這い寄る闇
安能が韓遂の元に来てから、十ヶ月が過ぎようとしていた。
成公英の話によれば、小蘭という女中との関係はかなり良好ということだった。
策を弄するなら今が好機だろう。鈴を鳴らして使用人に成公英を呼び出させた。
成公英が部屋に来ると、韓遂は早速、万吉殺害の件を話す。
「成公英よ。首尾はどうだ?」
「はい。此度は毒を使っての暗殺と致します」
「毒か。それならば女中がやはり適任だな。どのように指示をするかの? 脅すか?」
「そのやり方が無難かと。ただ、ここで我々の動きを安能に察知される訳にはいきません。我々の指示を隠す必要がございます」
韓遂は成公英の言葉に耳を傾けた。
「審端という男を覚えておいでですか?」
「市場の裏でコソコソ動いているやつだな。そいつを使うのか?」
「はい。毒の入手から女中の脅しまで、一貫してやらせる予定です」
「なるほど。その審端という男は使えるのか?」
「汚れ仕事には適任かと」
汚れ仕事か。裏の世界で住む人間には打ってつけの仕事という訳だ。
しかし、韓遂には一つの懸念があった。
「我々との関係を疑われる心配は?」
「猜疑心の塊のような男ですが、そこは大丈夫と考えます」
「安能にバレる事は避けたい。事が終われば始末しておけ」
「承知しました」
安能という存在がこちらにとって脅威とならないようにせねば。
厄介なものは、こちらの手中に置く。場合によれば、馬騰を揺さぶる手にもなるかもしれない。
才能のあるものを早々手放す馬騰ではあるまい。
万吉よりも余程価値があるというものだ。馬騰がどのような顔をするか今から楽しみだ。
◇
馬騰からの手紙で万吉の護衛はあと二ヶ月と書かれていた。
この一年ほどで、万吉も生活には慣れている。小蘭のことも慕っているので俺が離れても、生活は回るだろう。
ただ、少し離れ難い気持ちが俺には湧いてきていた。何も知らぬ土地で縁が深くなった小蘭。
俺は彼女の笑顔を見るのが好きであった。恋心にも近いものが芽生えている気がする。
ここで去るのは後悔が残りそうだ。いつかこの心だけでも伝えた方が良いのだろうか。
いや、拒絶された時の事を考えると、気後れしてしまう。
そうして、悶々とした日々を過ごすこととなった。
◇
今日の料理を考えながら、市場を歩く。
万吉の好みと、安能の好みは少し違うので、どちら寄りにするかを考えないと。
昨日は万吉の好物を作ったので、今日は安能の好きな料理にしようか。
そう考えながら歩いていると、背後にピタリと人がついていることに気づいた。
「動くな。動けば刺す」
背中に突き付けられた何かが、肌にチクリと刺さった。
その痛みは私の体を硬直させるに十分なものだった。男は耳元に口を近づけて来た。
「その先の路地裏に行け。断るようなら」
肌を刺す痛みが少しだけ強くなった。逃げるような素振りをしてしまえば、相手を逆上させてしまうかもしれない。
ここは従うしか、自分の身を守れない。私は男の言う通り、路地裏へと向かった。
路地裏には二人の男が立っていた。どちらも麦わら帽子を深くかぶっており、その表情は読み取れない。
「怖いことをして悪かったね。お嬢さん」
悪びれている様子は微塵も見せず、男は言った。
「な、なんの用ですか?」
「ちょっとお願いしたいことがあってね。お嬢さんに手を貸してほしいのさ」
「お願いごと?」
私の問いかけに、男は懐をまさぐると紙を折りたたんだものを見せてきた。
「この中に入っているものを、万吉様の食事に混ぜる。ただ、それだけのことだ」
「そ、それは?」
「毒だ。眠るように死ねるやつさ。苦しむこともなかろうて」
