手に取ると、明るくなった画面にはメールの表題が表示された。半年前から雇っていた探偵からだった。
『浦下奈々に関する調査報告書と証拠写真確認のご連絡』
心臓が早鐘を打つ中、メールを開き内容を確認した。
定型文のような挨拶の下にデータファイルが一つ添付されていた。そのファイルを開くと報告書のPDFと写真二十枚のデータが入っていた。
報告書には奈々が同僚の男性と恋愛関係を持っていることと、それに関係する半年分の足取りがまとめ上げられていた。
写真はその男性と手を繋いでいるものから、ホテルに入っていくところ、さらには路上で人目も気にせずディープキスをかましてるものもあった。
そんな報告書や写真が、僕にはようやく手の元へやってきた眩く輝く希望の光に見えた。
そこからの足取りは羽が生えたように軽かった。
リビングに戻り、無惨にぶちまけられたカレーライスに未練も感情すらも感じることなく淡々と片付けて、足早に自室に向かった。
まず手筈通りに退職代行の弁護士に退職の依頼をした。
無責任な退職の仕方だと思われて当然なのは百も承知だが、義父の会社ゆえ、まともに退職届が受理されないことは目に見えている。
だからこそ新しい就職先の会社へは退職代行を利用して退職することを面接時に説明済みだ。その上で採用してもらった。理解のあるいい社長だったよ。
弁護士からはすぐにメールが返ってきた。
明日朝九時に会社の人事部に退職の連絡をしてくれるらしく、そこから一切は請け負ってくれるということだ。
半年前から相談して、面識も実績もある弁護士だ。心配はない。
あとは自身の諸々の証明書や、こっそりと貯めていたお金が入った通帳、そしてわずかな私物を大きなリュックサックに詰める。
これが今の僕の全てかと一瞬呆気にとられてしまったが、そんなことは些細なことだ。笑みさえ溢れるくらいに。
全ての支度を手筈通りに終え、再度忘れ物がないか部屋をもう一度見回していると、玄関の扉がばたんっと閉まる音が聞こえた。
もうそんな時間なのかと時刻を確認すればまだ二十二時と結構早いご帰宅だった。
心の準備が少々追い付いていないが、待ちに待った瞬間であることに違いはない。
深呼吸を一つ置いたあと、リュックを背負い、引き出しから離婚届を引っ張り出して空っぽになった自室を出た。
リビングに入る直前、玄関に乱雑に脱ぎ捨てられたヒールが目に入ると同時に酒ぐさい匂いが漂ってきた。
健康診断前だと言ってヒステリックに喚き散らしていたくせにと呆れて思わずほくそ笑みが溢れる。
そんなほくそ笑みを鎮めて、僕はリビングの引き戸を開けた。
するとソファーに背を沈み込ませ、スマホをいじっている奈々が目に入った。
そんな彼女はリュックを背負った僕を横目で見るなり、ふっと鼻で笑ってきた。
「そんなもの背負って。家出っすか?」
「家出じゃないよ」
永遠の別れである。
「ま、そだよね。あんたにそんな自信も資格も、権利すらないもんね」
スマホを操作しながら、したり顔を披露してきた彼女に僕は言った。
「あるよ」
その一言に彼女は表情を変えず、スマホを操作し続けながら口を開く。
「ふーん。じゃあ出て行けよ」
「わかった」
「本気?まあいいや。とっとと出ていけよ」
奈々からの返事は素っ気なかったが、むしろラッキーだと思った。それならと今だにソファーに身を預けて、スマホを注視する彼女の眼前に離婚届を突き出してやった。
「は?なんのつもり?」
本気で出ていくつもりだということがようやく伝わったようで、奈々の表情が固まった。
そんな彼女に淡々と要件だけを伝える。
「今すぐ離婚届に記入して下さい。もちろん押印も忘れずに」
「いや、だから──」
奈々の言葉を遮り、僕は話を続ける。
「仕事は明日退職します。退職代行の弁護士から人事課に連絡が入るので。あ、もしお義父さんに何か言われたら奈々からよろしく伝えてください」
「あんた、本気で言ってんの?」
「本気」
「まあいいけどさ。あたしやお父さんの顔に泥を塗るようなことしといてタダで済むと思ってないよね?」
「もちろんタダでは済まないと思ってる」
そう言って僕は上がってしまう口角を抑えつつ、スマホを取り出し、例のファイルを開く。
二十枚もある中で僕の一番お気に入りの路上ベロチュー写真を表示させ、彼女に突きつけてあげた。
「まあ清算するのは奈々なんだけどね」
奈々はスマホを凝視すると血相を変え、無様に目を見開いた。
「これ、どこで?」
「どこでもいいじゃん。それよりも早く不倫を認めて、離婚届書いてほしいんだけど」
「は?」
「あれ、意味伝わってない?不倫して夫に逃げられた妻として、今度は奈々が悪役になる番だって言ってるんだけど」
冷めた視線を向けながら言うと、奈々はぼそっと俯きながら言葉をこぼした。
「……けんなよ」
なんと言ったか聞き取れないので夕食の時、奈々が僕に言い放ったブーメランを返してあげることにした。
「声ちいさくて聞き取れないよ」
耳に手を当てる僕に、奈々は勢いよく立ち上がり、ものすごい剣幕で迫ってきた。
「ふざけんなっつってんのよ!!てか何?あたしが悪役になる番って!?調子に乗ってんじゃねぇよ!!」
ばちんっ!!
