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小蘭

 私はボーっと空を眺め、自由に飛ぶ鳥を愛でていた。

 こうしている時間は何故か心が落ち着く。ここではないどこかに行けるかもしれない。

 鳥のように羽ばたき、見知らぬ土地で穏やかに過ごす。そんな夢物語を思い描いていた。


小蘭しょうらん、話を聞いていたのかい!?」

「はひっ!?」


 背中が飛び上がりそうなほど驚き、変な声を上げてしまった。

 腰に手を当てて顔を赤く上気させているのは、韓遂に仕えている女中長の恵泉けいせんであった。

 私は慌てて頭を何度も下げた。


「すみません。すみません」

「まったく……。今日からあんたは北町の屋敷の女中として働くことになったから。さっさと荷物をまとめて出立しな」

「北町の屋敷って、あの空き家ですよね?」

「はあっ? あんた聞いていなかったのかい? あそこに馬家の子供が住むことになったんだ。あんたはそこに暮らすのさ」


 まったく聞いていなかった。でも、ここで恵泉に質問すると返って機嫌を損ねることになるのを知っている。

 とりあえず、北町にある屋敷で働くことは分かった。私は女中が使う部屋にある私物をまとめると、その足で北町へと向かった。

 どんな人が住むのだろうか。気難しい人だったら嫌だなぁ。


 私は正直言って、要領がよくない。よくへまをしては周りを怒らせている。

 なんでこんな私が屋敷勤めになるのか。体のいい厄介払いなような気がしてきた。

 恵泉の話では、馬家の子供が住むという話だが、馬家と言えば韓遂と敵対している馬騰の一族を思い浮かべてしまう。


 何度も衝突している馬騰の一族が来るとは思えない。

 私のような女中が選ばれたということは、きっと大した身分の人じゃないはずだ。

 でも、面倒な性格な人だったら、どうしよう。ここでもへまをしてしまえば、職を失ってしまうかもしれない。


 路頭に迷うことにならないよう、細心の注意を払って働かないと。

 頑張れ、私。自分を鼓舞しながら、北町の屋敷へと向かった。



 韓遂の屋敷を後にした俺達は使用人の案内で北町にあるという屋敷に到着した。

 そこは屋敷と言えるかどうか微妙な佇まいをしていた。屋根は傷んでおり、壁も所々が剥げている。

 建物自体もこじんまりしていて、庭も雑草で溢れておりあまり手入れがされていない。


 人質にはこの程度がお似合いだということかもしれない。


「あ、阿能兄さん、ここに住むんですか?」


 実家の屋敷との落差を感じているのだろう。開いた口がふさがらないようだ。

 とはいえ、ここに住むのは決定事項だ。


「万吉、住めば都、という言葉がある。快適に過ごせるように、俺も頑張るから万吉も一緒に頑張ろうな」

「が、頑張ります……」


 頼りない返事の万吉を連れて、屋敷の門をくぐり玄関を開けると屋敷内から埃っぽい臭いがした。

 これは中も相当年季が入っているようだ。掃除から始めて、今日の寝床くらい綺麗にしておこう。

 せめて使用人の一人や二人は付けてくれると思っていたが。


 この扱いでは、期待できないかもしれない。

 思わず嘆きそうになっていると、背後に気配がしたので振り返った。

 そこにはまだあどけなさを残した少女がいた。


「あ、あの、私、今日からここにお勤めさせていただく、小蘭と申します。ここのご主人様はどなた様でしょうか?」


 小蘭と名乗った少女は緊張した様子で早口で言うと、俺と万吉を交互に見た。

 

「俺は阿能。こっちが万吉だ。ご主人となると、万吉のことになるな。今日からよろしく頼む」

「万吉様と阿能様ですね。あの、ご無礼のないように気をつけます」

「そんなにかしこまらなくても、大丈夫だよ」

「いえ、初めが肝心なので!」

「そ、そう?」

 

 小蘭の勢いはすさまじく、俺と万吉を押しのけるように屋敷の中に入った。


「まずはお掃除ですね。井戸から水を汲んでまいりますので、おくつろぎください」


 そういうと、小蘭は屋敷の奥へと入っていってしまった。

 くつろげと言われても、この屋敷のどこでくつろげばいいのだろうか。

 万吉と目を合わせて、肩をすくめた。


 ドタドタと足音を激しく鳴らし、小蘭が返ってきた。

 手には小さな桶と、布を手にしている。ふん、と気合を入れた小蘭が布を濡らして、床を拭き始めた。

 なんとなく手持ぶたさになった俺は、持っていた手ぬぐいを桶の水に浸して、小蘭にならって床を拭く。


「あ、阿能様。そのようなことは私にお任せください」

「俺もここに住むのだ。自分の家のことでできることはやっておきたい。万吉、手伝ってくれ」


 そう言って、床を一心に拭く。素直な万吉は文句も言わずに、俺達と同じように床を磨き始めた。



 夕方になると、屋敷の寝床は綺麗に掃除することができた。

 そうこうしていると、韓遂の使用人が俺達を呼びに来た。夜に宴を催すのをすっかり忘れていた。


「小蘭、俺と万吉は韓遂様の屋敷に招待されているので行ってくる。ここまで掃除をしてくれてありがとう。後は自分の寝所の掃除でもしておいてくれ」

「は、はい。分かりました。お気をつけて」


 小蘭に見送られて、俺達は馬騰の屋敷へと向かった。

 屋敷に着く頃には陽は落ちていた。宴席の用意されている広間に入るよう促されたので、万吉を先頭にして広間へと入った。

 中には多くの人々が集まっている。だが、広間はしんっと静まり返っていた。


 宴を前にしているというのに、この静けさはなんだ。

 いや。静けさというよりは、敵意のようなものを感じる。

 少し考えれば、この静けさの正体が分かった。俺達は人質だ。誰も心から歓迎するものなどいない。


 針のむしろの上にいるような雰囲気に飲まれたのか、万吉が俺を不安そうな顔で見てきた。

 俺はこくりと頷き、万吉の手を取って一緒に主賓の席へと向かった。

 無言の空間は心に来るものがあるな、と思いながら席に座る。静寂が耳にうるさいというのはこういう時に使う言葉かもしれない。


 しばらく待っていると、広間の扉が大きな音を立てて開いた。

 そこには顔に赤い二つの線の化粧をした韓遂がいた。上半身裸で大きな腹を揺らしながら踊り、こちらに近づいてきた。

 それを見て、客人達がどっと笑い始めた。

 

 これが腹芸か。ここでも気さくな雰囲気を醸し出している韓遂を見ると、とても戦をしていた相手とは思えない。

 だが、忘れてはいけない。この人は乱世で生きている男で、馬騰の妻子を容赦なく殺したということを。


 宴席は韓遂の登場に始まり、酒と料理が運ばれて、やっと宴席らしい賑わいとなった。

 韓遂は万吉に何かと面倒を見るように話しかけていた。だが、それを微笑ましく見ているものは誰もいなかった。

 酒を飲み、料理を食らい、この場に酔いしれているように見えるが、その腹の内では誰もが敵意を向けている。


 これが敵の腹の中か。俺達は韓遂の手中にあることをまざまざと見せつけられた宴席は、夜が更けるまで続いた。

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