男のニヤリと笑った。
何故、毒を万吉に飲ませようとしているのか。この男達は何を考えているのか。
それを問いただそうを口を開けた時、男が人差し指を口に当てた。
「余計な問答はなしだ。お嬢さんは受けるしかない。家族を皆殺しにされたくなければね」
「えっ?」
「いや、三族皆殺しだな。それくらいは造作もなくできる。お嬢さん、受けてくれるかな?」
三族皆殺し。親兄弟だけでなく、他の親族まで容易に殺すことができる。そんなことを言われてしまえば、私に拒否権はなかった。
男が差し出した折りたたんだ紙を手にすると、私は生唾を飲んだ。
万吉の屈託のない笑顔をが浮かぶ。家族のように慕ってくれる万吉を殺すようなことは。
「決行は今日だ。もし、明日、万吉が生きていたら……。あとは分かるね?」
更に追い打ちをかけられてしまった。
毒を飲ませる前に役所に逃げ込めば、なんとかなるのではと思っていたが、その猶予はない。
どうする。どうしたらいいの。
ふと、安能の顔が浮かんだ。安能に相談すれば、もしかしたら。
でも、それは安能を巻き込んでしまうことになる。安能にもしものことがあったら、私は。
「さあ、お嬢さん、もう戻りなさい。くれぐれも気取られぬように」
男はそう言うともう一人の男を伴って、私が来た路地裏の道を通り、市場へと消えて行った。
私はこれを万吉に飲ませることができるのだろうか。
震える手で毒薬の入った紙を手にして、一人静かに泣いた。
◇
陽が沈みかけた頃に小蘭が帰ってきた。
普段より遅めの帰宅だ。料理を手伝おうと立ち上がった時、小蘭が声を上げた。
「安能様、今日は私だけで大丈夫です。ゆっくりされていてください」
俺の顔を見ずに言った。普段と様子が違うことに違和感を覚えたが、小蘭がそう言うならこれ以上言うのは無粋であろう。
俺は万吉に文字を教えて夕食を待つことにした。
「夕食ができあがりました」
小蘭の声が聞こえたので、俺と万吉は食卓に着いた。
「私は、少し片づけたいものがあるので、お先にどうぞ」
「片付けなら、俺も手伝おう」
「いえ、すぐに終わるので。先に食べていてください」
やはりここでも小蘭らしくない。何か抱えている悩みでもあるのだろうか。
「小蘭、今日は様子がおかしいぞ。何かあったのか?」
「何もございません。鍋を焦がしてしまったので、固まってしまう前に綺麗にしておきたいのです」
俺の問いかけに、小蘭は背中を見せたまま返してきた。
ますます、様子がおかしい。椅子から立ち上がり、声を掛けようとしたが、小蘭はすぐに屋敷の外へと出て行ってしまった。
「小蘭はどうかしたのですか?」
万吉も何か気になったのだろう。少し不安げな表情を見せた。
「大丈夫だ。明日にはいつもの小蘭に戻るはずさ」
「そうですね。では、食べましょう」
「ああ、食べようか」
◇
夜も更けてきたのだが、眠気が来なかった。
なんとなく落ち着かない。今日の小蘭の態度のせいか。
もし、明日もあの様子だったら話を聞こう。いつもの小蘭の笑顔を見たいと思っている。
眠れない夜を過ごしていると、床がきしむ音が聞こえた。
このような夜更けに誰だ。俺は部屋の隅に立てかけていた剣を手にした。
ゆっくりと歩いてくる音に神経を集中させていると、部屋の戸の前で音が止んだ。
少しの沈黙が流れると、戸が静かに開けられた。
闇の中では誰だか分からない。俺は思い切って声を掛けることにした。
「何者だ?」
「安能様、小蘭です」
「小蘭か。驚かせるな。このような時間にどうかしたか?」
俺は安心したので、油に火を点けた。
そこには涙を流して、立ち尽くす小蘭の姿があった。