ヒステリックに喚き散らす奈々は平手で僕の頬を勢いよく叩いた。
初めてではないこともあるけれど、それよりももうすぐ彼女らの支配から抜けられる高揚感が勝って痛みを感じなかった。
その代わりに自制心という糸がぷつんと切れて、思わず笑みが溢れてしまった。
「くっ…くふふふ」
「何笑ってんのよ」
「あー、いや。痛くないなって」
「はっ!?」
「まあ…そうだよね。僕の役回りを背負うなんてまっぴらごめんだもんね。いいよ。今のうちにそうやって現実から目を背けておきなよ」
「さっきからなんなのよ!だいたい、あんただって不倫まがいなことをしてたじゃない!」
「してたんじゃない。させられてたんだ」
「ふっ。なんとでも言えばいい。行為に及んでたのは事実なんだし、記録にだって残ってるんだから」
「あー。そうだったね。動画に残してたんだっけ。悪趣味だな」
「なんとでも言えばいい。にしても、まさかあの女に突きつけた動画をあんたの弱みとしても使えるなんてね」
そう言って奈々は勝ち誇ったようなにひるな笑みを浮かべる。
ま、動画に残されていたのはわかっていたから、ちゃんと秘策があるんだけどね。
保険をかけておいてよかったとしみじみと思いながら笑みを絶やさない奈々の前でスマホを開き、ある音声データを再生してやった。
『ねえ……やっぱりやめよ。こんなこと間違ってるって』
「な、なにこれ」
一気に青ざめる奈々の顔は痛快であるが、僕は表情を崩さず、人差し指を唇の前で立てる。
「しーっ!聞こえないだろ?」
『僕…奈々の夫だよ?なんで奈々以外の女性と』
『は?こんな時だけ夫面かよ。セックスもできないゴミカスがさ。一度くらいは役に立てよ』
『でも……』
『あっそ。じゃああんたのせいで病んで頭がおかしくなりそうってお父さんに言うから』
『……やります』
『最初から素直にはいって言えよ』
『でも…表神さんって悪い人なの?社内会議で挨拶したことあるけど悪い人には見えなかったよ』
『は?あんたバカなの?あの女は、上司って立場を利用して、あたしを陥れようとしてんだよ?一々、細かいところまで注意してきて目障りだったんだよねえ』
『だとしても…』
『あ゛?』
『なんでも……ない』
『悪く考える必要ないって。あんたは表神を口説いて、行為に及ぶだけ。非はあの女にあるって風にね。で!あたしがそれをばっちり写真に収めて本人に突きつけてストレスフリーって感じになるの。それともいいの?あたしがストレスフルの状態で?』
『嫌……です』
『でしょ?大丈夫。あんたがヘマさえしなければ、ちゃんとフォローしてあげるからさ。てことでさっそく今からうちに来るから上手くやれよ』
もうこれ以上流す必要はないと音声を止めた。
奈々に視線を向けると、俯き気味に蒼白な顔色で黒目を左右に揺らしていた。
「気づかなかった?録音してたの」
「気づかなかった…」
「だよね。まあ奈々が動画を流すってなら、僕もこの音声を社内中に流してやるってこと。わかった?」
僕の言葉に噛み付く余裕がないのか奈々は両肩を抱え、虚な目を床に向けている。
どうやら彼女の頭の中は今後どうやって保身するかでいっぱいらしい。話を聞く余裕すらもないくらいに。
まあそれでも伝えることは伝えておかないと。そう思って、僕は淡々と言葉を出していく。
「表神さんは奈々のことを大切な後輩として見ていただけだよ。そのための指導だったんだ。奈々がミスしても、表神さんがフォローしてたんだし。残業までしてね。それなのに大切にされてるってわからなかったの?まあわからないからわがままに振る舞ったんだもんね」
「違う」
奈々は小さく呟く。
そんな彼女に僕は笑顔で返答してあげた。
「違わないよ」
「違う。あたしは悪くない。悪役になんかならない」
奈々はついに身震いし始める。だがそれでも頑なに非を認めないならもう埒があかない。なので話をここで切り上げることにした。
「あー…反省の余地なしか。まあ分かり切ってはいたけどね。だとしたらこれ以上何を言っても無駄みたいだから、続きは弁護士を通してにしようか」
「嫌…」
「奈々……僕は表神さんに誓ったんだ。これからは支配されて、間違いをおかしてきた過去と決別して生きていくって。だから奈々も、これからはわがままに振る舞うのではなく、心から他者に向き合うべきだと思うよ。悪役として生きたくないのなら」
言いたいことは言った。
俯いたままの奈々から踵を返し、リビングの引き戸に右手をかけた瞬間、空いていた左手首を掴まれた。
「ごめん…ごめんなさい」
啜り泣きながら奈々が発した震えた声から、今まで僕に見せたことがないくらいに進退窮まっている彼女の様子が目に浮かんだ。
それでも僕は振り向かないと決めた。
「謝られても僕は行くよ」
「お願い。行かないで。これからはちゃんと向き合う。もうわがままにしないから」
なんだ。そんな人間らしい面もあるんだ。
そう感心した僕はふと結婚前にも同じことがあったと思い出した。
あの時は人間味があった学生時代の奈々と重ねてしまって判断を間違えてしまった。全く笑えない酷い選択だったと、あの時の自分に呆れて今は笑みが溢れる。
その笑顔で、さっきの決意を撤回して、最後に仕方なく僕は彼女に向き直って手を振りながら言ってやった。
「もう間違いは繰り返さないよ。というわけだからさ。新しい悪役さん。さようなら。バイバイ」
⭐︎⭐︎
奈々に別れを告げてから、ちょうど一年が経った。柔らかな春風が街を撫でる土曜日の午後、僕はすっかり行きつけになった喫茶店の扉を開けた。
店内を見渡すと、入口から見える窓際の二人席で、笑顔を浮かべた表神さんが控えめに手を振っているのが目に入った。
僕はぺこぺこと頭を下げながら、足早にその席へ向かった。
「すみません。遅くなってしまって」
「いえいえ。私も今さっき来たところなので」
やわらかな声に安心して肩の力が抜ける。
けれど、ふと視線を落とした先に透明なグラスの半分まで減った氷入りのアイスコーヒーがあった。
やっぱり待たせてしまったのだと気づいて、申し訳なさを抱いたまま席に腰を下ろした。
ちょうどそのタイミングでウェイターさんがやって来たもんだから、彼女を待たせてしまった罪悪感と、最近大きくなりつつある緊張感で僕は挙動が不自然になり、辿々しい口調になってしまった。
「あ、えと、ああアイスコーヒーでっ」
「かしこまりました」
顔色ひとつ変えず、すました顔で注文を取り、厨房にすたすたと歩いていくウェイターさん。
対照的に取り乱している僕の様子を見てか、横からくすくすと表神さんが笑った。
「落ち着いて落ち着いて。本当に私も来たばかりですから」
「す、すいません。取り乱してしまって」
とりあえず落ち着こうと言い聞かせ、注文と同時に持ってきてくれたお冷を一気に流し込んでクールダウンを試みる。だが目の前の表神さんの笑顔にまた身体が暑くなる。緊張する。
彼女とは一年半前から、贖罪のために会っている。最初の半年は奈々と婚姻関係にあったため頻繁には会えなかったが、別れてからは毎週土曜日の午後にこの喫茶店で会い、食事や買い物に付き合っている。費用はすべて僕が負担する。
せめて彼女に恋人ができるまでは、贖罪として尽くしたい。その一心だったはずなのに、僕はいつからか彼女に恋をしていた。
緊張感は彼女に対する好意からのもので、身体の火照りもそうだ。おかげで今も額から汗がつーっと降りていく。
慌ててハンカチで拭き取り、ごまかそうと口を開いた。
「今日は暑いですね」
「そうですね。まだ四月中旬なのに」
そう言って他愛のない話でキャッチボールをした後、僕は報告をした。
「あの…今朝、弁護士から連絡がありまして、ようやく身綺麗になれました」
「そうですか。やっとですね」
「はい。やっとです」
「一年ですもんね。最後まで大変だったでしょ?」
「そうですね。彼女も、彼女の父も、思った以上に粘ってきましたから。あ、でも、担当してくれた弁護士が僕の中学からの友人で信頼できる人でしたから。あんまり心配はなかったんですけど」
「あははは。それは頼もしい友人ですね」
「はいっ」
「じゃあようやく北見くんも自分の人生を歩めるんですね」
「え…あぁ、そうですね」
「なら、もう私と会うのもこれで最後にしましょ?」
表神さんの言葉に僕は食いつくように身を乗り出してしまった。
「なんでですか?」
「北見くんは罪の意識から私に会ってくれているのでしょ?」
「い、いや…それは」
「もう私に罪悪感なんて感じる必要なんてないですよ?こうやって毎週会って、楽しくお話しして、お出かけしてくれて。私はとても充実した日々を過ごすことができましたから」
「だとしても僕は表神さんの人生を狂わせた……取り返しのつかないことをしたんですよ!?せめてあなたが幸せになるまで贖罪を果たさないと……僕は彼女らと同じだ」
「北見くん。もう今日で過去とは決別して、区切りがついたんですよ?だからこそ私たちの関係にも区切りをつけて、私もあなたも、これからはそれぞれ前を向いて歩いて行かないと」
表神さんは僕をなだめるように優しさがこもった笑顔を向けてきたが、僕は顔を逸らした。
彼女に好意を抱いて離れたくない一心でいるのに、贖罪を建前にして嘘をついているからだ。
そんな愚かな僕の両手を表神さんの温かい手が包み込んだ。その温かさをたどるように彼女へと視線を向ける。
大きな丸い瞳を細くして、窓から差し込んだ春の優しい日差しにセミロングの栗色の髪は優しく照らされていた。
そんな天使のような笑みを浮かべた彼女は言葉を紡ぎ出した。
「北見くん。これ以上北見くんに優しくされると、私は北見くんの優しさに依存してしまいますよ?」
「え?」
「要するに惚れてしまうってことですね」
くすくすと笑う表神さんに僕はフリーズしてしまう。
きっと僕を憎んで、それでも表神さんは優しい人だから、気丈に振る舞ってくれてるんだって、そう思ってたからだ。
「そ、そんなこと…」
「そんなこと……だめですよね」
「え、いや」
「だからこそ、もう会わない方がいいんです。ようやく私も北見くんも、前を向いて歩いていけるチャンスを掴んだのだから」
そう言って、彼女は伝票を手に取った。
「今日のコーヒー代はこれまでの北見くんへのせめてものお礼と、もらいすぎた分のお釣りとさせてください。ほんとはもっと返したいのだけど」
そう言って笑顔だけを残して立ちあがろうとした表神さんの腕を、僕は無意識に掴んでいた。
「待ってください!行かないで……ください」
「北見…くん?」
大きな瞳を見開いている表神さんに僕は抑えられなくなった本心をひたすら吐き出した。
「僕も、本当は表神さんのことが好きです」
「え…」
「僕がこんなことを言える立場じゃないのはわかってます。……確かに表神さんに会いに来ていたのも最初は贖罪のためでした。だけど、表神さんのことを知るたびに僕は……惚れてしまいました」
「北見くん…」
伏し目がちになった表神さんを見て、今言葉にしたことのおこがましさに僕は我に帰り猛省した。
「す、すいませんっ。やっぱり今の言葉はなかったことにしてください。僕は汚い人間なので。……とにかく今日のお代も僕がお支払いしますから」
表神さんの右手に握られている伝票を取ろうとした瞬間、彼女の左手が僕の裾を掴んだ。
彼女の顔を見ると、伏し目がちではあるが頬を赤らめて口を開いた。
「でしたら、北見くんが私を幸せにしてくれませんか?」
予想外の返答にまたもやフリーズしてしまい、目が合う。
すると表神さんは破顔させ、笑みを浮かべた。
「私だって北見くんを……北見くんを笑顔でいっぱいにしてみせます。だから北見くんの笑顔を私にください。それだけで私は幸せ者ですから」
その言葉は、ようやく僕を悪役から卒業させた。
まだまだ未熟者で勉強中ですので、おかしい点や不明な点、また誤植、誤字、脱字があればぜひ教えてください!
あ、友達のように気軽に教えてくださいね!
もし仮に、上記に当てはまらず、純粋に良かったと思っていただいた場合はお星様★★★★★をお願いします。
めっちゃ喜びます(๑˃̵ᴗ˂̵)
感想はいただけるとよだれを垂らして喜びます!
もちろんいただいた感想は余すことなく読ませていただきます。
ただ返信はできませんのでご了承下さい(>人<;)
一方的に書き込んでいただく感じでよろしくお願いします!




